ここから本文です
GPS付きランニング用の時計って素晴らしく便利。あと迷子解消機能を付けてくれれば完璧なのに。

書庫古書

記事検索
検索

全2ページ

[1] [2]

[ 次のページ ]

イメージ 1

 初めて飛行機に乗ったのは22歳の時だった。いわゆる卒業旅行というやつで、ヨーロッパ。アラスカ経由で、片道21時間だった。単に航空技術の問題ではなく、領空権や以遠権のために21時間だったのだろうが、それにしても現在は直行12時間だから進歩だ。
 
 これは1750年にフランスで発行された日本地図で、地理学者ヴォーゴンディ親子の作。後に息子のほうは国王から宮廷侍従地理学者に任命されている。ただ、彼らが自ら日本に赴いて測量したのではなく、1690年から92年の間に滞日したオランダ商館付きドイツ人医師、ケンペルが測量した地図、世に言う『ケンペル図』を元にしていて、この頃西欧で作られたほとんどの日本地図はそれが元になっているようだ。
 しかしだ、いくらケンペルさんが出島から江戸に2回行ったと言っても、たかが2年。彼の表の仕事は医師なので、地図作り三昧するわけにもいくまい。だから彼の手元にはまず日本で作られた地図があったに違いない。 
 日本最初の全国地図は、奈良時代の「行基図」で、でもWikiによると「位置関係は把握できるものの正確さには欠けた」そうな。あたりまえだ。それ以降、本格的な全国地図の制作は江戸時代まで行われなかった。ケンペル来日以前なら、1644年に幕府が諸大名に正保国絵図の提出を義務付けて作成した正保日本図が当時の最新版で、次のヴァージョンアップは享保期だから、この地図の元の元は正保国絵図なんだろうと思う。
 ケンペルさんは旅にコンパスや測量器を持ち歩き、コソコソと、でも正確に、時には緯度測量さえしている。書き取る際にはわざと草花を手に取り、いかにも自然観察をしているという風を装ったそうで、本国から受けたちょっぴりスパイっぽいミッションを、好奇心の塊と自称する彼が楽しんでいたことは間違いがない気がする。
 帰国の後、彼は「日本誌」を上梓、それが英・仏・蘭語に翻訳され、後、知識人の間で一世を風靡した。ゲーテ、カント、ヴォルテール、モンテスキューらにも愛読され、その後19世紀のジャポニズムに繋がると説く人もいる。

 その後、伊能忠敬が実測地図を作成したのはあまりに有名だが、ただ、せっかくの素晴らしい伊能図も、芸術文化方面には浸透せず、古伊万里染付によく登場する地図皿は、なぜか奈良の行基図が後々までに使われてきたのは笑える。天保の伊万里焼などの「地図皿」は海外にも輸出されたが、このヴォーゴンディ地図と、輸入されてきた古伊万里地図皿を手に、ルイ15世は「ぜんぜん違うやん」とか思っただろうか。

 この地図では太平洋は「インド・オリエンタル海」と記されている。先般のNHK「龍馬伝」に登場した地図にも「Oriental Sea」と記されていたから、当時の一般呼称なんだろう。日本海の上には朝鮮海がある。そしていまだに論争は絶えず、その度にこの時代の地図にまで話がさかのぼる。
 私たちがいる「今」は、延々と続く歴史の途中にすぎず、これからも脈々と時は刻まれる。

 ケンペルの日本への旅は片道一年未満だったという。16世紀末にバスコ・ダ・ガマが初めて喜望峰経由でインドに到着するのに1年以上を費やしたのに、かなりな技術革新だ。今日、10万円と12時間でパリに行けるのも、こんな歴史の恩恵だなあと思う。私がおばあちゃんになる頃にはパリに5万円+5時間ぐらいで行けるかもしれない。
 そういえば20年前の卒業旅行代金、まだ親に返済していない。借金の時効ってのは何年なんだろう。

イメージ 1

 自分が周りからどう思われているかについて、自意識過剰なまでに気になる年齢というのがある。私の場合は、小学校低学年の時点で自身がブスであることをしっかり認識していたため、外見面について他己評価気になる時期はついぞ訪れなかったが、たとえば性格とか成績とか善良性とか、内面性について、確かに20代の前半は口にはださずとも気にはしていたように思う。

 1900年前後のジャポニズム作品を見るにつけ、多少歪曲されていようとも、いかに日本の美が欧州を席捲し憧憬の目で迎えられたかがわかる。だから、私は日本のものはもちろんだが、ジャポニズムのものを骨董市で発見すると嬉しくて買いがちだ。ジェロの演歌を聴くときのような気分と類似しているかもしれない。
 これもそんな類で、ブラッセルの古本屋で買ったものの一つだ。引越しダンボールからでてきた。

 1924年に出版されたガストン・グロス作曲『JOLIE MOUSME(=美しいムスメ)』というピアノ曲の楽譜だ。いかにも時代を映したロートレックやミュシャのポスターっぽい手法の表紙と、「JAPON」を単にモネの「ラ・ジャポネーズ」からだけ安易に引用したと思われる女の絵。だらしなさすぎな着付やら伸ばした爪やら、着物が得体のしれないチープさなわりに、花魁アタマであることとかが楽しすぎて買った。

 しかし、グロスって誰?とググってみるも、全く該当がないことから、歴史に名を残さなかった人であることだけはわかった。世には無名の、だが秀でた芸術家というのはあまたいるものだしと、初めてこれを電子ピアノでどんなものかと弾いてみた。ピアノなんぞは10歳までしか習っていない私が、初見で主旋律なら弾けてしまう簡単さ。まぁモーツアルトのメヌエットなんて簡単だけど卓越した旋律だもの、なにも簡単だから名曲でないとはいえない。が、この「美しいムスメ」は、ニ短調で暗くて短い。山本リンダの「もうどうにも止まらない」やら北島三郎の「まつり」やらマイケル・ジャクソンの「スリラー」だってニ短調なんだから、一概にニ短調イコール暗いと決め付けてはいけないが、実際に鍵盤を奏でても、暗くてユルくて頭の軽そうな、素人の私にすらわかる駄作だった。私の手元にはもうひとつ同じ年代に同じくSoulivanという誰も覚えていない作曲家が作った『ゲイシャ』というピアノ曲の楽譜があり、これは難しくて弾けないのだが、やはりニ短調だ。日本美人のイメージは、西欧ではニ短調だったのか。「元始、女性は太陽であった」なんていってるフェミニストはあの時代もいたが、どっちかというと、やっぱりイメージは『おしん』とか『ああ野麦峠』が日本女性のイメージなのかもしれない。
 この曲の20年にジャポニズムにハマりこんだプッチーニにより発表された『蝶々夫人』。ストーリーは平塚らいてうさん好みではないだろうが、音楽は圧倒的で、これなら日本女子としては嬉しい。

 不惑の私は、もう周囲の評価はそう気にならない。容姿について10歳で悟ったのに比べればずいぶん時間はかかったが、自身がどんな類のものなのかは、概ね把握できつつあるから。とはいえ、ある日誰かに、「あなたって、暗くて緩いかんじですね」といわれたら、多少驚くかもしれない。でもまあ、ニ短調でもアントニオ猪木の「炎のファイター」なら、かなりフィット感ありなのだが。

イメージ 1

 今日、エンジニアチームのヘッドであるマイクと営業スタッフに呼び出された。わざわざ250Kmも遠くにいた私に何かと思えば、コンサルの仕事が入りすぎて人員不足だそうな。
 私は営業系なので、仕事が取れてなんぼ。「取れすぎ」と言われても知らんがな・・・。で、なにゆえそんなに人員不足なのかを聞けば、「A君はヒアリングができない」「Bさんは専門に特化しすぎ」「Cは経験不足」とかで、コンサルに使えるのは4人しかいないという。波のある受注のために採用はできないんだし、持ち駒で凌ぐしかない。その間営業にはアウトソースできるものとかパッケージを売ってもらうかぁ・・・とか考えてる私の前で、彼は延々とリソース不足を訴える。私から上へ増員嘆願をしろとでも?しまいに「ああ、自分がもう二人くらいほしい」とのたまうので、私はふと顔を上げてニタニタした。
「高くつくエンジニアを何人も採っておいて、あれはダメ、これはダメって、アナタの日頃のOJTが悪かったんじゃないの。つい半年前、フィールドSEのレベルが低くすぎて話にならないからレベルアップしろと、フィールドのヘッドに食ってかかったのはアナタでしょ。自分のシマも、もっとレベルを上げておくべきだっだわね」
猛反撃にでるマイク本人より、同席の同僚たちの方が凍り付いた。その実力から影の社長と言われるNo2の彼に、真正面からは誰も辛言できない。でもさ、皆知らないんだろうけど、彼は女にキツくいわれるのは好きなのだ。

 江戸吉原の花魁は張りが命といわれた。天神や太夫を買うならば、つっけんどんな初回に表裏を返さね床にありつけず、また現代のソープの10倍くらいの金を払っていてさえ、振られることがあった。それは吉原がただの女郎屋ではなく、擬似恋愛の提供を目していたからだ。花魁は、武家の女を寄せ付けないほど文芸に秀で、世情に明るく、茶道、華道、香道はもとより、三味線、鼓、踊りもこなす、スーパーレディだったから、「男は上臈、女は下臈」というように、格上の女を籠絡したいという男の願望を狙った営業戦略なのだそうだ。
 『もてない男』の著者、小谷野敦さんが書いていた。自身が地方の一般的な家庭の出であることから、ハイソな背景をもつ女性への憧憬が激しく、「お嬢様」「高学歴」を女に求めてしまうと。また「もてない」がゆえに、ブスを彼女にすれば「あいつにはあの程度の女」と言われることが我慢できないため、美人にしか恋ができないとか。
 でも格上の女を落すのが楽しいのは「愛人」や「恋人」に限られるんじゃなかろうか。周囲のほとんどの男が妻に選んだのは、学歴や収入が自分より下の女だし、以前、東大卒の女の子が、同期の無名(?)大卒の男と結婚した時は、会社中にセーションが巻き起こったもの。やはり妻には癒し系の女への需要が高い。

 これは『華麗なるギャッツビィ』の初版本。人に差し上げたが、やっぱり手元にもほしくて、また探している。
 物語で、しがないギャッツビィが恋をしたのは超上流階級のお嬢様。もし彼女が庶民の女ならこの恋物はありえない。もし彼女が人妻でなければ、またこの物語もありえない。

 私がオフィスを出る時、マイクが「次はいつ来る?木曜?ウチ奥さんいないから泊まれば?」と、どこまでマジなんだかわからないことを言っていた。私はブッと噴出し、「奥さんがいるときに泊めてもらうよ」と投げキッスした。
 彼がこんな戯言をぶってゴロニャンするのは、きまって私がピシャリと言葉のビンタを浴びせた後。私は芸はないし年収は彼より低いしブスなので、格上籠絡の欲望に基づく言動ではなかろう。単に・・・やっぱりM気質?

イメージ 1

 随分ご無沙汰をしてしまった理由は、本を読んでいたからだ。
 昨年赴任してきたエンジニアが、うちの人間には珍しく本好きだと発見したのが先々月。以来、四六時中お勧め本を貸してくれるようになり、それがどれもこれも面白くて、やめられない止まらない状態に陥っていた。お勧め本がどれも面白いという人はあまりいないもので、私にとってそういう人は、姉以外には人生で彼が二人目だ。

 もともと私は本が嫌いだった。幼児期から本の虫だった姉に比べ、私は『なかよし』『りぼん』などマンガ一辺倒で、自称読書家の父は小学生の私を早々に見放し、会社帰りに姉だけに本を買って戻った。本は嫌いだが、差別されるとそれはそれで癪にさわり、私の本嫌いには拍車がかかり、宿題の読書感想文でさえ巻末の解説を読んで済ませるようになった。

 そんな私がなぜ人並みに読書するようになったか。アホらしいが、恋なんである。
 二十歳そこそこの時に、モノ書き男に恋をして、なんとか話題についてゆかんがために、昼夜を問わず寸暇を惜しんで濫読した。文庫本を歩き読みしていて電柱に激突し、鼻血をだしたこともある。で、その男が去った後は人並みな図書目録が頭に置き土産された。その後も自身の無知を棚に上げて私のインテリ好みは変わらず、男に袖にされる度に、スタンダード・ジャズ・コレクション、世界美術全集、フランス語などが虚しく頭の中に堆積していった。そしてガンダーラ美術の専門書が本棚を著しく占拠したのは私が30歳の時で、中にはガンダー特集が組まれた薄汚れた明治の雑誌があるのも、哀しいかな同じ理由による。
 まったく世の恋愛パワーを、電力に変換できたら、中東がらみの紛争はなくなるんじゃなかろうか。

 このところ恋愛乾季なので全く私は進歩しない。ジャズを弾るようにピアノを習い直したいなぁ、なとど思うけれど、ミュージシャンにフォーリンラブでもしない限り達成は不可能だろう。わりと好きな葉加瀬太郎が、姉の小学校の同級生だったと知ったのは、彼が高田家へ婿養子に入っ後のことで、迂闊だった。
「モト彼に貰ったヴィトンのバッグ、やっぱ処分するかなぁ」などと女友達がよくボヤくけれど、贈り主が他の女に走ろうが他界しようが、実存主義者(?)の私は気にしない。モト彼の脳内置き土産は、今もありがたく薀蓄たれる際に愛用させていただいている。嗚呼、若いときに中国人、スペイン人、アメリカ人と恋愛しておきゃよかったよ。そうすれば、今頃5ヶ国語を自由自在なのに…と、これもまた不毛な後の祭り。

 それにしてもこの本、たった100年前の出版なのに、「明らかに印度人の面貌をなせり」「これ恐らくはマーラ神の肖像ならんか」「建築状態を研鑽するに就き供給する所の材料甚だ少し」と、言い回しがやたらご大層である。文調にばかり注意が行ってしまい、著者の謂わんとするところの判別甚だつき難し、だ。
 同僚のレンタル本のせいで、頭がすっかり戦国時代やら江戸長屋やら維新やらに毒され、こういう言い回しにも親しみを覚える今日この頃。こうなったら本の中の登場人物にでも岡惚れして、乾季の今はバーチャル恋愛で懐古調な日本語の言い回しの修得でもいたしませう。

イメージ 1

 映画『ダ・ヴィンチ・コード』が封切られた。
 イントロの舞台となるルーブル駅を通る地下鉄で私は出勤しているが、今週は2つ隣のコンコルド駅が深紅で驚いた。ホームの壁全体が1枚のポスターになっていて、劇場のようだった。ルーブル美術館での撮影を、史上初めてシラク大統領が許可したということからも、それだけこの映画のもたらす観光収入への期待が高いということだ。
 小説の書評を読み、近くの本屋で英語版を買ったが30ページで挫折。それをどこかでぼやいたら、一度会っただけの角川の編集者さんが日本語版を送って下さった。感涙。その後は、英語30ページに要した時間で上下巻読めてしまった。確かに面白いけれど、おじいさんが孫娘に残すメッセージとしては解読困難極まりなく、これでもかこれでもかと暗号が立ちはだかりすぎ。私の祖父は孫の私より末娘である母を可愛がっているが、いまわの際に母に残す辞世の句は「妙ちゃんの作ったちらし(鮨)、また食いてぇ」くらいだろう。
 
 これは明治13年に春陽堂から出版された「美術世界」という雑誌の創刊号である。
 ノルマンディで行きつけの古本屋さんが、私が好きそうだと取り置きしておいてくれたもの。半紙本で、どうやって印刷をしたのか、もしかすると全ページが浮世絵なのかもしれない。表紙はもちろん、久保田米僊の縁日の図とか、月岡芳年の美人画とか、どのページも一枚一枚額にいれて飾りたいような艶やかさ。
 春陽堂は明治11年頃に創業した現存の出版社で、創業者はこの本を背中に背負って行商したと思われる。冒頭の序文を岡倉天心、あとがきを川崎千虎という東京芸大教授コンビで錚々たるものだと驚いたけれど、でもこの本が出版された年に、岡倉はまだ東大を卒業したての新米官僚だったはずで、それほど高飛車な本でもなかったのかもしれない。
 手にとって眺めるたびに惚れ惚れする本なのだが、問題は、読めないってこと。
 二十歳の岡倉天心がこの美しい雑誌の発刊にあたり何を語ったのか。楷書なのに漢詩文に近く、何度文字をたどってもちんぷんかんぷん。15代将軍慶喜に近しい国学者、前田夏繁の序文其の二など行書というよりアラビア語に見えるほど。あとがきも然り。嗚呼もの哀しい。

 『ダ・ヴィンチ・コード』では、祖父の組んだ難解なコードに隠された愛を読み解けるだけ、その孫娘は頭がいい。結局コードというのは隠すためではなく、伝えるために存在すべきもので、メッセージを理解するには、相応の知識と機転が必要だということをひしひし感じる。
 「言語」もいわばコードにすぎない。私が『ダ・ヴィンチ・コード』の英語版を挫折したのは、それだけの知識がなかったわけで、著者ダン・ブラウンの創りだした雰囲気のいくつかは訳本ではそがれていたに違いない。同じく、この『美術世界』にある、流麗な文字で紡がれた若き岡倉天心の言葉も、開国時に将軍付きの国学者だった前田夏繁の思いも、母国語なのにたった130年前というだけで、情けないことに私には読み取ることができない。骨董の器の出自を読み取り、その背景に想いを馳せるのも、コード解読や外国語に似ている。
 同時代に生き、同じ国に生まれても、伝わらない言葉は多い。けれどやはり努力はしてみたい。ほんの少しでも分かるために。昔の人の思いを、異国の人の願いを、いつも近くにいてくれる友人たちの喜びを。

開くトラックバック(1)

全2ページ

[1] [2]

[ 次のページ ]

りんりんの妹
りんりんの妹
女性 / O型
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について

ブログバナー

検索 検索

よしもとブログランキング

もっと見る
本文はここまでですこのページの先頭へ

[PR]お得情報

いまならもらえる!ウィスパーWガード
薄いしモレを防ぐパンティライナー
話題の新製品を10,000名様にプレゼント
いまならもらえる!ウィスパーうすさら
薄いしモレを防ぐ尿ケアパッド
話題の新製品を10,000名様にプレゼント
ふるさと納税サイト『さとふる』
11/30まで5周年記念キャンペーン中!
Amazonギフト券1000円分当たる!

その他のキャンペーン

みんなの更新記事