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「ご主人様からお電話でございます」
そのウエイターをつかまえ、背後の男がネグローニの追加を頼んでいる。
どうせ遅れるという電話だわ。女は、背中にネグローニの男の視線をたっぷり
と感じながら、入口近くの電話機に向かった。
夫は八時過ぎまで手があきそうにないという。
和食でも中華でも洋食でも、このホテルの好きな店に入って、先にやっててく
れ。いずれにせよ、新しい店に落ち着いたら電話をくれ、ということだった。
夫の会社は、このホテルの近くにある。
イタリアの企業とデザイン提携している家具の会社の重役で、年中忙しかった
。
待たされるのはいつものこと。
女は腹を立てることもなく、そのまま洗面所に寄って化粧を直した。大きな鏡
に映った女の顔はいくらか上気し、首を動かす度に、小粒のダイヤが耳朶で微妙
にきらめいた。
女が席に戻りかけた時、背後のテーブルに新しいネグローニがきた。
その男の視線を跳ね返すように、女は背筋をことさら伸ばして歩いたが、椅子
に腰を降ろす時、つい彼の方を見てしまった。
その一瞬をとらえ、男はネグローニのグラスを彼女に捧げるようにちょっと上
げ、白い歯を見せた。女はどぎまぎしながら、椅子を自分に引き寄せ、急いで目
の前のシェリーに手を伸ばした。
女は、たった一度だけ、ネグローニを飲んだことがある。イタリアのミラノへ
商用で行く夫に同行しての、その旅先でだった。
夫は商談で多忙を極め、女はその日も午後のミラノの街を独りでほっつき歩い
た。
レオナルド・ダ・ビンチの壁画を見、モンテ・ナポレオーネ通りのブティック
をひやかし、ディアツ広場でひと休みしていた時のこと。陽気でハンサムな、イ
タリア人の典型のような若い男に声をかけられた。
最初は、街角のバールで彼とビールを飲んだ。
女は、達者な夫と違って、イタリア語はほんの片言しかできない。しかし、身
ぶり手ぶりも加え、結構話も通じて、思いがけず楽しい時間が持てた。
やがて二人は、バールからカフェへと店を移った。そして、そこで男にすすめ
られて飲んだのがネグローニだった。
ネグローニは、イタリアの古都フィレンツェで生まれたというカクテル。
カンパリとスイート・ベルモットとジンを混ぜ、ロック・スタイルで飲む。フ
ィレンツェのネグローニ伯爵が思いつき、愛飲したことから、彼の名前がそのま
ま付いたのだという。
アペリティフの傑作だというそのネグローニは、カンパリの鮮やかな赤がいく
らかくすんだ色合いで、味も複雑だった。甘いかと思うと渋く、渋いかと思うと
ほろ苦く、そして、舌にねっとりとまとわりついてくるような気もする。なんと
もヨーロッパ的というか、濃密で奥が深く、執拗な味だった。
女は、最初のネグローニを未知の味への興味から、二杯目はその味の深さに、
三杯目は舌への執拗な愛撫にひかれて飲んだ。
ネグローニのグラスを重ねるごとに、女の体は熱く、柔らかくなっていった。
ふと気がつくと、男の腕がいつか女の肩にまわされ、彼の指が彼女の耳朶をし
きりにまさぐっていた。その耳朶から、とろけるような快感が女の全身にひろが
っていく。
いつの間にか女は、男のイタリア語を理解することを放棄していた。
耳元での彼のささやきを、カンツォーネの調べのように聞き、ネグローニの酔
いと耳朶からの酔いに、ただひたすら身をまかせていた。
(3)へ
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