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ワダツミの子
花代は、島の子にしては、色の白い少女だった。病気がちで家からあまり出なかった、というのもあるのかもしれない。両親が島の外から来た、島の人の言う「よその人」であるからかもしれない。花代自身も、「よその子」と呼ばれて、子供たちに遠巻きにされることも多かった。しかし、花代が産まれたのは間違いなくこの島で、島の外にも出たことがない。洋介は、花代も立派に島の子だと思っている。
「花代、調子どうだ」
夏休みになると毎日、花代の寝ている座敷に、縁側から靴も脱がず膝だけで上がり込んだ。花代のまくら元にその日の体調を問うのが洋介の日課だった。花代は血管の透ける白い頬を少し上げて、いつも、大丈夫、と小声で囁いた。本当に調子のいい日には上半身を起こせる。年に数日、外に出れた。島を囲う青いような緑のような、太陽の光によって輝きを変える海に入れたことは、一度もない。
今日も洋介は花代のもとへ靴先を浮かせていざり寄った。見ると花代はまだ寝ている。長いまつげが閉じた瞼を彩っていた。まつげや髪は黒々としている。
寝ているところを起こすのがためらわれて、洋介はそのまま花代をじっと見ていた。陶器の置物のように真っ白だと思った。思わず自分の腕と見比べる。年中外を転げまわっている洋介の腕はこんがりと日に焼けている。腕だけでなく、島の子は全身真っ黒に焼けているのが普通だ。花代以外は。
「洋介?」
小さな、柔らかな花代の声で、洋介は我に返った。花代が目を覚ましていた。
「ごめん、起こしたか?」
「ううん、ちょうど目が覚めた」
ゆっくりと花代が身を起こした。手を背中に添えて起き上がるのを助ける。手のひらにかかる体重は小鳥の羽根ほどに軽かった。背中の細い骨の感触が指に残る。
大丈夫?と問いかけると花代はふっくり笑った。いつもと違い頬に赤みが差している。洋介は普段より胸が軽くなった気がして、嬉しかった。
「素敵な夢を見ていた」
まだ夢の中にいるように花代は話し始めた。
「どんな?」
「島のわだつみに呼ばれて、産まれて初めて海に入る夢。とても澄んでいて、きれいだった。本当の島の海もきれい?」
「きれいだよ。日が差すとキラキラ光が踊る。きっと花代の夢の海よりきれいだ」
「本当に?」
花代が瞳を輝かせた。ずい、と身を乗り出してくる。洋介は自分の頬が自然とほころんでくるのを感じた。うん、と頷くと花代は、周りが明るくなるような笑みを浮かべた。
「いいなあ、海、入りたい」
「いつか、元気になったら」
「そう、いつか」
そう言って花代は目を伏せて笑った。視線を洋介から外して、縁側の向こうの海を見つめている。洋介と花代は、もう何度もこの会話を繰り返してきていた。
「おばあ、わだつみって何だ」
花代の言ったことが気になって、洋介は家に帰るとエンドウ豆の筋を取っていたおばあに聞いた。しわくちゃの顔のおばあはあきれた様子で洋介を見た。
「島の子なのにそんなことも知らんのか。わだつみは海の神様のことだ」
すると、花代を呼んだのは海の神様なのか。洋介は自分の家からも見える海を眺めた。果てがあるとは思えない、空の広がる限り続く海。
「わだつみがどうかしたんか」
おばあはまた手の中のエンドウ豆に視線を戻して、作業を続けている。洋介は縁側に座り、ぷらぷらと足を揺らしながら答える。
「花代の夢に出てきて、花代を海に呼んだって」
「花代ちゃんか」
おばあは呟くように言って、口を閉ざした。
次の日、洋介が花代の家へ行くと、驚いたことに花代は縁側に一人で座っていた。
「花代、大丈夫なんか」
洋介が駆け寄ると、花代は大丈夫、と言う代りに洋介に手を伸ばした。
「今日は、調子いい。身体もいつもより軽いし、熱もないみたい」
「ほんまか」
花代の指先が洋介の指先をとらえた。細い指に力がこもっている。白い指は日に温められた洋介の指先に、ひんやりと触れる。
「洋介、海、行こう。私今日なら大丈夫」
「無茶言うな。おばさんに叱られる」
洋介は、ふと、家の中がしんと静まり返っていることに気付いた。花代の家は、子供は花代ひとりで、あとは物静かな父親と少し内気な母親だけなので、静かなのはいつものことだ。けれど、口を閉ざした洋介の耳には、わずかな人の気配も感じられない。
「お父さんもお母さんも、昼過ぎまで出かけてる。朝のうちにこっそり行けば、分からないはず」
花代はもう立ちあがって、洋介の手を引いている。初めは戸惑っていた洋介も、花代に手を引かれるうちに胸が高鳴るのを感じた。いつの間にか、洋介と花代は手をつないだまま、ひらひらと光の降る木立の下を踊るように駆けていた。
島の海は遠く澄む。目の前を全て覆ってしまって、深呼吸をすれば海の青のような緑のような、あの色に肺を満たされる気がする。
花代は白いノースリーブのワンピースで腰まで海につかっている。洋介もタンクトップと短パンのままで海に分け入った。
「きれい」
ぽつりと花代は呟いく。
「夢とどっちが?」
「夢の中では海に潜って空を見ていた。でも、きっとこの海で潜ったら、本物の方がずっときれい」
花代は海の水を両手をお椀のようにして胸元まですくいあげた。指の間から光を含んだ水がこぼれおちる。その様子を、洋介は黙って、ゆっくりと瞬きながら見ていた。
ふと、何かに呼ばれたように花代が顔を上げた。沖のほうを見ている。そのまま、少し首をかしげるようにして、立ちつくしていた。
「花代?」
「呼んでる」
「…何が」
「わだつみ」
洋介が引きとめる間もなく、花代はそのまま、つ、と音もなく海の中に潜ってしまった。海の中が初めてとは思えないほどの速さで、白い影は深みへと泳いでいく。
洋介はあわてて花代の後を追った。海の中はいつも通り澄んで、光が舞い散っている。海底の白い砂は、宝石の粒のようだった。
海底がくぼみのようにひと際深くなるところで、花代は沖へ沖へと泳ぐのをやめた。その代わりに、くるくると、地上にいる時よりも軽やかに楽しげに、水と戯れ始めた。光の筋が空から降り注いで、花代はキラキラと光をまとっていた。白いワンピースが、花のように魚のように、花代のまわりをたゆたった。
花代は笑っていた。軽やかな笑い声が、洋介の耳に届くような、そんな風にさえ思えた。
洋介は海の中で呆然と、花代を見ていた。
しばらくして、ふい、と花代は一人で浅瀬へと泳いで帰っていった。またも洋介は花代の後を追う。
ざぶり、と花代が海から顔を出した。洋介もざぶりと海から顔を出す。
濡れた髪の毛がぺたりと頬に張り付いている。洋介と花代はお互い見つめあい、弾かれたように、ころころと笑いあった。
「海に溶けてる気がする」
花代は水の中につけた自分の指を見ていった。
「何が」
「私の、命」
洋介は何も言えなかった。風が一つ吹いて、水面にたったさざ波が、波打ち際から沖へと走った。洋介は花代の見つめる指を掴む。花代の指先は、縁側で感じた温度よりも冷たく冷えていた。
「洋介の手、温かい」
「花代のが冷たいんだ」
花代が洋介の目をまっすぐ見つめた。眩しそうに目を細める
「…洋介は、お日さまに似てる」
洋介は手の中の小さな花代の手を、強く握りしめた。
昼を過ぎる前に、花代と洋介は手を繋いで家へと戻った。花代が何かと戯れているようなあの瞬間のことは、何も話さなかった。わだつみの声は洋介には聞こえない。
昼間の暑さは夜の闇に閉じ込められ、寝る時刻になっても蒸し暑さが続いた。洋介は居間の畳の上に寝っ転がっていた。視界の隅に洗濯物を畳むおばあの姿が見えた。
「なぁ、おばあ」
「どうした」
「花代は、島の子だろか」
洋介は天井を見詰めたまま、独り言のように呟いた。おばあが洗濯物を畳む音が聞こえる。
「当たり前だ。花代ちゃんも、おまえも、おばあだって、おばあからしてみれば島の空気を吸うもんはみんな、島の子だ」
「そうか」
おばあの答えを聞いて、洋介は安心して目を閉じた。花代を呼んだのは、きっと島のわだつみだ。島のわだつみなら、花代を救わないはずがない。花代だって島の子なのだから。
きっと花代は良くなる。わだつみが海に呼んだのだって、そのためだ。洋介は遠くで響く波の音に誘われるようにして、眠りに落ちて行った。
それから、夏の間、花代の体調はそれまでで一番と言っていいほど、安定していた。海に入ることこそ無かったが、夏の日のほとんどを起きたまま過ごした。洋介と花代は、木立の緑とオレンジの花の溢れる庭で、互いを追いかけて走った。
夏は終わり、秋と冬も駆け足で過ぎ去っていく。再び芽吹きの春が訪れて、春の終わりに花代は死んだ。梅雨の始まりの冷たい雨の日に、花代は高熱を出して寝込んだ。次の日になっても熱は下がらず、意識はたびたび途切れた。花代の両親は花代を連れて島を出て、本土の病院へ入院させた。
花代はわだつみの声の聞こえないところへ行ってしまってから二日後に、静かに息を引き取ったという。
花代が死んだ年の夏、洋介は海に行くのをやめた。
花代を失った島の四季は巡る。花代が死ぬ前、産まれる前から続く幾度目かの夏が、再び訪れた。
その日、洋介は何かに呼ばれたような気がして目を覚ました。すでに日は高く、首筋にじっとりと汗をかいている。家族はみんな出かけているのか、辺りはしんと静まりかえっている。遠く波の音だけがひっそりと聞こえていた。
何一つ変わりない朝だった。それでも胸の奥がざわついて落ち着かず、洋介は裸足のまま表へ出た。足の赴くように歩いてみる。唐突に、今日が、花代と最初で最後の海に行った日であることを思い出した。
海の気配が徐々に近づく。波の音に耳が洗われ、潮の匂いが鼻をくすぐる。海の青と緑が肺を満たした。
海がこんなにも近いのは何年振りだろうか。裸足の足に砂がまぶされる。足を止めることなく、洋介は海に向かう。躊躇いはなかった。
花代がいなくなってから何度めの夏なのか、本当は分かっている。数える気はなくても、夏が巡るたびに洋介はあの夏を思い出していた。あの頃より背が伸び、腕や肩にはしなやかな筋肉がついて、身体は幾分か逞しくなった。声も低く、幼い少年だったころとは違う。
水面を音もなく平泳ぎで滑るように泳いで、海の色が濃くなるあたりで洋介は海に潜った。探すまでもなく、そこは、花代が海の一部であるかのように自由に泳いだあの深みだ。
洋介は海の中で目を閉じる。閉じた瞼の向こうでちらちらと揺れる光が透けた。耳には小さな泡の呟きが伝わってきた。それ以外は圧倒的な海の存在感に塗りつぶされている。
「洋介」
柔らかな懐かしい囁きが耳の中で広がる。洋介は思わず目を開いた。水の中で息を飲む。開いた瞳に海の中で舞う花代の姿が映る。光をまといながら花代は洋介に両手を伸ばし、泡と共に消えた。とたんに、ひときわ大きな波に転がされるようにして浅瀬へ押し流された。洋介は波の遊ぶがままに漂ってから、波が穏やかになるころにようやく、静かに立ちあがった。
海につかる自分の両の掌を見つめる。
「ここにおったんか、花代」
髪からしたたる海の水と一緒になって、涙が頬を伝った。幾筋もの流れを作って、海に落ちては溶けていく。花代の命の溶ける、この海に。
島は、青いような緑のような、たくさんの命の溶ける海に抱かれるようにして浮かんでいる。一つ風が吹いて、さざ波が波打ち際から沖へと、広がりながら駆けていく。沖のずっと遠くで太陽の光が幾筋も、海と出会ってその光を海に溶かし込んだ。遠く遠く、海の向こうから、波が途切れることなく寄せている。途切れることなく、いつの日も。
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