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「ネグローニを」
背後から、酒を注文する男の声が聞こえた瞬間、女の細い肩がびくりと動いた。
ネグローニ!女は口に運びかけていたシェリーのグラスを、思わずテーブルに戻した。
そして、自分の胸の鼓動に狼狽しながら、恐る恐る首を回し、声の主をうかがった。
女の斜め後ろのテーブルからウエイターが立ち去り、そこにはビジネスマン風の男が独り、椅子に深く腰を降ろしていた。日に焼けてか、浅黒い引き締まった顔が精悍で、いかにもやり手風の男だった。
よかったわ、いやな感じの男じゃなくて。それに、うんと大人だし……。
女はなんとなくほっとしながら、自分の酒のグラスを持ち上げた。そのグラスから匂ういつものシェリーの馴染んだ香りが、彼女をいっそう安心させた。
いい匂いのするシェリーをひと口飲むと、女は腕時計をそっと覗いた。六時四十五分。
夫との約束の時間を十五分過ぎている。今夜も一時間以上も待たされることになるのかしら。女は半ばあきらめ気分で、またシェリーを少し口に含んだ。
月に何度か、女はこの都心の地下にあるバーで、夫と待ち合わせる。
二人で酒を飲み、食事をするためだった。十五歳も年上の男と結婚して八年。時々のこのホテルでの食事は、子供のいない二人の、結婚以来の習慣だった。
先ほどのウエイターが、バーテンダーから赤い酒の入ったグラスを受け取り、銀盆にのせて運んでいく。
ネグローニだわ。反射的に女は体を強張らせた。
「おまたせいたしました」
斜め後ろでウエイターの声がする。
東京のバーでも、ネグローニなんてカクテルを飲む男がいるんだわ。やはりイタリアででも覚えたのかしら……。
女は小さく首を横に振り、グラスに残っていたシェリーを一気に飲み干した。
「これ、もう一つください」
通りがかったウエイターに、女はシェリーの追加を頼んだ。
背後から、氷がグラスに触れてなる音がいやにはっきりと聞こえた。女は自慢の形のいい脚をゆっくりと組み変え、それからゆっくりと斜め後ろに首を回した。
男は、大きな氷と赤い酒の入ったがっしりとしたグラスを、目を細めて傾けている。
そのグラスを口元から離した男と、女の視線がまともにぶつかった。慌てて女は目をそらしたが、瞬間、男がちょっと白い歯を見せて笑いかけたような気がした。
夫と同年配かしら。カウンターがまだあんなにあいているのに、テーブル席にいるということは、やはり待ち合わせだろうか。
ネグローニを飲みながら女を待つ男……。
女はふいに耳のあたりに火照りを覚え、思わず耳たぶに手をやった。その指先にひんやりと、小さなダイヤのピアスが触れた。
「どうもお待たせいたしました」
女のテーブルに新しいシェリーが来た。彼女は少しきついが、このいい匂いのする黄金色のシェリーが昔から好きだった。
ああ、やっぱりおいしい。この洗練されたスペインの銘酒にひきかえ、あのイタリア生まれのネグローニの味ときたら……。
女がネグローニに毒づこうとした時、ウエイターが急ぎ足で近づいてきた。
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うわぁ。。続き気になります。
出来るだけ早く更新してくださいね!
2010/5/25(火) 午後 10:43