河信基の深読み

読者各位様:本「河信基の深読み」は順次、北朝鮮投資開発戦略研究所(2019年4月〜所長・河信基)の公式HPへ移行して参ります。

酒鬼薔薇聖斗・教育

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

 自分の幼い娘を橋から突き落としたとして死刑を求刑された畠山鈴香被告の獄中日記が週刊朝日に掲載されたが、読んでみて、「お母さん」と叫びながら落ちていった(と報じられた)彩香ちゃん(9歳)があまりに不憫で、暗澹とした気持ちにさせられた。
 新聞広告には「死んで楽になりたい」「泣きたくても涙が出てこない」・・・と一部紹介されていたので、てっきり、わが子への懺悔かと思った。というよりも、彩香ちゃんのためにもそうあってほしかったのだが、不埒と言うべきであろう、書き連ねられているのは大半が元恋人への恨みつらみであった。

 日記は、畠山被告に対する精神鑑定を行った鑑定医が「何を書いても良い」と書かせたものを週刊朝日が入手し、秋田地裁での一審公判が終了したため掲載したと言う。
 「気が付くと元彼氏の事ばかり考えています。苦しくて涙がでそうになります」と、7年一緒にいたという元恋人への未練を吐露している。「いつも優しく包んでくれた」と、父親から虐待を受けて幼少期を過ごし、彩香ちゃんが生まれ半年で離婚した不遇の半生を慰めてもらいたかった気持ちは分からないではない。
 だが、そこにあるのは1人の生々しい女である。母性がほとんど感じられないのはどうしたことか。
 
 西脇鑑定医は無理心中を指摘するが、畠山被告は「たえられない。思い出せない」と否定し、「弁護士と話しているうちに彩香の左側にしゃがみズボンを持っていた事や尻もちをついていた時耳鳴りや目の前が白くなった事を思い出しました。その他橋の上での細かい事はほとんど覚えていない」と書く。
 畠山被告は、抱きつこうとした彩香ちゃんを「思わず左手で払った」と語っているが、それが、「汗かきの彩香が急に迫ってくるのがちょっと怖い感じだった」ためだったのか、故意だったのか、法的には測り難いところがある。
 
 以前、「法以前の、自己の内なる道徳・倫理意識との問題である」と指摘したが、獄中日記を読み、改めてその感を強くする。
 畠山被告はわが子を“道徳的”に殺したことに深い自己嫌悪に陥り、意識の深層で記憶を消そうとしていると思われる。人間として、母親としての最低限の良心の葛藤であり、その意味では、綾香ちゃんへのささやかな供養と言えるのではないか。
 また、そうでも考えないと、彼女と同じ時代の空気を吸っている我々も、人間不信の闇に引き込まれかねない。
 http://blogs.yahoo.co.jp/lifeartinstitute/folder/144162.html?m=lc&p=2

 それにしても、先ほども大阪府寝屋川市で6歳の女児を虐待し、意識不明の重体にした男が逮捕されるなど、最近はこの種の事件が多い。同居していた実母は「自分が首を絞めた」と男を庇ったが、これも、肉欲で母性を失った一例だろう。
 何故なのか?

 その種の子殺し事件が、今もこのコラムを書きながら聴いている韓国のKBSラジオで報じられた記憶はない。不動産トラブルの腹いせに国宝一号に放火する不埒者はいるが、わが子を手にかける例は今のところは聞かない。
 韓国であまり起きないことが日本で続出するのは国民性と関連する、と短絡的に考える人もいそうだが、そうではあるまい。

 韓国よりも歴史が長い日本社会の産業化が、主因と思われる。
 母性の劣化ないしは喪失は、金銭で個人の生命や価値まで計ろうとする人間疎外や虚無の闇が、全社会的に広がっているからであろう。「太陽のせい」でアラブ人を射殺したムルソーが、かの酒鬼薔薇聖斗となって少年の中に現れ、今は畠山鈴香たちが子供たちを脅かしているのである。
 その背後には労働疎外と資本の物神化があると考えられるが、それについては別の機会に譲る。

 人間の生命が商品化されると、金次第で何でも仕出かすラスコーリニコフのようなキャラが解き放たれる。
 最近、生命保険への規制を緩和し、子供を被保険者に含めようとする動きが出ているが、多くの子供たちをリスクに晒す危険性がある。子供たちを食い物にする金融資本の策略に、嵌ってはならないのである。

 極めて残念なことだが、母親はわが子を身をとして守るとの倫理が崩れつつあることを前提に、子供たちを守る方策を考えねばならない。
 

 五日白昼、両手の包丁を振りかざし、東京都品川区の商店街を疾走しながら次々と5人の通行人に切りかかった16歳の少年は、「ギャー、助けてくれよ!」と、加害者とも思えぬ奇声を発していた。
 防犯カメラが捕らえた犯行の様子だが、「神の裁きを!」「なめるんじゃねぇっ」と叫んでいたとの目撃者談もある。

 週刊フライデー(1/25)によると、防犯カメラが設置された戸越銀座商店街の日焼けサロン近くの薬局の女店員は、「店に逃げ込んできた男性たちが必死に押さえつけていたドアの向こうで、追いかけてきた少年が『神の裁きを!』と叫びながら包丁でドアのガラスを何度も叩いた」と証言する。
 駆けつけた警察官に殺人未遂容疑で取り押さえられたが、「組み伏せられても全く無表情であった」と別の目撃者は語っているという。

 私立高校2年という少年の心に、何が起こったのか? 
 少年の言う“神”とは何なのか?

 人類史を変えた最大の発明は、恐らく火と神であろう。
 前者は物理的エネルギーとなって経済を発展させ、後者は精神文明の精神的エネルギー源となった。他方で、使い方を誤り、多くの悲劇をもたらしてきた。
 
 少年は中学校を転校し、高校入学後も通信教育を受けるコースに転籍していたが、某紙で副校長は「成績はトップクラス」と語っている。
 当人は「人と話すのが苦手。友人もいない」と供述し、家庭や学校で人間関係に悩み、ストレスを抱えていたようだが、勉強に終われ、友達と遊ぶことを忘れた秀才型の少年に良く見られるケースだ。

 自ら神を創ったくらいだから、IQは高い方であろう。
 「ギャー、助けてくれよ!」との叫びは、その“神”に救いを求め、自ら最後の審判を下したのであろうか。

 少年は数年前から精神的に不安定になり病院に通院していたため、東京地検は責任能力があるか簡易鑑定を行う方針というが、安易に精神病者のレッテルを貼り付け、一件落着というのだけはやめてもらいたい。
 年齢はかなり上だが、昨年暮にも長崎県佐世保市のスポーツクラブで2人死亡、6人重軽傷という無差別的な散弾銃乱射事件が起こり、犯人は現場から5キロ離れたカトリック船越教会敷地内で自殺した。江戸時代からの隠れキリシタンの家系で幼児期に洗礼を受けていたというから、これも自分の神に救いを求めたケースだろう。

 いずれも社会的、法律的には身勝手な犯罪行為だが、それだけで片付けてしまっては本質的な問題は見えてこない。
 類似の事件が続発しているという事実は、社会にそうした悲劇を引き起こしている原因があるということである。
 
 9日夜に起きた青森県八戸市の一家三人殺害事件の犯人、長男(18)にも、共通した“あるもの”を感じさせる。
 翌朝、八戸駅前で警察官に逮捕された時は、「近づくな」と大声で叫びながらサバイバルナイフを振り回した。取り調べには落ち着いて応じ、「3人を自宅で殺害後、遺体を布団の上に川の字に並べた。なぜかはいいたくない」と供述しているという。
 小学生のころから家に引きこもるようになり、家族にナイフを突き付けるなどの奇行や暴力を振るっていたというが、必死に育ててきた子供の凶刃に倒れた母親(43)や、将来の夢を断たれた弟妹の無念はいかほどであったろう。母親は「精神的におかしくなった」と周囲に漏らしていたというが、家庭内では解決できないものがあったと思われる。

 品川区の通り魔少年は、警視庁の調べに「直前に母親とトラブルになった」と、母親に無視されたと感じたと供述しているが、八戸市の少年と異なり、「誰でもいいから皆殺しにしたかった」とナイフの矛先を世間に向けた。
 恐らく彼の“神”が、そうせしめたのであろう。

 現代の大量消費社会は規格外の商品がはじき出され、人間の精神世界も汚染されている。
 規格外の考えの持ち主(偉大な発明・発見はそこから生まれるのだが)は無視され、疎外される。
 学校教育の場にまでそれが蔓延することで子供たちが追い詰められ、いじめ、不登校やひきこもりで傷つけあっている。そして、一部が極端な行動に走ることになる。

 殺人事件にまで発展するのは、「汝人を殺すな」という根本的な規範が揺らぎ、いつの間にか「何で人を殺してはいけないの?」に置き換えられてしまったからだろう。
 それを犯行声明で社会に突きつけたのが、1997年に神戸で起きた児童連続殺傷事件の犯人、酒鬼薔薇聖斗であった。
 
 さらに視点を広げると、実は、神々の闘争は日本社会だけの現象ではない。
 今や地球規模で、規格外の考え、価値を否定し、抹殺する動きが国家的な規模で拡散し、同時にそれへの反発も強まり、紛争が絶えない。
 品川区や八戸市の少年たちの暴走は、現象形態は全く異なり、地理的にも相互に遠く離れているが、根源的には、イラクやパキスタンで頻発するイスラム教徒の自爆テロに通じるものがあるように思える。

 それらはテレビなどメディアを通して日常の茶の間に入りこみ、不断に「何で人を殺してはいけないの?」と問いかけている。
 大人たちがそれに答えられず、ただおどおどしているのを見ながら、明らかに子供たちは影響を受けているのである。

 14歳の少年・酒鬼薔薇聖斗は「俺は真っ直ぐな道を見失い、暗い森に迷い込んでいた」と作文で告白したが、暗い森を彷徨う人々が、大人も子供も、増えこそあれ減ることが無い。
 社会が酒鬼薔薇のような「透明な存在」を毎年、拡大再生産しているからである。

 カラマーゾフの兄弟の中で末弟のアリョーシャだけはゾシマ長老の慈愛に導かれ常に他人を思いやる敬虔な修道生活を送るが、拝金主義が横行する俗物社会では、彼は理想像に祭り上げられ、時には“変人”と笑われる。
 その一方で、父親のフョードルと借金や遺産を巡って争い、犯人と間違われてシベリア流刑となった長男のドミートリイや、虚無的なイワンのような人物が増えていく。

 生きる価値がない人物だと道徳的に父を殺し、現実の父殺しとどこが異なるのかと苦悩するイワンは、酒鬼薔薇聖斗そのものである。
 私は酒鬼薔薇聖斗の犯行文や「懲役13年」という作文を読んで、彼を描いてみたいという衝動に駆られ、専門分野の政治・文化評論とは異色の『酒鬼薔薇聖斗の告白』を上梓したが、実は、イワンを意識していたわけではない。
 そのことを気付かせてくれたのが、『サンデー毎日』のサンデーライブラリー(1998年8月9日)に掲載された高橋義人・京大教授(ドイツ文学・思想)の書評「『なぜ人を殺してはいけないの?』 あなたは子どもに説明できますか。」である。
 以下がその一部だ。

 酒鬼薔薇聖斗ともう一人の自分との対話を描いた第四章(神との遭遇)は本書の白眉をなしている。
 作者は酒鬼薔薇聖斗を悪魔として捉えているが、この対話は、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』におけるイワンと悪魔との対話を彷彿させる。
 酒鬼薔薇聖斗は既成のあらゆる価値を否定する。『殺人は道徳に反するなんて固定観念は捨てろ。・・・人権を尊重しろ、人命を尊べ、物を盗むな、姦淫するな・・・こういった説教は口先だけのまやかしに過ぎない』。
 『猫にも飽きてきたし、人を殺すしかないだろう。・・・お母さんから自由になり、自分を解放するにはそれしか道はないのだ』。

 『カラマーゾフの兄弟』においてイワン・カラマーゾフは、神もなければ不死もない。この世において愛は不可能である、したがってあらゆる行為は許されていると考えるにいたった。
 イワンのこの思想を実践したのが、異母兄弟のスメルジャーコフで、彼はカラマーゾフの兄弟たちの父フェードルを殺し、その罪を兄のドミトリーになすりつけた。イワンは心の底では世界を愛し、他人を愛したいと望んでいたものの、現実には隣人を愛することはできないと知り、この世を告発していた。
 他方、神戸の少年Aには愛が拒まれていた。
 彼は三人兄弟のなかで自分だけが愛されていないと感じていたし、学校の先生にもクラスケートにも好かれていなかった。愛されることを知らなかった少年は、次第にこの世を憎むようになった。
 彼はもちろんイワンのような思想家ではなかった。しかし、彼が酒鬼薔薇聖斗にそそのかされるままに殺人を犯し、死体の頭部を自分の中学校の正門の前に置いたとき、彼の反社会的・反動徳的な想念はその頂点に達した。

 この書評を読んで私は、酒鬼薔薇聖斗を描いてみたいという衝動に駆られた理由を自覚した。
 無意識の深層で、遠い学生時代に読んだ『カラマーゾフの兄弟』が蘇ったのであろう。

 酒鬼薔薇聖斗現象は日本だけでなく、先進国に広がる共通の病理である。
 佐世保乱射事件の馬込容疑者は、今年4月に米国で起きたバージニア工大乱射事件のチョ・スンヒを髣髴させる。疎外が彼らの精神を病ませ、暴発させたのであろう。刑罰を重くしたり、銃を規制するだけでは、事件の再発は難しい。
 http://blogs.yahoo.co.jp/lifeartinstitute/17906735.html

 弱肉強食の競争社会に投げ出された我々は、何のために生きるのか?と、日常の中でシビアに問われている。ドストエフスキーが投げかけたテーマが、我々一人一人に重く迫っているのである。ドミトリー、イワン、アリョーシャのうち、誰になるのかと。
 その意味で、ドストエフスキーが読まれることには必然性があると言えよう。

 迷える人々がドストエフスキーに解決を見出せなくなった時、恐らく、より熱くなり、マルクスが蘇ろう。
 働いても食えないワーキングプアの出現、つまり、福祉国家が解消したと言われた絶対的貧困の再現は、現代が19世紀末のロシアと部分的に重なっていることを、そして、「歴史は螺旋を描くように発展する」と喝破したマルクスのテーゼの正しさを証明しているように思える。

開く トラックバック(1)

 読書離れに逆行する異変が起きている。世界文学の傑作と高く評価されながら、難解と敬遠されてきたドストエフスキーの名作『カラマーゾフの兄弟』が飛ぶように売れている。
 マンガしか読まず、読解力が世界レベル以下と冷笑される若者層で読者が増えているというから、これはもう事件、一つの社会現象と言うべきだろう。

 亀山郁夫氏の読みやすい口語訳が身近なものにしたようだが、単に形式上の話だけではあるまい。
 流行の、それが故に読書離れを起こしてきた、軽佻浮薄な売文や小さな殻の私小説に飽き足らなくなり、偽者横行とモラル崩壊のアンチテーゼとして、本物志向が強まっているとみられる。
 
 ドストエフスキーは時代の鏡である。
 熱いヤツはマルクス、醒めたヤツはドストエフスキーと言われたほど、多感な青年たちの必読本であったが、無気力・無感動・無関心の三無主義が広まった70年代中盤以降、一部読者マニアの愛好本でしかなくなった。
 魂の救済という重いテーマが、右肩成長の高度成長時代到来とともに日本中を覆った「一億総中流化」の流れに埋没してしまったのである。

 だが、格差拡大、生活破壊、金融恐慌、テロや戦争、地球温暖化などへの不安や重圧が日々押しかぶさってくる中、バラ色の「一億総中流化」幻想が崩壊し、いつまでもぬるま湯的な日常に浸って生きていくことが難しくなってきた。
 何のために生きるのか? カネのために、自分が生きるために他を犠牲にしてもよいのか? ・・・ドストエフスキーが投げかけたテーマが、我々の日常の中でシビアに問われるようになってきたのである。

 毎日のように新聞、テレビが伝えるあれやこれらの事件は、そのテーマに敗れた者たちの悲惨な記録集である。
 14日にも佐世保のスイミングクラブで散弾銃乱射事件が勃発した。至近距離から幼馴染の親友らを射殺した後、生後間もなく洗礼を受けた教会に逃げ込み、自殺した30代の犯人の精神世界は、『カラマーゾフの兄弟』や『罪と罰』の世界そのものではないか。ある意味でそれを超えた、おぞましいものをすら感じさせる。

 壮大な未完結の傑作と言われる『カラマーゾフの兄弟』は、粗野な好色漢であるフョードルの殺害を巡る三人の息子たちの葛藤が描かれる。真犯人はフョードルの隠し子であるが、他の息子二人も、抑圧的な父親への反発や金銭への執着心などから父親殺しの十分な動機を有し、道徳的には有罪であるため、事態は複雑な展開を示す。
 アマゾンのカスタマーレビューをのぞくと、貪欲な守銭奴であるフョードルに対して「強烈な存在感」「なんというか魅力的だ」といった評が散見されるのは、グローバライゼーションや小泉「改革」以降、禿げたかファンドの盛行とともにその種の人物が幅を利かす日本社会の実相を映している。

 だが、俗物のフョードルは単なる引き立て役に過ぎない。
 真の主人公は、観念の中で、下劣極まりない父親のフョードルを否定し、殺したイワンである。真犯人は他にいるが、道徳的に父を殺した自分は、現実の父殺しとどこが異なるのかと苦悩する。
 個人の内面に踏み入らず、外面に現れた一定の行為のみを犯罪とし、罰するのが近代の法律だが、道徳との境界は一般に思われているほど明確なわけではないのだ。

 ドストエフスキーが実存主義の先駆者と評されるのは、『罪と罰』のラスコーリニコフやイワン的な人物が「普通の人」になる時代の到来を予測したからに他ならない。
 「太陽が熱かったから」とアラブ人を殺し、死刑になったムルソーは、それを実証した。無論、ムルソーはカミュの『異邦人』の主人公、フィクションだが、ムルソー的な人物が新聞を賑わし、珍しくなくなったのである。

 そのムルソーを子供の世界に引き下ろしたのが、10年前に神戸で連続殺傷事件を起こし、少年の首を校門に晒した酒鬼薔薇聖斗であった。
 酒鬼薔薇聖斗は犯行声明文で「人を殺して何が悪い?」と社会に挑戦状を突きつけたが、大人社会が動揺し十分な回答を示さないでいるのを尻目に、その後も多くの酒鬼薔薇予備軍が現れている。
 佐世保の散弾銃乱射事件の犯人とされる馬込容疑者も、あるいはそのような人物であったのだろうか。

 イジメはなくならない。どこでも、いつでもありえるから、初期対応が重要である。
 イジメが社会問題化したのは最近のことで、不断に姿を変え、現象形態は多岐にわたるが、迅速な初期対応をするにはその特徴をしっかりと捉えておくことが不可欠となる。

 ある程度類型化し、韓国などと比較しながら日本的特徴なども押さえて置くのも、臨床的に有効であると思われる。
 日本のイジメに該当するのは韓国ではワンタと呼ばれるが、文化のルーツを同じくする日韓でもかなり様相は異なる。
 
 文部科学省が15日発表した「問題行動」調査によると、日本全国の学校で06年度に確認されたイジメは12万4898件にのぼる。05年度の約2万件から一気に約6・2倍に増えたという。
 増加理由として、イジメの定義や調査方法を変えたこと、学校側の姿勢の変化が大きいことを挙げるが、要するに、形態が多様で定義が難しいということである。
 同省によると、06年秋にイジメが社会問題化したことを受け、その定義から「一方的に」「継続的」といった限定的な表現を削除した。対象も公立校に国立・私立の計約2500校を加え、子どもから直接聞くなどアンケート方法を採用した。
 
 それによると、小・中・高・特別支援学校の55%にあたる2万2159校で1件以上のいじめが確認され、約81%の10万1089件は「解消」している。小学校約6万1000件(05年度の約12倍)、中学約5万1000件(同4倍)、高校約1万2000件(同6倍)、特殊教育諸学校384件(同5倍)であった。
 内容は、ひやかしやからかい(66%)、仲間はずれや集団で無視(25%)が多く、パソコンや携帯電話での中傷などは4%だった。
 件数は熊本県で前年の約125倍となる1万1205件を記録し、全国の1割弱を占めた。1000人あたりでは、熊本50・3件、以下福井、岐阜、石川、大分と続く。最少は鳥取(2.1件)であったが、その差は、調査手法の違いも影響した。
 イジメ以外の問題行動も調べ、暴力行為は過去最多となり、小中高の総数で4万4621件。神奈川7049件、大阪5816件の両府県で全体の3割近くを占めた。

 日本のイジメの特徴は、「無視」が多く、内向化していることにある。
 具体的な検証はこれからだが、文化論的には、イジメは産業化の過程で伝統的な村八分が形を変えた側面があると私はみている。

 そのことは、韓国と比べると明瞭だ。
 韓国では、日本のメディアがイジメをしきりに取り上げた1990年代後半頃から韓国メディアにイジメという言葉が現れた。当初は特異な日本的な社会現象と受け取られ、そのまま이지메と日本語読みで報じられていた。
 そのうち、テレビなどが韓国におけるイジメと似た現象を取り上げ、「集団ケロッピム(いやがらせ)」と報じていたが、ここ数年は「激しい」「つまはじき」を意味する2語を合成したワンタという新語が一般に通用するようになった。
 
 ワンタの被害者は小、中、高 学生の5人に1人、4人に1人は加害者と言われるが、その大半は、日本の文科省が「イジメ以外の問題行動」にあたると分類する暴力行為である。
 文科省にあたる教育部や検察が共同調査した1998年の統計資料によると、前年にいわゆる学校暴力で3万9000人の学生が指導され、4000名が現在のワンタの被害者とされる。
 
 ワンタは立場や力が弱い子供が精神的、物理的な攻撃対象とする点でイジメと共通するが、形態は大部異なる。
 何よりも、イジメと比べワンタは理由が、内にこもらず分かりやすい。ある意味で、子供らしく単純とも言える。
 例えば、「親がいない生徒」(14・9%)が「親と一緒に暮らす生徒」(3・2%)よりも4倍多いことが物語るように、生活が貧しい、太っている、背が小さいといった身体的特徴など狙われる。
 内容も、イジメのように「無視」は少なく、悪口を浴び、言い合いになって殴られたりするケースが多い。

 平均よりできなければワンタされ、平均より良くできてもワンタされるという言葉にあるように、その背景には、日本以上に同質性を求める文化がある。
 ネットでは、小、中、高校生向きの商品広告に「○○を使っていないとワンタにあう」というものが公然と出ているほどである。
  
 ワンタがイジメと異なる点は、自殺につながることが少ないことだ。
 中高生の自殺事件が報じられることがあるが、ワンタはごく稀で、大半は勉強不振や受験失敗に悩んでのことだ。件数も日本ほど多くない。

 教師に権威があり、ワンタを無くす努力をしていることが大きい。
 逆に、ワンタを苦にして教師の方が命を絶ったケースもある。
 3年前のことだが、釜山に近い昌原(チャンウォン)市の中学校長が校内で起きたワンタを理由に、包丁で自殺し、社会の衝撃を与えた事件が起きた。校長の学校の生徒5、6人が1人の生徒を取り囲み、頭を殴る、カバンを奪い、さらにその行為をデジタルカメラとカメラ付携帯で撮影し、ネット上の掲示板に流した。たちまち、学校に抗議メールが殺到して社会問題化した。被害者はその2年前に釜山の隣の金海市の中学校でワンタを受け、耐えられずに転校したが、その学校にまで加害者仲間がメールで噂を流し、新たなワンタが発生したのであった。
 
 また、家庭も大家族制が残っていて子供の居場所がある。
 さらに、社会全体も子供への関心が高く、ワンタらしきものをみれば怖い大人が叱って、止めさせる。日本のように、注意した大人が逆に中高生に脅されたり、殴られるといったケースは耳にしたことがない。
 私自身もソウルの地下鉄で、席を譲らないアベックを老人が睨みつけ、譲らせた光景を見たことがあるが、仮に、アベックなり子供が年長の大人に逆らうようなことが起これば、大ニュースとなって報じられるから、実際に起きていないのであろう。

 以上述べたように、日本の子供のイジメは韓国と比べ大人びている。つまり、大人社会の影響をもろに受けているのだ。
 それは先に述べた村八分のような旧習の影響があろう。
 
 しかし、より本質的には、産業化による疎外の問題と関連していると思われる。日本でも、私が小中学生の頃は韓国のようなワンタが大半であった。
 自殺をみても、世界保健機関(WHO)統計によると、日本の自殺者は旧ソ連諸国などについで11位と高い。働き盛りの中高年層に多いのは、バブル以降の社会的経済的不安定化で居場所を失い、自らの存在意義を見いだせなくなったことが原因と見られるが、その影響が家庭にも及んでいるとみられる。

 少年犯罪の凶悪化なども、その端的な例である。
 韓国では数年前に名門大生が軍人の親を殺害して社会を震撼させたが、子供が親を殺すという話は聞いたことがない。

 私が日本の子供の変化に関心を向けたのは、10年前の神戸連続児童殺傷事件の時であった。
 校門に晒した子供の首に犯行声明文を加えさせ、「透明なる存在」の自分を捕まえてみろと社会に挑戦した犯人像を、ほとんどの人は「30代から40代のインテリ」と想像したが、実際に逮捕されたのは14歳の少年であった。
 そのギャップが社会にまた衝撃を与え、犯人は別にいる、冤罪だと主張する人々が現在も少なからずいる。

 私は、犯人の酒鬼薔薇聖斗はまさに現代日本のムルソーだと実感し、『酒鬼薔薇聖斗の告白』で内面世界を追跡し、確信を深めた。
 その後も00年の西鉄高速バスハイジャック犯の少年が「酒鬼薔薇聖斗を尊敬している」と自供するなど、酒鬼薔薇予備軍は増殖している。

 子供の世界にまで広がる疎外の闇、これがイジメの元凶ではないか。
 とするならば、大人社会の責任は極めて重い。


.
河信基
河信基
男性 / A型
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
検索 検索

過去の記事一覧

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

ふるさと納税サイト『さとふる』
実質2000円で特産品がお手元に
11/30までキャンペーン実施中!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事