二種類の希望

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「これらのことの後,わたしが見ると,見よ,すべての国民と部族と民と国語の中から来た,だれも数えつくすことのできない大群衆が,白くて長い衣を着て,み座の前と子羊の前に立っていた。・・・すると,長老の一人がこれに応じてわたしに言った,『白くて長い衣を着たこれらの者,これはだれか,またどこから来たのか。』それでわたしはすぐ彼に言った,『わたしの主よ,あなたが知っておられます』。すると彼はわたしに言った,『これは大患難から出て来る者たちで,彼らは自分の長い衣を子羊の血で洗って白くした。』」(啓示7:9,13,14)


啓示7章の預言的な幻の中で、すべての国民と部族と民と国語の中から来た,だれも数えつくすことのできない大群衆という数の限定されないグループが登場します。そのグループはどんな種類の人々を表わしているのでしょうか。

大群衆はすべての国民と部族と民と国語で構成されています。つまりあらゆる国籍、部族、言語の人でなっている国際的な大群衆です。そしてその数は決められていません。数えつくすことのできないほどの大人数です。だれも数えつくすことのできない大群衆は、大患難を出てくる者たちであると説明されています。

あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民で構成されている大群衆は大患難を生き残り、その後地上で永遠に生き続ける人々のグループであることが分かります。どのようにでしょうか。まず、啓示7章4節に、十四万四千人という数の限定されたグループが登場しています。この大群衆はだれにも数えきれないほどの大群衆ですから、十四万四千人とは別のグループであることが分かります。

イエスは天に召されて神の王国を受け継ぐ人々を、「小さな群れ」と呼んでいます。(ルカ12:32)それで、天に復活して神の王国に入る人々は「小さな群れ」すなわち数の限定された人々、すなわち十四万四千人であることが分かります。十四万四千人は将来天の神の王国でイエス・キリストと共同の王となります。(啓示20:6)

ところで、支配される民がいなければ、十四万四千人を支配する王と呼ぶことはできません。箴言には、「民の多いことには王の飾りがあ(る)」と述べられています。(箴言14:28)それで、地上で、天の王国の王となる十四万四千人の支配を受ける人々がいます。だれにも数えきれないほどの大群衆は、その地上で神の王国の支配を受ける人々であるに違いありません。そして、その大群衆の人数がだれにも数えきれないほど大勢であることは、将来王となる十四万四千人にとって飾りつまり誉れとなります。

さらに、イエスはヨハネ10章のたとえ話の中でも、二つの種類の希望があることを示されました。イエスは御自分をりっぱな羊飼いに例えました。そして、イエスは囲いの中にいる羊のために魂をなげうち、囲いから導き出すと言われました。(ヨハネ10:1,4,11)それから、イエスは囲いのものではない、ほかの羊がいると言われました。(ヨハネ10:16)それで、囲いの中の羊、すなわち数の限定された羊と、そうでない数の限定されない羊がいると言われました。このイエスのたとえ話からも数の限定された天的希望を持つクリスチャンと、数の限定されていない地的な希望を持つクリスチャンの二種類のクリスチャンがいることが分かります。

さらに、イエスがバプテスマのヨハネについて言われたことも二つの種類の希望があることを示しています。イエスは彼についてこう言われました。「天の国において小さいほうの者も彼よりは偉大です。」(マタイ 11:11)このイエスの言葉はバプテスマのヨハネのように神に仕える義人であっても、天の王国に入らない人がいることをさらに確証しています。

天への召しは、西暦33年のペンテコステの日に聖霊が地上のイエスの弟子たちに注がれて初めて差し伸べられることになりました。それで、アダムの子孫でそれまでの間に死んだ信仰の人々は、天の王国に召されてはいません。また、主の日に神に信仰を持つクリスチャンの大多数はやはり天に復活することなく、この地上で神の祝福を享受して永遠の命を受ける見込みを差し伸べられることになります。

それで、啓示7章に登場するだれも数え切れない国際的な大群衆は、この地上で天の神の王国の支配を受けて永遠の命を享受する見込みを持つ人々を表わしていることが分かります。

さらに、啓示の書の預言によると、数え切れない国際的な大群衆は、大患難つまりおそらく第三次世界大戦になる苦難を生き残るという希望を差し述べられています。

「この方はわたしたちを,ご自分の神また父に対して王国とし,祭司としてくださったのである―実にこの方にこそ,栄光と偉力が永久にありますように。アーメン。」(啓示1:6)

聖書は一部のクリスチャンが天に行って王また祭司として奉仕することを述べています。でも、そもそも人類の一部が天で王また祭司として奉仕する事がなぜ必要になったのでしょうか。

 これは、最初からこのようになっていたのではありませんでした。

 最初の人間アダムはエデンの園に置かれて農業をしていました。エホバ神はアダムに善悪の知識の木の実を食べてはならないという禁令を与えられました。そして、食べるならば、死ぬと警告されました。(創世記2:17)

 しかしこの警告は、食べないならば、決して死なないことを示していました。アダムとエバ、そして彼らの子孫にはいつまでも、地上で肉体の体で永遠に生き続ける見込みがありました。

 それで、人類の先祖に差し伸べられた希望はこの地上の楽園でいつまでも行き続けることでした。決して死んで天に行くことなど、アダムに言われていませんでした。

 ところが、アダムとエバは罪を犯して木の実を食べてしまいました。(創世記3:6)その結果、次のような事が、アダムの子孫に生じました。「一人の人を通して罪が世に入り,罪を通して死が入り,こうして死が,すべての人が罪をおかしたがゆえにすべての人に広がった・・・。」(ローマ5:12)

 アダムの子孫はこの地上でいつまでも生き続けることはできなくなりました。この地上に生まれてきても、受け継いだ罪のゆえに罪と死に支配されることになりました。つまり、アダムの子孫は皆だんだんと年を取って病気になり、最後には死んでしまうという状況に陥ってしまいました。

 それで、神はその憐れみゆえに人類を罪と死から救い出すための手段をとられました。神は、イエス・キリストを人類の罪のための身代わりとして、死ぬように取り計らわれました。これを贖いと言います。(マタイ20:28)

 このキリストの贖いのゆえに人類の一部の人は地から買い取られて天で王また祭司として奉仕します。(啓示14:4;5:10)それは、キリストと共に千年間支配して、人類が罪のうちに死ぬという状態から救い出すためです。

 それゆえ人が天に行くのは人類に最初から差し伸べられた希望ではありませんでした。アダムの反逆ゆえに生じた惨害から人類を助け出すために一部のクリスチャンが天に行って奉仕をすることになりました。

「この方はわたしたちを,ご自分の神また父に対して王国とし,祭司としてくださったのである―実にこの方にこそ,栄光と偉力が永久にありますように。アーメン。」(啓示1:6)
 
 聖書はある人々が、王国の王,祭司として天から支配するようになることを示しています。上記の聖句はそのことを裏付けています。

 イエスは贖いの犠牲となってくださって人類の中から人々を買い取り、それらの人がキリストの千年支配の間、神の王国の王また天の祭司として奉仕するように取り計らわれます。(啓示20:6)ヨハネはそのことについてイエスを賛美しています。

 多くの教会では、教会員はすべて天に行くと信じています。しかし、当然、王、また祭司として奉仕するのは、人類のすべてでもなければ、クリスチャンのすべてでもありません。

 なぜなら、箴言14章28節には、「民の多いことには王の飾りがある。」とあります。ですから、王がいるなら、それよりも人数の多い支配される民が存在するはずです。支配される民がいないなら、その者は王と言うことができません。

 それで、王となるのは神のしもべの一部です。

 さらに、昔イスラエルで大祭司として任命されたのは、ひとりでした。(ヘブライ5:1)従属の祭司たちも、大祭司の補佐をしましたが、イスラエル人のすべてが祭司になったわけではありませんでした。

 それで、キリスト教の体制下で、王また祭司として選ばれ、天に行くのも、神のしもべの一部であることが分かります。

「彼らは生き返り,キリストと共に千年のあいだ王として支配した。5 (残りの死人は千年が終わるまで生き返らなかった。)これは第一の復活である。6 第一の復活にあずかる者は幸いな者,聖なる者である。これらの者に対して第二の死は何の権威も持たず,彼らは神およびキリストの祭司となり,千年のあいだ彼と共に王として支配する。」(啓示20:4〜6)

 第一の復活とは、何ですか。この言い方は、二種類の復活があることを示唆しています。第一の復活にあずかる人は、神およびキリストの祭司となり、千年のあいだキリストと共に王として支配します。どこへ復活して王また祭司となるのでしょうか。

 パウロは復活についてこう述べています。「死人の復活についてもこれと同じです。朽ちる様でまかれ,朽ちない様でよみがえらされます。・・・物質の体でまかれ,霊的な体でよみがえらされます。・・・そして,わたしたちは,塵で造られた者の像を帯びてきたように,また天的な者の像を帯びるのです。」(コリント第一15:42,44,49)それで、聖書は塵で造られた物質の体で死んで、朽ちることのない不滅の霊的な体で、天へ復活する人がいることを示しています。

 そして、天へ復活する人は限られた人数です。聖書は、「神は,世に関しては貧しい者を選んで信仰に富ませ,ご自分を愛する者たちに約束された王国の相続者とされた」と述べています。それで、天の王国の相続者となるのは選ばれた人ですから、その人数は限られています。

 フィリピ3章11節から、パウロは「死人の中からの早い復活」を追い求めていたことが分かります。ですから、天へ復活する人たちは他の人たちよりも早く復活します。ですから、第一の復活の人たちよりも時期において遅く復活する人たちがいることが分かります。

 遅く復活する人たちはどこへ復活するのでしょうか。箴言14章28節には、「民の多いことには王の飾りがあ(る)」と述べられています。王がいるなら、王が支配する民がいます。そして民はふつう王よりも数が多いものです。啓示5章10節には、天の王たちは「地に対し王として支配する」と述べられています。それで、地には王たちの支配を受ける大勢の民がいるはずです。(詩篇102:19,22)

 それから、パウロは「義者と不義者との復活がある」と述べました。(使徒24:15)不義者は天へ王として復活することはありません。不義者は地上で天の王たちの支配を受けて罪を取り除いてもらうために復活してきます。ですから、天へ復活するたち者より遅く地上に復活してくる支配を受ける民がいることが分かります。
 
 聖書は地上に復活してくる人々が、地上で永遠の命を受ける見込みがあることを示しています。イエスは「記念の墓の中にいる者がみな,彼(イエス)の声を聞いて出て来る時」が来ることを予告され、「良いことを行なった者は命の復活へ,いとうべきことを習わしにした者は裁きの復活へと出て来る」と言われました。(ヨハネ5:28,29)イエスが言及されたのは天への復活ではありません。
 なぜなら、天へ王として復活する者たちは不滅の霊者として復活するのですから、もう死ぬことはありません。ところが、イエスは復活して裁きを受ける人がいることを示しています。明らかにイエスは地上での復活も含めて述べておられます。イエスは、復活して裁きを受けるのではなく、命の復活という結果になる人がいると言われました。ですから、地上に復活して永遠の命を受ける人々がいるということが分かります。
 
 それで、私たちはエホバ神が天と地上への復活という将来の命の見込みを差し伸べてくださっていることが分かります。私たちはその希望を喜ぶことができます。私たちの信仰はむだになることはありません。

 親しい家族や友人が死ぬのは悲しいことです。けれども、パウロはこう述べました。「兄弟たち,死んで眠っている者たちについてあなた方が知らないでいることを望みません。希望を持たないほかの人々のように悲しむことのないためです。・・・神はイエスにより死んで眠っている者たちをも彼と共にやはり連れ出してくださる。」私たちが絶望する事のないように、死んで眠っている者たちは、イエスの贖いにより死より地上への命へと連れ出されてくるという希望があることを聖書は示しています。

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