自殺の問題(7)−身近な人が自殺してしまった時自殺は、自殺者だけの問題にとどまらず、残された自殺者の親族、友人にも深い心の傷を負わせかねません。では、身近な人が自殺してしまった時、どのように考え対応できますか。
だれかが自殺すると,家族や親しい友人は,同情と怒り,悲しみと罪悪感の入り混じった気持ちになるかもしれません。多くの人はこのように言います。『あの日,わたしがもう少し長くそばにいてあげたら』,『あの時,わたしがあんなことを言いさえしなければ』,『わたしがもう少しあの人の助けになっていたら』。つまり,『もし自分がこれを,あるいはあれをしていれば,愛する人はまだ生きていたはずだ』と考えるのです。では,他の人の自殺を自分のせいにするのは理にかなったことでしょうか。
そもそも,あとになって自殺の兆候を見分けるのは非常に簡単なことです。しかし,事前にそうできるかどうかは別問題です。聖書はこう述べています。「魂の苦しみを知るのは自分の心。その喜びにも他人はあずからない」。(箴言 14:10,新共同訳)ですから、人の苦しみや喜びを見分けるのは難しい場合があります。他の人の考えや感情を識別するのがまったく不可能なこともあります。多くの場合,自殺を考えている人は,自分の内奥の感情を,他の人に,また家族内の親しい人に対してさえ十分に伝えることができません。
「悲しみを言葉に表わす」(英語)という本は,自殺の兆候について,「実際のところ,そうした兆候を見分けるのはたいてい簡単でない」と述べています。また,たとえそれと分かる幾つかの兆候に気づいたとしても,それによって自殺を防げるとは限らない,と付け加えています。
自分を苦しめるよりも,賢王ソロモンが述べた言葉から慰めを見いだせるかもしれません。「生きている者は自分が死ぬことを知っている。しかし,死んだ者には何の意識もな(い)」。(伝道の書 9:5)ですから、その人を自殺へと追い込んだ精神的また感情的苦しみは終わりました。現在は,苦しんでいるのではなく,ただ休んでいるのです。
今はあなたご自身も含め,生きている人の福祉に注意を集中するのが最善かもしれません。
自殺した人に復活はありますか
人が自殺したという悲報に接すると,自ら命を絶った友に関して将来何らかの希望が持てるのだろうか,という疑問も生じてきます。自殺した人は復活するのでしょうか。
自ら課した死は決して正当化されるものでも義にかなったことでもありませんが,確かに使徒パウロは,一部の不義者たちにさえすばらしい希望を差し伸べました。彼は「わたしは神に対して希望を持っておりますが,その希望は……義者と不義者との復活があるということです」と語りました。(使徒 24:15)
しかし多くの神学者たちは,自殺した人々に復活の道が開かれるかもしれないという意見を長いあいだ退けてきました。それはなぜでしょうか。
神学者たちは復活の希望を否定する
何世紀も前に僧職者たちは,人間が死ぬ時,不滅の魂は肉体を離れて天国,煉獄,リンボ,あるいは地獄へ直行する,という非聖書的な概念を取り入れました。その概念は,将来の復活に関する聖書の明確な教えと衝突しました。そのような誤った神学の結果,アウグスティヌスやアクィナスのような神学者たちは、自殺は、地獄に落ちるべき邪悪な行為としてとがめてきました。
しかし、死んだ人の魂が天国や地獄、煉獄に行くというのは、聖書の教えではありません。聖書は、死者が、人類共通の墓であるシェオルにいて、そこで、死者は無意識の状態であり、将来そこから死者が復活してくることを述べています。(創世記37:35。伝道の書9:5,10。ホセア13:14)
自殺者に憐れみが示される
それで,友が自殺してぼう然とさせられている人々は,「エホバはご自分を恐れる者たちを憐れんでくださった。神ご自身がわたしたちの造りをよくご存じであり,わたしたちが塵であることを覚えておられるからだ」,ということを知って慰めを得ることができます。(詩編 103:10‐14)その自殺者はもし自殺に失敗していたら、自殺という罪を悔い改めたかもしれません。“自殺の危険が高まる時期”に精神病や極度のストレス,場合によっては遺伝的欠陥がどんな役割を果たすのか,それを十分に理解できるのは神だけです。(伝道の書 7:7)
もちろん,自分の命を絶つ人には自己の殺害を悔い改める機会はなくなります。しかし,ある自殺者が,仮に自殺に失敗していたら心を変えたかどうかはだれにも分かりません。事実,神の民であったユダのマナセ王など悪名高い殺人者の中にも,生きている間に変化を遂げ,神の許しを得た人がいるのです。(列王第二 21:16。歴代第二 33:12,13)
ですから,エホバは、神の民であっても、一部の自殺者たちにまで憐れみを広げて彼らを復活させ,「悔い改め,かつ悔い改めにふさわしい業をして神に転ずる」貴重な機会を与える可能性があります。エホバはそのために「多くの人と引き換える贖い」を備えられました。(マタイ 20:28。使徒 26:20)
復活させられる一人の不義者
しかし、ある人は、イスカリオテのユダが自殺を遂げ、彼が「滅びの子」と呼ばれており、復活の希望がないだろうと思われることを考えます。(ヨハネ17:12)イスカリオテのユダは、イエスと親しく交わることのできた神の民であるにもかかわらず、罪を犯し、自殺しました。それで、神の民であるにもかかわらず、自殺してしまった人に復活の希望があるだろうかと考えるかもしれません。しかし、多くの人は、イエスと直接交わって、その言葉と奇跡を実際に見聞きしたイスカリオテのユダほど霊的に恵まれているでしょうか。
自殺も罪の一つに過ぎません。聖書は、悪行を犯した神の民が復活させられることを示しています。イエスは,死刑の判決を受けた一人の犯罪者に,「あなたはわたしと共にパラダイスにいるでしょう」と言われました。その人は、イスラエル人、つまり神の民のひとりでした。そして、その人は、死の直前にイエスに信仰を働かせたことから、それまでにイエスについてある程度、見聞きしていたものと考えられます。それにもかかわらず、その人は、死刑になるほどの罪を犯していました。(ルカ 23:39‐43)
その人は,天へ行ってイエスと共に支配するという希望を持ってはいませんでした。イエスは、この盗人に,キリストの王国の支配を受ける美しい地球上のパラダイスで生き返るという希望を差し伸べました。(マタイ 6:9,10。啓示 21:1‐4)
神はどんな目的でこの犯罪者を眠りから覚ますのでしょうか。過去の罪のことでその犯罪者を責めたてるためではありません。(ローマ 6:7,23)地上のパラダイスにおける命への復活は,この元犯罪者が復活後に行なう事柄によって裁かれるためです。(ヨハネ第一 4:8‐10)
その人は、楽園で神のご意志と目的の全体について学んで、その上で、神のご意志に対して、どのような態度を表明するかを示すために復活させられます。(ヨハネ5:29。啓示20:12)その人は、地上の楽園に復活させられ、聖書の預言が自分の死後にどのように成就したかを学ぶでしょう。
現時点で、神の目的の全体を理解しているクリスチャンはいないかもしれません。ほとんどのクリスチャンは楽園に復活して、神の目的の全体について学ぶべきことがあるでしょう。ですから、イエスについてある程度知っている神の民であったイスラエル人の犯罪者が復活してくるのですから、自殺という罪を犯したクリスチャンも復活してくる可能性があります。自殺した人の将来の命の見込みは,「優しい憐れみの父またすべての慰めの神」エホバの手のうちにあるという確信を保ってください。(コリント第二 1:3)
命に対する,聖書に基づく確実な見方
命は神からの賜物であり,乱用したり自らの手で終わらせたりすべきものではありません。(ヤコブ 1:17)神はわたしたちを愛し,わたしたちが生きていることを願っておられます。そして、神は、復活の時を喜びをもって待ち望んでおられます。(ヨブ 14:14,15)
愛があるなら,自殺は自分自身の重荷を取り去ることはできても,残された家族の上にさらに多くの問題を積み上げるにすぎないという認識は強まります。早まって命を絶った人に関する限り,その人が復活するかどうかはわたしたち人間には判断できません。しかし、私たちはその人が決して復活しないと断定することはできません。
なぜなら、私たちはその人はどの程度とがめを負っているか分からないからです。ただ神だけが『すべての心とすべての考えの傾向』を探られます。(歴代第一 28:9)しかし,わたしたちは『全地を裁く方が,愛のある,公正で正しいことを行なわれる』と確信できるでしょう。(創世記 18:25)エホバは、神の民であっても、自殺を遂げた人に憐れみを示し、贖いを適用され復活させることもあるでしょう。
以上はウィキペディアなどネットの情報や目ざめよ2001年10/22号、目ざめよ1990年9/8号を参考に再構成したものです。
[関連する記事] [はてなダイアリーの最近の更新] |
復活
[ リスト | 詳細 ]
啓示20章6節には、第一の復活にあずかる者に対して第二の死は何の権威も持たないと述べられています。第一の復活とは何でしょうか。第二の死とは何でしょうか。 第一の復活にあずかる者とは、聖なる者であると述べられています。聖書は二つの種類の復活があることを示しています。一つには、神およびキリストの祭司また王になるために、死んで新しい霊者の体を与えられるという天的な命への復活です。(コリント第一15:50)それらの復活にあずかるのは、聖なる者たち、すなわち、生きている間、天への召しが神により差し伸べられて、イエス・キリストの追随者としての生き方をした者たちです。それらの人々は人類の大多数から見れば、「小さな群れ」です。(ルカ12:32) また、もうひとつの復活は、この地上へ人間として復活するという見込みです。その復活には、不義者、つまり生きている間神のしもべとしての生き方をしなかった人々も含まれます。(使徒24:15)それで、第一の復活というのは、天的な命への復活を意味します。 それでは、第二の死とは、何を意味するでしょうか。第二の死とは、啓示20章14節にも出てきます。そこには、「火の湖、これは第二の死を表わしている」と述べられています。啓示20章14節には、死とハデスも火の湖に投げ込まれます。 聖書は死とハデスが存在しなくなることを予告しています。(啓示20:13、21:4)それで火の湖もしくは第二の死とは、永遠の滅びを意味している事が分かります。ですから、第二の死に処された人は死んだ後、復活する事が決してありません。つまり、永遠に滅びることになります。それで、第一の復活にあずかる者に対して、第二の死は権威がないのですから、天的復活を受ける者たちは、二度と決して死ぬことがないという意味であることが分かります。 このことと調和して、神の王国を受け継ぐ人は、死んで「不朽」と「不滅性」を着けると述べられています。(コリント第一15:50,53)明らかに、神の王国を受け継ぐ人は不滅の霊の体を与えられて復活します。それで、聖なる者に対して第二の死は何の権威を持たないとは、不滅の霊者として復活して二度と死ぬ事がないという意味である事がこのことからも分かります。(啓示3:5) それで、聖書の中に書かれていないとはいえ、第一の死とは、天的希望を持つ者たちや、地的な希望を持つ者たちが経験する最初の死であることが分かります。神の王国の支配のもとで地上に復活させられる人々は、神からの教育を受けることになりますが、すべての人がその教育に答え応じるわけではありません。ある不義者は、地上の楽園に復活してきて、神からの教育を受けても、悔い改めることをしません。それで、それらの人々は、復活してきても、やはり裁かれて滅ぼされてしまいます。その時、彼らには復活はありませんから、彼らは第二の死を経験することになります。 第一の復活にあずかる希望が与えられている人はその比類のない希望を大事にすべきであると言えます。また、私たちはエホバが人を第二の死に処する権威を持っておられることを考えると、エホバ神の不興を買うことはないようにしたいと思います。
|

- >
- 芸術と人文
- >
- 文学
- >
- ノンフィクション、エッセイ
|
「そしてわたしは,死んだ者たちが,大なる者も小なる者も,そのみ座の前に立っているのを見た。そして,数々の巻き物が開かれた。しかし,別の巻き物が開かれた。それは命の巻き物である。そして,死んだ者たちはそれらの巻き物に書かれている事柄により,その行ないにしたがって裁かれた。」(啓示20:12) |
|
「(残りの死人は千年が終わるまで生き返らなかった。)」(啓示20:5) |







