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きっかけは、よくあることだった。ドラマでも小説でもなんでも、夫婦の喧嘩といえばベタとも言えるほど鉄板なことだったけど、まさか、実際に自分の身に降りかかるとは。
「明日飲み会だから、夕飯いらねぇや」
そのあとに俺はちゃんと、悪いけど、と付け加えた。明日は俺と恵が結婚してちょうど二年目を迎える結婚記念日だってことは、しっかり覚えてたからだ。よくあるドラマみたいにすっかり忘れてた、なんてことはないように、俺だって気を付けてる。二人の記念日をないがしろにしてるつもりはないという、俺なりの意思表示のつもりだった。
だから当然、恵もちょっとむくれながらも、しょうがないわねと言って許してくれるものだと思ったのに、
「ええ!?なんで?明日は一緒に食事に行こうって、一週間も前から決めてたじゃない!」
と返されて、正直面食らった。
なんでそんなに批難めいた表情で睨まれなきゃならないのか、納得がいかない。恵の顔から目をそらし、夕飯のサラダをつついた。
「しょうがないだろ、付き合いだってあるんだ」
仕事がなくなったらどうやって生活するんだよ、という言葉を苦い気持ちで飲みこんだ。険を含んだ言葉が狭いアパートの夜の食卓に広がる。
「断れないの?義務じゃないんでしょ?」
「無理。簡単にそんなこと言うなよ。お前は付き合いとかないから分かんないだろうけど」
俺の言葉を聞いて、恵の機嫌が一段と悪くなったのが空気で伝わった。
「私が大した仕事してないって言いたいわけ?私だってパートしてるし、家事もほとんどしてるのに?」
もう知らない、と言って恵が席を立った。隣接している寝室に入って、これ見よがしにドアを力任せに閉める。
なんでそうなる、第一、お前のパートだけで食ってけるか、と毒づいて、俺は恵の作ってくれた夕飯を食べるのをやめた。
それから顔を合わすこともなく、結婚してから久々に別々に寝た。俺はリビングの慎ましいソファに身を沈めて、朝ゴミを捨てに行くのも俺じゃないか、とイライラしながら眠りについた。
次の日の朝、俺は思いっきり寝坊した。恵が起こしてくれなかったからだ。朝が弱いことは知っているくせに起こしてくれないのは、あいつがまだ怒っている証拠だろう。事実、恵はキッチンに立って俺に背を向けたまま、しゃべろうとしない。おはようの一言もなしだ。
出社時間が刻々と迫ってきて、俺は焦りと共に昨日の怒りを思い出していた。なんで起こしてくれないんだよ。まだ根に持ってんのか。と、ふつふつと湧き上がるいら立ちに、眉間のしわが深くなる。
いつもなら必ず、いってきます、と言うところだったが、無言で家を出ようと思った。皮靴に急いで足を突っ込むが、なかなか思うように履けない。必死になって足を押し込んで家を出ようと思ったその時、
「これ」
と、恵が弁当の包みを差し出した。だけど、声は怒ったままだ。
「あり」ありがとう、と言いかけて、俺は続きを飲み込んだ。渋面を作って何も言わずにひったくるようにして包みを受け取る。
鞄にそれを押し込みながら、恵の顔は一切見ずに家を出た。
昼食の時間になって、俺は、なんで弁当を受け取ってきたんだろうと後悔した。喧嘩してる相手に借りをつくるなんて、という、どうみても子どもっぽい考え方だったが、恵に負けたようで気に入らない。
俺の会社では最近の不況もあって、弁当持参の人と外に食べに行く人とがちょうど半々ぐらいだ。俺は弁当組で、いつも恵の作る弁当を持ってきていた。
同僚や上司から、「愛妻弁当だな」といってからかわれる度に、昨日の残りものだ、と言ってごまかしていたが、本当は恵が毎朝早くから作ってくれているものだった。
でも今日ばかりは、誰かを誘って外に食べに行きたかった。
仕方がなく自分のデスクで弁当を広げる。家にいた時のような渋面でふたを開けた。
空揚げに、ピーマンの肉詰め、ひじきの煮物、キャベツと舞茸のあえ物、肉じゃが、極めつけの鶏めし。
なんだよ、俺の好物ばっかりじゃないか。
俺は眉間を揉んで、うう、とうなった。照れ隠しにがりがりと頭を掻く。
「…ありがとう」
誰にも聞かれないように口の中でぼそぼそ呟いて、あいつの好きな花はなんだったか、記憶を辿った。
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