|
平原遺跡よりも古く、伊都国初期の王墓とされる三雲南小路遺跡や井原鑓溝遺跡を初めとして、 |

- >
- Yahoo!サービス
- >
- Yahoo!ブログ
- >
- 練習用
こんにちは、ゲストさん
[ リスト ]
|
平原遺跡よりも古く、伊都国初期の王墓とされる三雲南小路遺跡や井原鑓溝遺跡を初めとして、 |
| 日 | 月 | 火 | 水 | 木 | 金 | 土 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 |
| 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 |
| 15 | 16 | 17 | 18 | 19 | 20 | 21 |
| 22 | 23 | 24 | 25 | 26 | 27 | 28 |
| 29 | 30 | 31 |
[PR]お得情報
お待たせしました。(http://www15.ocn.ne.jp/~sibareki/yajiri/iseki.htm)で見れるようにしました。わけあって明日には削除させてください。見れるといいですが?
2007/1/22(月) 午後 8:29 [ 歴史太郎 ]
見れましたよ!とても大きな石鏃ですね。驚きました。石鏃といえば、九州では、黒曜石が一般的なんですが、違うんですね。
2007/1/22(月) 午後 8:33
写真だと大きく見えますが、4cmくらいですぅ!私の所にも黒曜石原産地ありますが(板山)ほんとに豆みたいなやつで残念です。でも子どもの頃拾ってきて砥石で磨いてアクセサリを作りました。綺麗でしたよ!しかし、よほど暇人ジャナイト疲れますね。その点、原始人は1日中朝から夜までせっせと磨製石斧を作ってたのかな〜!
2007/1/23(火) 午前 8:51
縄文人はひまだったのでしょうか?
2007/1/23(火) 午前 8:52
rekisiさん、縄文人も縄文人ながら、暇ではないと思います。狩のため、せっせと、鏃を作るのだから、苦労はしていたんじゃないかと思いますよ。
2007/1/23(火) 午後 6:26
前に石器を作るとき少し火の近くであっためるといいよ!と言っていた人がいましたが遺跡から出たやつみても、良くわかりませんね〜。それと石匙なのか槍なのかよく分からない石器あったのですが。木葉形尖頭器に摘みの付くものをみつけました。縄文人は不思議なものを作りますね。押出型・・・?
2007/1/25(木) 午前 8:42
槍は普通、石器ではなく、木ではないんでしょうか?石匙は、アリスの職場では、手捏土器として、手を当てて作った形跡がありますよ。ちゃんと、取っ手があり、スプーンのように丸みを帯びています。木葉形も珍しいですね。
2007/1/25(木) 午後 6:34
山形の押出遺跡(前期)で、押出型ポイントとか言ってました。使用方法は、他の遺跡の使用痕分析で尖頭器の可能性があると言ってましたが、誰も過去に戻って見た事無くて分かりませんね。
2007/1/25(木) 午後 7:00
確かに分かりませんね。どういうものか、見たいものですね。
2007/1/25(木) 午後 7:20
わかりましたか?
2007/1/27(土) 午前 7:49
分かりました。
2007/1/27(土) 午前 8:00
area1919です、小生のゲスブでコメント頂き有難う御座います、そちらでのコメントのつづきを致します、この書庫の方は訪れた事が無く、初めて拝見しました、つい最近までの記事がありますね、前原遺跡は以前何かで読み、「まえはる」と称するのではないでしょうか、古い記憶で間違いかも。ここが今でも発掘がされているとは知りませんでした、これから此方の方もブログ訪問いたします、なを小生のブログでも川村北城址で複合遺跡の為、古墳時代の発掘記事を少しのせ、発掘品を載せていますが、その発掘地の「遺物の写真紹介」もあると、、
2007/1/28(日) 午前 11:48 [ エリア行く ]
コメ欄字数制限の為、コメント続き) その発掘遺跡の時代が分かり、考古ファンにはより興味わき、ありがたいですね。
2007/1/28(日) 午前 11:54 [ エリア行く ]
まえはるとは聞きませんね。でも、ここの地方は、はらと呼ばずにはると呼ぶことはあります。前原は、新しい名前だと思います。どちらかと言えば、前原より糸島郡の方が古いと思われますね。昔の伊都国に通ずるものですね。
2007/1/28(日) 午後 0:52
area1919です、「まえはる」の件は小生の記憶が古く確かではありません。小生のゲスブコメの回答ですが、丹下砦付近には古代遺跡が多く1km四方に5〜6箇所個別の古代遺跡がありますが、中世と連続はしていません、またこの丹下砦は次回解説しますが牧氏以外に複数名の武将が守り、この地域全体は牧氏と直接関係ありません。ここは日本尊東征伝説地で、その鉾を立てかけた伝説「鉾ノ木遺跡」 で、縄文時代貝塚や人骨や、縄文土器片が発掘されています。
2007/1/28(日) 午後 4:56 [ エリア行く ]
縄文文化の次に弥生文化と一般的に言われますが、時代的には、その通りですが、縄文文化と弥生文化は、全く異質の文化だと考えます。当時、日本全国に縄文人の文化がある中、縄文中期頃に弥生人が、渡来してきたと考えています。西日本においては、渡来系弥生人が縄文人を駆逐する形で、進出してきています。
2007/1/28(日) 午後 6:11
それは、大阪付近で、その証拠が出てきています。弥生人は、現在の名古屋付近を先頭にそこから東には、進めなかったようです。それは、稲作の北限のこともありますし、中部地方における縄文人の勢力の強さによるものだと思います。次に弥生人が、登場するのは、現在の小田原市付近です。
2007/1/28(日) 午後 6:12
海路を使ったと思われますが、そこでは、縄文人との融合が行われています。このように弥生の勢力と縄文の勢力があったため、日本尊が実際に存在したかどうかは、分かりませんが、大和朝廷が、日本統一をするためには、九州南部の熊襲や隼人族、東国の縄文系の人々を平定する必要があり、その象徴として、日本尊が登場し、大和朝廷における日本統一が、行われたものと考えます。
2007/1/28(日) 午後 6:15
掲示板、一杯になってきましたね(笑)!!
2007/1/28(日) 午後 6:28
はじめまして。 k940826です。 最近、この遺跡に行ってみたんですが、もうすぐ調査が終了するみたいですね・・・。銅鏡や玉類がたくさん出ていたとこの前の新聞に載っていましたよ。
2007/3/23(金) 午後 9:56 [ - ]