河信基の深読み

読者各位様:本「河信基の深読み」は順次、北朝鮮投資開発戦略研究所(2019年4月〜所長・河信基)の公式HPへ移行して参ります。

酒鬼薔薇聖斗・教育

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 また高校生が自殺した。こうした事件が起るたびに、「いじめを根絶やしにしろ!」と感情的に叫ぶ人がいるが、それほど単純な問題ではないし、逆に、新たないじめを助長する危険性もある。
 いじめの本質は個性の抑圧である。個性を抑圧しがちな集団や社会の悪しき宿命であることを念頭に、不断になくそうと努力することこそ必要だろう。

 いじめについて考える人は、上野動物園の猿山を1、2時間ほど観察するとヒントが浮かぶだろう。 動物が群れれば必ず気があうもの、あわないものが生じる。猿の社会でも個性的な活動をする個体がしばしば仲間外れにされたり、攻撃の対象になる。
 人間社会も似たようなものだが、猿社会と異なるのは、言葉や観念で屁理屈を作り上げ、組織的に執拗に攻撃しようとすることである。

 強いボスが睨みを利かす猿山でいじめが見られないように、個性が認められない全体主義国家ではいじめが少ない。それは集団と個の関係という社会の本質に根差しており、根絶やしにするのは恐らく全体主義国家しかできない。
 日本でも日の丸、君が代の徹底でいじめを無くそうとする人たちがいるが、個性をも殺してしまう、新種の大型のいじめとなる危険性がある。
 いじめは個人の好き嫌いが高じて伝染した病的現象であり、個性重視の民主主義社会が担うリスクとも言える。

 したがって、いじめは人が群れている限り無くならない。
 家庭、学校、社会など、どこでもいつでもありえると考え、対応する必要があろう。

 最近、いじめは犯罪であると子供たちに教える必要があるという声をよく耳にする。犯罪的であることは言うまでもないが、罪と罰といった刑事的な視点から捉える前にするべきことがある。悪い悪いとばかり繰り返し恫喝しても、子供たちは萎縮するだけだ。

 重要なことは、いじめを初期のうちに発見し、迅速に対応することである。
 そうして、子供たちに自他の個性を尊重することの大切さを教える実物教育として、いじめは個性を抑圧し、固体の存在を否定するものであることを教えることである。

 いじめの深層心理には、他に自己と同一であることを求め、服従させたがる欲求がある。
 人はみな違う(だから社会は発展する)、という当たり前のことを当たり前のこととして理解することでしか、その原始的欲求からは解放されない。  

悪魔に憑かれたとき

 畠山鈴香被告ならずとも、人生、誰しも一度や二度は悪魔にささやかれる瞬間がある。自分の内から発するだけに、始末が悪い。
 他人や環境のせいにする見方もあるが、責任転嫁というものだ。道徳や倫理は後天的、つまり、学習によって身に付ける。

 それによって自制心や良心を鍛え、生存本能に根ざした内なる利己主義といかに闘うかは、純然たる個々人の問題であろう。
 それがなければ規格人間、ロボットと同じだ。個人の人格も主体性も、無論、フリーダムもありえない。

 その闘いで負けた結果が犯罪だが、極め付きが、殺人だ。
 自分が生きるためだ、殺せ!とささやく悪魔に、魂を売ってしまうのである。

 巷の殺人事件であろうと、国際貢献とやらで送られた戦場での戦闘であろうと、本質は変わらない。
 片方は裁判に掛けられ、他方は勲章をもらうが、ともにトラウマとなって必ず心の傷として残る。勲章で殺人の記憶は癒されるというのはまやかしで、古くはベトナム、今はイラク戦争に従軍した米兵に精神疾患が少なくない。
 
 改めてそのことを考えさせられるのが、わが子を含む児童二人を連続殺害したと糾されている畠山被告(34)だ。
 第5回公判の弁護側による被告人質問が29日に行われ、各紙報道を総合すると、畠山被告は以下のように答えた。

 橋の上で彩香ちゃん(9歳)に、「ここ(欄干)に乗れば。乗らないなら帰るよ」ときつい口調で言った。イライラして「どうして駄々をこねるんだろう」という気持ちだった。口調をきつめに言えば、怖がってあきらめるだろうと思った。
 彩香ちゃんは自ら欄干に上り、両足を川の方に出して欄干に座ったため、びっくりした。早く下ろさなければと思った。
 彩香ちゃんが駄々をこねたのにいらだち、「欄干に乗せて背中を押せばどうなるだろう」と一瞬思った。「お母さん、怖い」と言って抱きつこうとした。思わず、びっくりして左手で払ってしまった。体のどこかに当たったと思うが、見ていなかった。自分が汗をかかないので、汗かきの彩香が急に迫ってくるのがちょっと怖い感じだった。

 彩香ちゃんが橋から落ちた後は、尻もちをついたような状態でその場に5分ほどいた。
 信じられない、信じたくない、信じない心境だった。
 自分は1人でここに来て、早く帰らなきゃ彩香がおなかをすかせて待っていると思い、帰って彩香を捜した。

 この証言で奇妙な真実みを漂わすのが、「汗かきの彩香が急に迫ってくるのがちょっと怖い感じだった」という部分だ。
 畠山被告は、抱きつこうとした彩香ちゃんを「思わず左手で払った」状況を身ぶりを交え、落ち着いた様子で説明したという。
 それで連想したのが、ムルソーが「太陽のせい」でアラブ人を射殺したカミュの異邦人の一節だ。

 いかにも保身的で身勝手な弁明に聞こえるが、実は、そうした不条理、虚無の闇と言うべきものが現代の人間社会に広がっている。
 悪魔は、その隙をついてささやいてくるのだ。
 そこから良心との葛藤が始まる。これは法以前の、自己の内なる道徳・倫理意識との問題である。

 畠山被告は放心状態になり、「彩香がおなかをすかせて待っていると思い、帰って彩香を捜した」と矛盾したことを口にしているが、わが子を“道徳的”に殺したことに深い自己嫌悪に陥ったとみられる。
 それが、「お母さん」と叫びながら落ちていったとされる綾香ちゃんへのせめてもの供養であろう。
 
 前回「秋田県の連続児童殺害事件 母親に本当に殺意があったのか?」で、「完全に記憶をなくしたというのはいかにも不自然だ。そこから豪憲君殺害へと発展するミステリーが始まるが、好意的に解釈すれば、無意識に残った過失責任の記憶に苦しみ、一種の贖罪行為として、警察に執拗に再調査を求め、マスコミ、近隣住民らに事件性を訴えたとも考えられる。それが、彩香ちゃんと仲が良かった豪憲君への歪んだ嫉妬となり、殺害へとつながった可能性もある」と書いた。
 恐らくそれが真相に近いのではないか。

 ところで、ムルソーだが、裁判で、「太陽のせい」と殺人の動機を語ったことが非常識、嘘つきと非難された。
 同時に、母親の葬式で涙を流さなかった、ふしだらな女性関係・・・など乱れた日常生活が暴かれ、人間性を喪失した冷酷な人間と烙印が押され、死刑を宣告される。
 なにやら、マスコミで散々叩かれ、人々の轟々たる非難を浴びている畠山被告の状況と似ている。

 しかし、ムルソーは、死刑を恐れない。むしろ、死刑の瞬間、人々が罵声を浴びせる様子を想像し、人生最後の希望にする。
 虚無に覆われた自分の不条理な行動を非難する人々の中に、健全な倫理や道徳心が生きていることを確認したがったのだ。

 21日の立大戦で神宮のリーグ戦デビューを果たした東大の加藤善之選手(2年)は、生まれつき左手は親指と小指しかなく、左足も甲から先がないので義足を付けている。
 それだけでも快挙だが、神宮で投げたくて東大に入ったと言うから、子供の個性を無視し(殺し?)ながら何が何でも東大へと夜遅くまで塾に縛り付けている世の親にとっては、顔面に冷水を浴びせられる衝撃だろう。

 高校は進学校の栄光学園。体が不自由な分、頭で勝負、というのはよくある話だが、加藤選手には自分の夢があった。
 野球に打ち込み、投球後にグラブをすばやく右手に持ち替える投法でエースを張り、高2のときには全国高校軟式野球選手権にまで進み、1回戦で延長十四回、222球を投げ抜いた。爾来、右手の障害を克服して活躍した元ヤンキースのジム・アボット投手から拝借して「和製アボット」と注目されたが、本人もまんざらではなかったようだ。

 そこから東京六大学への新たな挑戦が始まる。
 リトルリーグから野球漬けになっている野球エリートたちが集まる早慶明法立に入っても、正選手になれる確率は低い。そこで目を付けたのが弱小チームの東大だ。東大進学を決意し、1浪して超難関を突破した。
 
 2年目の今秋リーグ戦からベンチ入りし、神宮デビュー戦では9回に登板し、直球、スライダー、シュートを巧みに混ぜた7球で、打者3人を遊飛、左飛、中飛に打ち取った。
 1−4で敗れたものの、毎日新聞によると、「ブルペンにいた時は緊張したけど、マウンドでは普段通りの感覚で投げられた。やっと一歩を踏み出せた」とすがすがしい表情で語り、「『東大のアボット』と呼ばれることに抵抗はない。次は勝ち試合で投げたい。先発もしたい」と闘志をあらわにしたという。

 野球がしたくて東大に入ったのは、恐らく加藤選手が初めてではないか。
 受験ママは目を剥くかもしれないが、自分の夢、個性を生かすために大学を選ぶというのは、非情に大切なことである。
 入学自体が目標になり、後は抜け殻のように4年を過ごして就職し、人生にとって最も大切な“自分らしく生きる”ことを見失ったまま惰性的に生きていく、よくある悲喜劇は、それによって大幅に減少するだろう。

 戦後教育については色々否定的なことが言われているが、多くの個性が育っていることは間違いない。ユニークなスタイルでメジャーに進出した野茂やイチローもその一例だ。
 自分の個性を強調するあまりに放縦に流れ、他人の個性を侵し、社会を不安にする弊害が出ているのは事実だが、自分らしく行きながら他人の個性を尊重する新しいモラルを作り上げていく中で解決するのが、社会の発展に即した自然な流れだろう。

 せっかくの教育基本法にいらぬ手を加え、教育現場に懐古的な国家主義意識を注入してどうのこうのと考えた張本人は、結局、安倍し、社会に多大な迷惑をかけてしまった。
 それこそ戦後教育に残された最大の問題点を象徴している。

 これほど刑罰の残酷さ、恐ろしさを語る数字はない。日本では刑事罰を課すぎりぎりの年齢の14歳以下の少年が、更正の機会も与えられず、一生檻の中かに閉じ込められるのだから、究極の応報刑と言っても過言でもない。
 人間は自由なしでは生きられない。いっそのこと殺して欲しい、と心の中で叫んでいる少年もいるのではないか。

 時事によると、米人権擁護団体EJIが19日、2225人に上る18歳未満の未成年者が、米国内の刑務所で仮釈放なしの終身刑で服役しているとの調査報告書を発表した。13歳か14歳で収監された服役囚も73人に上るという。
 自由の国と言われ、外国での人権侵害にしばしば警告を発している米国が、うちに、そのような恐ろしいことを抱えていたとは声も出ない。米国人の人権感覚を一瞬、疑ってしまう。
 EJIは子どもにやり直しのチャンスを与えるよう訴えているが、日本では当然のことが米社会では十分に届いていない。

 ブッシュ政権になって特にそうだが、米社会はどこかいびつで、クレージーだ。
 環境の影響を受けやすく、人格が発展途上の少年の犯罪については、何故そのようなことをしたのかを究明し、刑罰は、報復よりも教育に重点を置いて情状を酌量するのが近代刑法の大原則となっている。米社会はその余裕さえ失ってしまったのか。
 日本で少年法が改定され、16歳の刑事罰年齢が14歳に引き下げられたのは神戸の連続少年少女殺傷事件がきっかけとなったが、その犯人であった酒鬼薔薇聖斗は立派に社会人として更正している。少年からそのような機会を永久に奪い、無闇に獄中につなぐのは重大な人権侵害ではないか。

 ロンドン大学国際刑務所研究センターが以前、米国の囚人数219万3798人、人口比で欧州主要国の7〜8倍になる。そればかりか、米国がしばしば人権が侵害されていると批判している中国の150万人、ロシアの87万人より絶対数でかなり上回り、人口比でははるかに多い。
 政治犯が20万〜40万人いると非難される北朝鮮も含め、発展途上国の囚人の背後には、貧困問題がある。しかし、世界一豊かなはずの米国で何故、かくも犯罪が多く、将来ある少年たちまでが死ぬまで獄につながれなければならないのか、ブラックホールのように広がる闇に慄然とせざるを得ない。

 米国で少年の銃犯罪など珍しくもないが、最近もクーンという14歳の高校生が学校で銃を乱射し、自殺したが、ノミに全身を咬まれる極貧と兄は刑務所という絶望的な状況を、生まれながらに押し付けられていた。自殺しなければ一生刑務所だろうが、彼に親を選べなかった責任があると言うのだろうか。
 アメリカンドリームなど、今や宝くじを買うに等しい。

 恐らく新自由主義がもたらす富の偏在と極端な社会格差が米社会の闇の底に潜み、不道徳な競争に敗れた者たちを飲み込んでいくのであろうが、グローバリゼーション=資本自由化の名目で日本が今その方向に向かっているとしたら、我々ははっきりと、ノーと言わねばならないだろう。
 詐欺師まがいのマネーゲームで世界の富を吸い上げようとする米国の不道徳なファンドの企みに乗せられ、自ら首を絞める必要など、さらさらないのである。

 一昨日だったと思うが、テレビ朝日の『徹子の部屋』に「五体不満足」の乙武洋匡氏が出演し、「人はみんな違うことを伝えるために、自分がいるようなものです」と、笑顔を浮かべながら語っていた。
 「人はみんな違う」は当たり前のことだが、乙武氏が言うと、「本当にそう思っているだろうか。日々の生活で実践しているか?」と、自分を問われるかのように心の中に響いてきた。チャンネルをガチャガチャ回しながらたまたま観ていたのだが、以後、食い入るように見入ってしまった。
 
 今年春に杉並区の小学校に先生として採用され、5、6年生に理科や社会を教えているそうだ。私も大学で教えていたので、いわば同業者だ。大学であれ小学校であれ、黒板にポイントを書いて学生の理解を促す瞬間が授業中に何回かある。
 不自由な体でどうするのかと興味は尽きなかったが、補助教員の手を借りたり、パソコンをプロジェクターで投射したりと、日々これ闘い、という。

 衝撃に近い感銘を受けたのは、車椅子から身を乗り出し、口にチョークをくわえ、肩から突き出たような“手”で書いている写真が画面に映し出された時だ。究極の個性と言えよう。
 教壇に立った教員の姿から、生徒は何かを学ぶ。知識はもちろんだが、後々まで少なからぬ影響を残すのは人格であると、私は自分の個人的経験も踏まえて考えている。
 乙武氏の一見、“異様な姿”は、生徒たちに一生消えない強烈な印象を残すに違いない。

 乙武氏は「5,6年生になると大人の感性がめばえて、気遣いや遠慮したりしますね。1,2年生は残酷ですよ。先生、何で手がないのと、平気で聞いてくる」と語る。
 司会者の黒柳徹子氏も遠慮するエピソードを自ら挙げ、笑みを交えながら明るく語るのが、乙武氏の個性なのだろう。
 “異様な姿”の先生は、生徒たちの脳裏に「人はみんな違うこと」を映像として刻み込む。そこから、いつも自分らしく、明るく前向きに生きるというメッセージが不断に再生産されるなら、人生の貴重な糧となるに違いない。

 たまたま学校から帰ってきた小学校三年生の子に、「あんな先生に習いたいと思わないか」と乙武氏を指差しながら聞いたら、「キモイ」と返ってきた。「何故?」、「黒板に字をかけないから」と答えながら、興味深そうに画面を見つめる。
 子供はストレートで時に残酷だが、大人のような偏見やいやみがない。真っ白なキャンパスのようなもので、乙武先生やそれをサポートする周りの様子を見て、個性の大切さを学び、自分の隠れた才能や可能性を開花させていく。

 私はかねてから、韓国・朝鮮の近現代史に欠けるのは勝海舟のような妥協型人物であると考えているが、ある時期から、乙武氏も加えている。
 日本以上に同質性を求め、異端を排斥するのが半島文化である。ピョンヤンに身体障害者はいない(いられない)し、近年、バリアフリーに熱心なソウルでもあまりその姿をみかけない。乙武氏のような「五体不満足」は世間体を気にして街を歩けないのである。

 しかし、その反面、残念なことだが、日本でも昨今、同質性重視に回帰し、個性抑圧の風潮が出ている。
 個性的な小泉首相が誕生して以降、そうした否定的現象が強まっているのは皮肉なことで、障害者に対しても「自立支援」の名目で医療補助などの切捨てが始まっている。
 また、朝鮮総連系の金剛山歌劇団のホール不使用問題など、「救う会」が唱導する報復的な“朝鮮人狩り”まがいのことが、岡山市など日本各地で頻発している。

個性的であることは他人の個性をも尊重することであらねばならないが、時として、わがまま、自己中心に流れ、他人の個性を犠牲にする側面がある。
 首相が靖国を参拝したり、「美しい国」にこだわったり、自分の好みで個性的に流れると、その弊害が社会的に拡散する。
 北朝鮮でも、金正日総書記は朝鮮史上稀な個性的人物だが、その分、国民は随分と窮屈な思いをしている。

 奇妙なのは、戦前的同質性回帰を訴える例の「新しい歴史教科書」を採用した稀少種である山田宏区長の杉並区役所が、乙武氏を採用していることだ。
 人気取り、話題集めのパフォーマンスでないことを祈りたい。

 個性的であることは、反面、そのための闘いでもある。
 乙武氏のベストセラー『五体不満足』についても、障害を自分の個性と考え、前向きに明るく乗り越えていることに多くの人が共感を示しているが、「障害者としての苦労や苦悩が描かれていない」と物足りなさを訴える人もいる。
 他人には言えない苦労があったということで、我々が学ぶべき点は恐らくそこにある。

 『徹子の部屋』で乙武氏の個性が輝いて見えたのは、司会の黒柳徹子氏がこれまた個性的なタレントだからだろう。二つの個性が適度な距離を保ちながら、引き立てあっているように見えた。
 余談だが、紅白を担当した知人の元NHKプロデューサーによると、黒柳氏にも秘めた恋があったようだ。


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