心象スケッチ

諸行無常=慈悲喜捨 人間は真理を理解できない。だけど、真理に近い場所にいたい。

☀ฺ著書引用☀ฺ

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  人間は、どうしても許せないというものを持った時、変わる


 どんなことがあっても、この人間だけは許せないという時、一切の社会的道徳は色あせる。自分の血が絶対に許せないものを持った時、社会の道徳というものがどれほどバカらしくうつることか。

 たとえ人類にさからい、神の意にそむこうと、あの女だけは許せない、そう思った男はその時から自立するのだ。

 その時から、神よりも、人類よりも、自分自身の倫理に従って生きていこうとするにちがいない。その許せない女を許す社会に対し、決然として独り立ちできるのである。社会の一切を、人類の一切を信じないという時を経て、人間は自立するのではないだろうか。

 ところが、人間がさらに憎しみの究極までいった時、はたしてその憎む相手をしめ殺そうとするだろうか?僕は人間が本当に憎しみを持った時、人はその相手をしめ殺そうとはしないと思う。

 しめ殺してみたとて、そこで気持ちがおさまるわけでもない。しめ殺して、殺してみたあとで眼をくりぬいて、そのくりぬいた眼玉を石の上にたたきつけて、靴のカカトでふみにじり、皮膚をはぎとって、マッチで黒く焦がして、ひきちぎり、その上を狂ったようにとびはね、腕をへし折って、ボールのように足でけっとばして、バットを持ってきて思いきり打ちとばしても、そんなことで自分の気持ちがすむものでもない。

 相手を見て、しめ殺してみても、憎しみがさらに体を焼きつくし、燃えさかり、相手の足をノコギリでガリガリひいているうちに、もう憎しみが脳天をついて、どうにもこうにもできなくなるのではないか。

 憎んでいる相手を見たら、何をどうしても、もう気持ちがおさまらず、たけり狂ってしまう。憎しみに身を焼き焦がしているのはつらいけど、 その憎しみの相手を眼の前に見るのはもっとつらいのである。

 相手をしめ殺せるうちは、その人は本当に狂気となった憎しみの炎をまだ知らないのだ。憎しみにたけり狂う時、人はつらいと思う。もう何も手につかず、体が宙に浮いて、落ち着かず、意識を失いそうになる。しかし、その時憎しみの相手を眼の前に見たらもっとつらい。のどをしめて殺す時、相手の顔を見て、憎しみの大きさに圧倒されて窒息してしまうのではないか。

 憎しみに体を焼き焦がして、苦しくてのたうちまわっても、まだ現実の相手がここにいないということでなんとか気持ちがもつ。しかし相手の顔、鼻、眼がこの前にあったら、憎しみに声をあげてのたうちまわるぐらいではすまない。

 殺してしまったあとで死体の上をとびはねてけっとばしてみても、いよいよ憎しみは燃えさかり、気がどうかしてしまう。

 憎しみにとらわれたら、殺して自分がそのあと死刑になるのなどなんでもない。自分の身はもう惜しくない。ただ憎しみだけである。この身などどうなってもかまわない。

 僕は 人間の存在が憎しみの炎となった時、人はその憎しみの対象を忘れようとする 気がする。とにかくその人と関係がなくなろうとするような気がする。その人と少しでも関係のある場所から離れる、その人が一度でも入ったことのある喫茶店はいかない、その人が降りる駅では降りない、その人の知人には会わない。とにかくなんでもいいから、その人と無関係な世界にいこうとするのではなかろうか。

 それが一番楽な気がする。憎しみの相手を殺そうとして刃物を持って出かける人間は、まだ憎しみの本当の味を知らない人間である。とにかく刃物をその人の胸に突き刺す時、その人を見ることができるのであるから。寝ているうちに殺そうとするのでも、とにかくその人が寝ている家に入っていくことができるのだから、まだ憎しみの恐ろしい味を知っているとはいえまい。


(ながっ、。・略)


  大切なものとは、命より大切なものなどということでは表現できない。命そのものでもない。大切なものとは、もうその大切なものそのものであって、自分の命などとは比べることのできない別の次元のものである はずだ。

 そうしたものを奪われた時、その奪っていった人間に対して、人は本当の憎しみの味をかみしめるのではないか。

 自分にとってさして価値のあるものでないものを奪っていったとて、人はその奪った人間を憎しみなどはしない。

 憎しみとは、その大切なものへの感情と正比例する激情ではなかろうか。そして、 この憎しみだけは誰にどう説明してもわからないだろうと思う時、やはり人は精神的に自立する。

  他人からの理解の絶望を通じて、人は自立の路をたどるのである。

  自分が味わった憎しみの味を、他人に理解してもらえると思えば、人はどうしても他人に頼る。他人が自分を理解してくれるというのは、自分の苦しみをやわらげる。

  しかし、そうである限り、やはり人間はその理解者に頼る。精神的にどうしても寄りかかっていく。

  どうしてもこの憎しみの感情は、他人が理解してくれないだろうと思った時、人は自立せざるを得ない。他人からの理解の絶望、さらには他人からの絶望という孤独の路を経て、人は精神的に自立していくのではなかろうか。

 人間は、自らの全存在を憎しみの炎とし、傷つき、絶望し、そして一人で生きていかれる人間に成長していくのだ。

  他人への絶望こそ人を強くする。 

 ある人はは社会を信用しないという時代を経ることによって、ある人は憎しみの味を味わうことによって自立していく。そして自立とは、何よりも自分の生きていくことに自分が責任をとろうとする姿勢である。自分が生きていくことに自分が責任をとるという生き方こそ、われわれに意味を感じさせる生き方である。

 人間が自立するためには、燃える憎しみで眠れぬ幾夜を過ごさねばならない。凍える悲しみで朝を待つ幾夜を過ごさねばならない。自立への路は血の路である。人間の救いは憎しみのかなたにしかない。人間の安らぎは悲しみのかなたにしかない。

 憎しみで体が震えて興奮している時、憎しみのかなたにあるものを信じるのだ。

 悲しみで気を失いそうになる時、悲しみのかなたにあるものを信じるのだ。




『「やさしさ」と「強さ」の心理』 加藤諦三 大和書房




 そうなのです、。・かくして 自立の道  ⇒孤独の道 なのでございます、。・

 わちしが言いたい事をうまくまとめてくださってます、。・




 ちょっとは成長できたかな〜、。・



 人を好きか、嫌いかで判断できなかったわちし。。




 ☀ฺ 第三の道☀ฺ を見つけました



 『 大切にする 』です。ちょっと距離がある感じでいいでしょう?



 作家でいう、 神が降りた! です。



 ☀ฺ 人間関係を大事にする、大切にする。☀ฺ

 
 これがきっとこれからのわたしの☀ฺ 中庸の道☀ฺ となると思います!


 ☀ฺ ☀ฺ ☀ฺ ☀ฺ ☀ฺ そうしていきたいな!☀ฺ ☀ฺ ☀ฺ ☀ฺ ☀ฺ

転載元転載元: 逆境

  人間は、どうしても許せないというものを持った時、変わる


 どんなことがあっても、この人間だけは許せないという時、一切の社会的道徳は色あせる。自分の血が絶対に許せないものを持った時、社会の道徳というものがどれほどバカらしくうつることか。

 たとえ人類にさからい、神の意にそむこうと、あの女だけは許せない、そう思った男はその時から自立するのだ。

 その時から、神よりも、人類よりも、自分自身の倫理に従って生きていこうとするにちがいない。その許せない女を許す社会に対し、決然として独り立ちできるのである。社会の一切を、人類の一切を信じないという時を経て、人間は自立するのではないだろうか。

 ところが、人間がさらに憎しみの究極までいった時、はたしてその憎む相手をしめ殺そうとするだろうか?僕は人間が本当に憎しみを持った時、人はその相手をしめ殺そうとはしないと思う。

 しめ殺してみたとて、そこで気持ちがおさまるわけでもない。しめ殺して、殺してみたあとで眼をくりぬいて、そのくりぬいた眼玉を石の上にたたきつけて、靴のカカトでふみにじり、皮膚をはぎとって、マッチで黒く焦がして、ひきちぎり、その上を狂ったようにとびはね、腕をへし折って、ボールのように足でけっとばして、バットを持ってきて思いきり打ちとばしても、そんなことで自分の気持ちがすむものでもない。

 相手を見て、しめ殺してみても、憎しみがさらに体を焼きつくし、燃えさかり、相手の足をノコギリでガリガリひいているうちに、もう憎しみが脳天をついて、どうにもこうにもできなくなるのではないか。

 憎んでいる相手を見たら、何をどうしても、もう気持ちがおさまらず、たけり狂ってしまう。憎しみに身を焼き焦がしているのはつらいけど、 その憎しみの相手を眼の前に見るのはもっとつらいのである。

 相手をしめ殺せるうちは、その人は本当に狂気となった憎しみの炎をまだ知らないのだ。憎しみにたけり狂う時、人はつらいと思う。もう何も手につかず、体が宙に浮いて、落ち着かず、意識を失いそうになる。しかし、その時憎しみの相手を眼の前に見たらもっとつらい。のどをしめて殺す時、相手の顔を見て、憎しみの大きさに圧倒されて窒息してしまうのではないか。

 憎しみに体を焼き焦がして、苦しくてのたうちまわっても、まだ現実の相手がここにいないということでなんとか気持ちがもつ。しかし相手の顔、鼻、眼がこの前にあったら、憎しみに声をあげてのたうちまわるぐらいではすまない。

 殺してしまったあとで死体の上をとびはねてけっとばしてみても、いよいよ憎しみは燃えさかり、気がどうかしてしまう。

 憎しみにとらわれたら、殺して自分がそのあと死刑になるのなどなんでもない。自分の身はもう惜しくない。ただ憎しみだけである。この身などどうなってもかまわない。

 僕は 人間の存在が憎しみの炎となった時、人はその憎しみの対象を忘れようとする 気がする。とにかくその人と関係がなくなろうとするような気がする。その人と少しでも関係のある場所から離れる、その人が一度でも入ったことのある喫茶店はいかない、その人が降りる駅では降りない、その人の知人には会わない。とにかくなんでもいいから、その人と無関係な世界にいこうとするのではなかろうか。

 それが一番楽な気がする。憎しみの相手を殺そうとして刃物を持って出かける人間は、まだ憎しみの本当の味を知らない人間である。とにかく刃物をその人の胸に突き刺す時、その人を見ることができるのであるから。寝ているうちに殺そうとするのでも、とにかくその人が寝ている家に入っていくことができるのだから、まだ憎しみの恐ろしい味を知っているとはいえまい。


(ながっ、。・略)


  大切なものとは、命より大切なものなどということでは表現できない。命そのものでもない。大切なものとは、もうその大切なものそのものであって、自分の命などとは比べることのできない別の次元のものである はずだ。

 そうしたものを奪われた時、その奪っていった人間に対して、人は本当の憎しみの味をかみしめるのではないか。

 自分にとってさして価値のあるものでないものを奪っていったとて、人はその奪った人間を憎しみなどはしない。

 憎しみとは、その大切なものへの感情と正比例する激情ではなかろうか。そして、 この憎しみだけは誰にどう説明してもわからないだろうと思う時、やはり人は精神的に自立する。

  他人からの理解の絶望を通じて、人は自立の路をたどるのである。

  自分が味わった憎しみの味を、他人に理解してもらえると思えば、人はどうしても他人に頼る。他人が自分を理解してくれるというのは、自分の苦しみをやわらげる。

  しかし、そうである限り、やはり人間はその理解者に頼る。精神的にどうしても寄りかかっていく。

  どうしてもこの憎しみの感情は、他人が理解してくれないだろうと思った時、人は自立せざるを得ない。他人からの理解の絶望、さらには他人からの絶望という孤独の路を経て、人は精神的に自立していくのではなかろうか。

 人間は、自らの全存在を憎しみの炎とし、傷つき、絶望し、そして一人で生きていかれる人間に成長していくのだ。

  他人への絶望こそ人を強くする。 

 ある人はは社会を信用しないという時代を経ることによって、ある人は憎しみの味を味わうことによって自立していく。そして自立とは、何よりも自分の生きていくことに自分が責任をとろうとする姿勢である。自分が生きていくことに自分が責任をとるという生き方こそ、われわれに意味を感じさせる生き方である。

 人間が自立するためには、燃える憎しみで眠れぬ幾夜を過ごさねばならない。凍える悲しみで朝を待つ幾夜を過ごさねばならない。自立への路は血の路である。人間の救いは憎しみのかなたにしかない。人間の安らぎは悲しみのかなたにしかない。

 憎しみで体が震えて興奮している時、憎しみのかなたにあるものを信じるのだ。

 悲しみで気を失いそうになる時、悲しみのかなたにあるものを信じるのだ。




『「やさしさ」と「強さ」の心理』 加藤諦三 大和書房




 そうなのです、。・かくして 自立の道  ⇒孤独の道 なのでございます、。・

 わちしが言いたい事をうまくまとめてくださってます、。・




 ちょっとは成長できたかな〜、。・



 人を好きか、嫌いかで判断できなかったわちし。。




 ☀ฺ 第三の道☀ฺ を見つけました



 『 大切にする 』です。ちょっと距離がある感じでいいでしょう?



 作家でいう、 神が降りた! です。



 ☀ฺ 人間関係を大事にする、大切にする。☀ฺ

 
 これがきっとこれからのわたしの☀ฺ 中庸の道☀ฺ となると思います!


 ☀ฺ ☀ฺ ☀ฺ ☀ฺ ☀ฺ そうしていきたいな!☀ฺ ☀ฺ ☀ฺ ☀ฺ ☀ฺ

誰もが必ず他人を凌ごうとするゆえ、人間の世界は烈しい競争を軸として進行する。この場合厄介なのは競争の仕方に規定がなく万事が野放しであることだ。すべての競技には規則があって逸脱したら失格する。しかし世の中一般の競争には決まりもなく定めもなく申し合わせもない。少なくとも法律に抵触しないかぎり、いや違法であることが発覚しなければ、どういう外連芸に打ってでようと勝手であろう。人間社会を支配しているのは弱肉強食を旨とする密林の掟である。単に勝ち負けを判定すべくの競争であるなら遠からずして何時か決着がつく。しかし勝つための勝負ではない凌ぐための競争には落ち着きどころがない。この出し抜き意向は人の世があるかぎり果てしなく続いて増大し激化する一方である。もうこれでよかろうと満足して腰を落ち着ける終点がない。勝ちたい欲求がさらにもっと勝ちたい熱望を次から次へと掻きたてるのである。


そんな忙しない競争に自分は加わりたくないと、埒外に身を退ける手はないか。人の世に交わって生計の道を立ててゆこうとするかぎり、逃避も隠遁も不可能である。競争心の極わみは相手が何かを遣ってゆけなくなるように仕向ける叩き潰しであるから、屈服と破滅に至らぬためには、相手の打つ手に抗して対応策を講じるしか他に道はない。かかる火の粉は払わねばならぬ。競争に応じて立ち向かってゆかなければ自分を守れない。すべての競争は自衛である。人は生きてゆくために戦わねばならない。競争あってこそ人の世が活気を呈して文明が生まれたのである。




しかし、競争で勝つことが生きる目的ではないんですねぇ、。・
こんな世の中でわたしたちは生きているのです。。
逃げることも許されず、休むこともままならず、なかなかおもしろいじゃございませんか、。・

競争の目的は勝利であり、そのためには他の誰よりも実力を蓄えねばならぬ。しかし規則のない一般社会では明確な判定を求めえない。能力を数値で顕証してもらえないから、証明されていない自惚が頭をもたげる。自分を思いこみだけ優位におくため、仲間のひとりひとりをさまざまに罵り、ひとりみずからを高みにおいて卑しい快楽をむさぼる。もし同僚の誰かが本当に無能であるなら、自分が競争相手よりいちだん上であるのを喜びとし、黙って満足しておればよいのに、それを口汚く卑しめ蔑むのはなぜか。そのかくされている動機はただひとつ、私を褒めてくれ持ちあげてくれと叫んでいるだけのことなのだ。世に人を罵って当たり散らす悪口雑言型があまりにも多いのは、自分が期待しているこう辞を誰からも与えられない不平不満に基づく。


人は誰でも自分を褒めてもらいたい。しかし自分が人を褒めるのは嫌なのだ。その人間の行き違いから至る所で無意味な諍いが生じる。人の世をまるくおさめる方法はただひとつ、誰もが褒め上手になろうとする修練である。諸人に立てられ押しあげられる人は、必ず人を褒める勘所を心得た訳知りである。人に嫌われ不遇におちいる扱いにくい型は、決して人を褒めない不平屋である。そして誰をも褒めようとせぬ難儀な口とがらし屋は、人の長所が目に入らぬ遅鈍型である。ゆえに誰からも何かを学びとる機会がない。洞穴にこもっているようなものだから進歩しない。或る人物の発育の可能性があるか否かを試すには、その人が何をどう褒めるかに耳を傾ければよいのである。




褒める機会が少ないですね。。接する機会が少なければ、悪い部分も見えないから褒めることが多いのですが、古くからの知人や家族はどうもあまり褒めていない気がします。


褒めるということは人を認めることです。当たり前のことも時には認めるのも大事かもしれませんね。


この本をいま、つらつらと読んでいます。ひとつひとつのテーマにこのくらいの文章で、すっきり言い切るので、面白いです。


さあ、きょうもがんばろうっと。

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