河信基の深読み

読者各位様:本「河信基の深読み」は順次、北朝鮮投資開発戦略研究所(2019年4月〜所長・河信基)の公式HPへ移行して参ります。

ピリッと世評

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 日本政府は今後とも5年間、毎年2200億円の社会保障費を削減すると言い張る。
 2011年までに財政再建のめどをつけるには他に方法がない、というのがその名分だが、嘘がある。

 年間5兆円+アルファもの、防衛費という名の軍事費を削れば済む事である。
 年金・医療・雇用・教育など各分野にわたって生活破壊が進み、絶対多数の国民が“今そこにある危機”に直面しているのに、実体も定かでない“仮想危機”に、莫大な税金を湯水のように注ぎ込むことほど愚かなことはあるまい。漁船を撃沈したイージス艦、使い道のない10億円の戦車が数百台・・・道楽が過ぎるのではないか。
 それが亡国の道であることを、日本は先の大戦で体験したはずだが、喉元過ぎれば何とやらで、忘れてしまったようだ。

 900兆円近い財政赤字を抱える日本は、もはや経済大国ではなく、内部崩壊の兆候すら見える。
 手遅れにならないうちに、幻想を捨て去り、身の丈に合った社会国家システムを再構築することが避けられない状況に来ている。

 二つに一つである。
 経済大国化に浮かれて改憲=軍事大国化へと踏み出したが、このまま惰性で突き進み、戦前のように「欲しがりません勝つまでは」と、国民生活を犠牲にし、自滅するのか。
 あるいは、生活大国化と生産部門の活性化で新たな可能性を切り開くのか。

 既得権にこだわる勢力と、いずれ自分もそれに食い込もうと考える野心家、保守に飼いならされ無気力化した子猫たちは、前者を選ぶであろうことは十分に予測出来る。
 後者を選ぶ人々がどれ程の割合になり、日常のデモや投票行動で意思表示するか、そこに日本の民度と未来がかかる。

 デモが憲法上の当然の基本的権利であり、国民としての義務でもあることを忘れている人が少なくないことが不安材料だが、この国も捨てたもんじゃない、と考えたい。

ドこんじょう桐 ケータイ投稿記事

イメージ 1

 今朝、散歩の途中でみつけた。と言うより、気付いた、がより正しいだろう。
 いつものコースを辿って、土手が見える四つ角で前方の路傍に、やたら大きい葉っぱを四方に拡げている植物が目に飛込んできた。

 近付いて見ると、タクシー会社のコンクリートで固めた駐車場の片隅から、直径10cm程の太い幹がコンクリートを破るように突き出し、枝を空に向けて勢いよく張っている。
 高さは優に2m、アスファルト道路に伸びた鮮やかな緑色の葉は、40〜50cmはあろう。二酸化炭素をたっぷり吸って、一人分の酸素くらいは吐き出してくれそうだ。
 
 何かと思って眺めていると、出勤してきた従業員が「桐ですよ」と笑った。「えっ、桐?」「そう、嫁入りタンスを作るあの桐です」
 昨年生え、冬の間に幹の先端部が枯れたが、この春先、見事に復活し、新枝がぐんぐん成長したと言う。

 これには驚いた。
 根性大根とかは聞いたことがあるが、桐の木が、山中ならぬ東京(の外れ)のコンクリート地面から顔を出すとは、思いもよらなかった。

 地球温暖化や森林伐採が問題化しているが、自然は我々人間が考える以上に逞しい復元力があることを、桐は示している。
 「かけがえのない緑の地球を守るために、人間も少しは協力してもいいだろう。運命共同体じゃないか。俺を伐り倒すような野暮なことはしないでくれよ」
 風にそよぐ葉から、桐の声が聞こえてきた。

京都を惜しむ ケータイ投稿記事

 昨日の京都は、うって変わって朝から快晴。
 朝食後、ホテルの前の二条城を早速見学したが、さすがに世界遺産の名に恥じないものだった。派手ではないが、往時の武家文化を偲ばせる風格が、今も城内至る所に漂っている。

 大名を接見した二の丸御殿の部屋は、将軍が一人座る上座が半分ほどを占め、一段低い下座に諸大名がひしめくように平伏する仕組みになっている。
 全ての空間が、権威と従属の証として、一分の隙もなく組まれている。

 生々しい権力闘争の舞台であった余韻は、まだ消えない。
 勅使の間では「勅使が上座に座ったと言われています」とアナウンスが流れるが、「言われています」と責任の所在を曖昧にしているのは、怪しい。天皇の権威をことさら持ち上げようと、明治維新以降、歴史に数々の作為が加えられたが、恐らくその一つであろう。
 二条城そのものが御所の真ん前にでんと造られ、朝廷に睨みを利かしていた。江戸城では勅使が下座で迎えられたから、二条城でもその例に倣った可能性がある。

 だが、栄華盛衰は世の常。太政奉還が行われた黒書院の一間には、徳川300年の悲哀が今に伝わる。
 歴史に名高い場所だが、諸大名がひれ伏し最後の将軍の宣下に耳を傾けたであろう下座は、意外にも、2、30名しか入れない狭さであった。300余侯の一部をかき集めて何とか体裁を整え、政権を投げ出した慌てぶりがうかがえるではないか。

 二条城はまさに京都の何たるかを象徴する場所であるが、惜しむべきことに、周囲から浮き上がりつつある。
 その前日早朝、小雨煙る中、二条城周囲を散歩しながら感じたことであった。

 外堀に沿った外周1・8kmは、朝の散策には格好であった。
 いつものように歩きながら、この日午後立命館大でのシンポで発表する報告を頭の中で再度推敲した。『ナショナリズムを超えた南北関係と統一論試論』などと、批判されるのを覚悟で自ら重いタイトルを背負っていた。

 ところが、次第に異景が気になった。
 城を取り囲むように張り巡らされた無粋な生け垣だ。高さは私の肩の辺りだが、堀も覗けず、景観を損なっているように思えた。見慣れた東京の皇居にないものなので、違和感が一層募った。
 子犬を連れた女性に尋ねても、「釣り人が入らないようにした」と要領を得ない。

 ふと思い当たることがあって、ぐるりと城周囲を見渡し、あることに気付いた。道路を隔てた街並みは、高さは多少規制されているが、東京とほとんど変わらない。
 生け垣は俗世界との境界線なのである。それによって城は、歴史的な異空間として保存されている。
 古都と知られた京都だけに、実に残念なことである。

 途中からは、城よりも周囲の街並みとの調和に関心が向かい、目は「京都的なもの」を追っていた。
 大手門の反対側に回って、ようやく昔風の門構えの家を見つけた。幸いにして、門前でホウキを手にした年輩の女性が払い掃除をしていたので、家の由来を聞くことが出来たが、呉服業を営んだ先々代が70年前に建てたと言う。
 往時はこうした門構えの街並みが、城と連続した景観を成していたのであろう。

 京都的なものの消失は、京都駅を降り、バスで立命館大衣笠キャンパスに向かった時から感じていた。
 ミニ東京化し、以前の歴史情緒豊かな建物は点になっている。日本全国で起きている現象だが、悲しいことに、千年の都もその一つに成りつつある。
 独特の趣きがある京都言葉も聞かれなくなり、古都は生きるのに忙しく、心のゆとりを失っているように思える。

 ミニ東京化はミニアメリカ化だが、古都は歴史の浅いアメリカではなく、ヨーロッパを見習うべきだろう。
 そこでは古城は周囲の街並みに溶け込み、歴史が連続している。

 木造建造物の保存には費用が掛り、生活上も不便が少なくない。
 観光税などで補填し、京都らしさを是非後世に伝えてほしいものである。

 日本を代表する企業であるトヨタの原動力は、カイゼン、つまり、残業代カットのいわゆるサービス残業であると言う。
 ずばり言えば、無賃労働、質の悪い搾取である。

 マクドナルドの「名ばかり店長」など、最近はこの手の露骨な搾取が多くなった。
 派遣業という、かっては暴力団の資金源になるとして禁止されていた虚業が解禁されてから、労働基準法が骨抜きにされてしまった。今では経団連会長を擁するキャノンすら、偽装請負という違法まがいの雇用を半公然と行っている。

 まさに資本の横暴だが、それというのも資本主義を牽制していた社会主義勢力が衰退してしまったからである。
 そもそも資本主義国が社会福祉を憲法で保障したのも、好きこのんではなく、社会主義への対抗上であった。
 勤労者への搾取は日本だけでなく、世界中でますます強まっていくだろう。

 上位10%の人々が世界の富の85%を支配している、との統計がある。
 ニューヨーク連邦準備銀行総裁のガイトナーはサブプライム問題討議のため、5か国から14の主要金融機関のトップを招集し、「あなたたちが動けばみんなも動く」と呼び掛けたそうだ。事実、彼らは世界金融市場業務の95%を取り仕切り、ダボス会議のような社交場で世界のどこがより多く儲けられるかと品定めしている。

 あの手この手で搾取を強める資本の横暴に対抗するには、労使協調路線に飼いならされた労組では頼りない。
 勤労者が進んでデモなどの正当な権利を行使し、実力で訴えるしかあるまい。
 自身の権利は自ら守る。その過程で連帯が生まれ、新たな可能性が開けよう。

 81年の米ロサンゼルス銃撃事件の記憶は、今でも鮮明に残っている。
 旅行中に愛妻を殺された悲劇の主人公に、一転、高額の保険金を狙った容疑が降りかかったが、テレビで釈明する三浦氏の姿を観ながら、「クロだ」と確信を深めた。動機、状況証拠、言葉巧みに騙そうとする様子・・・などが根拠であった。
  
 その後、最高裁で無罪が確定したが、クロとの確信は今も揺らいでいない。
 そもそも裁判は、真実を明らかにする場ではない。道徳的には限りなくクロであっても、正当な手続きと証拠でそれを証明しない限り、有罪には出来ない。それが内面に関わる道徳と、外的行為に関わる法の違いであり、限界であるとも言える。

 その三浦氏が米自治領サイパン島で逮捕・勾留され、再度、容疑者となった。久しぶりに見る顔はすっかり老け、歳月を感じさせたが、ふてぶてしさは変わらない。
 心情的には殺された元妻の母親に同情し、道徳的には、しかるべき罰が課せられるべきだと思っている。

 だが、そうした個人的な心情と、法的な問題は自ずと別である。
 三浦氏のロサンゼルスのゲラゴス弁護士は「すでに日本で無罪判決が出ており、逮捕状は一事不再理の原則に反して無効で、拘束は違法だ」と主張し、即時釈放を求める声明を発表したが、全的に賛成である。
 
 一事不再理は近代法の大原則であり、これが疎かにされると、市民社会の法的秩序は根底から揺らぐことになる。
 それ以上に憂慮されるのが、米国が日本の法秩序を無視し、自国の法をその上に置くことである。
 日本の一部マスコミには三浦逮捕に無邪気に快哉を叫ぶ傾向が見られるが、もう少し思慮深くなってもらいたいものである。


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河信基
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