助言

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「巧みな指導がないと民は倒れる。しかし,助言者の多いところには救いがある。」(箴言11:14)


助言者の多いところには救いがあると聖書は述べています。しかし、どんな助言から益を得ることができるのでしょうか。一方、どんな助言からは益を得る事はできないでしょうか。

聖書は「ファラオの助言者の中の賢者たちについては,その助言は道理にかなったものではない」と述べられています。(イザヤ19:11)それで、賢いように見えて道理にかなった助言を与えることのできない愚かな助言者たちがいることを示しています。

バビロンの心霊術や占星術に基づく大勢の助言者は、救いをもたらさないと述べられています。(イザヤ47:13)心霊術や占星術の源は悪霊ですから、その助言によって私たちは救いを得ることはできません。(使徒16:16)

では、どんな助言の源を信頼できますか。ローマ11章33節には、「神の知恵と知識が深いことを述べています。ですから、知恵と知識の源である全知全能の神の助言は信頼できます。

詩篇にも、「わたしはあなたの諭しにわたしの助言者として愛着を感じます。」とあり、「神の諭し」が助言者になると述べています。(詩篇119:24)それで、人の助言を聞くことも益がある場合がありますが、聖書は神のみ言葉そのものが助言者になると述べています。

さらに、聖書はイエスについて、「くすしい助言者」であると述べられています。(イザヤ9:6)それで、イエスの助言を考慮するなら、益を得る事ができます。それで、エホバの言葉とイエスの言葉が載せられている聖書と調和している助言は救いをもたらします。イエス・キリストは神の独り子であり、エホバ神と最も親密な関係にあるので、聖書の中でも、イエス・キリストの助言はとりわけ私たちに助けになります。

「内密の話し合いのないところには計画のざ折があ(る)」と述べられています。さらに、「助言者の多いところには救いがある。」とも述べています。(箴言15:22)ですから、良い目的や計画を成し遂げ、救いを得たいと思うならば、多くの助言を考慮すべきであると聖書は述べています。

そして、助言者が多いなら、救いに結びつくと述べられています。聖書の原則が助言者となりえるのですから、聖書の原則をひとつではなく、できるだけ数多く考慮するなら、計画を成し遂げ、救いを得る助けになることを聖書は示しています。

もちろん、聖書の原則に調和した人間の助言者も助けになるでしょう。それで、まず、聖書そのものの助言を考慮できます。加えて、聖書と調和した健全なメディアや書籍や雑誌や人の意見を助言として参考にすることも、孤立を避け賢くなるひとつの方法だと言えます。

確かに、聖書に敬意を払う賢い人間の助言者が多いならば、その助言を聞く人は、益を受けられると言えます。

また、私たちはみ言葉を敬意を払う人々の集まりに行って、み言葉からの助言を考慮したり、話し合ったりする事から益を得られると言えます。

「巧みな指導がないと民は倒れる。しかし,助言者の多いところには救いがある。」(箴言11:14)

 どんな助言からは益を得る事はできないでしょうか。

 聖書は「ファラオの助言者の中の賢者たちについては,その助言は道理にかなったものではない」と述べられています。(イザヤ19:11)それで、賢いように見えて道理にかなった助言を与えることのできない愚かな助言者たちがいることを示しています。

 バビロンの心霊術や占星術に基づく大勢の助言者は、救いをもたらさないと述べられています。(イザヤ47:13)心霊術や占星術の源は悪霊ですから、その助言によって私たちは救いを得ることはできません。(使徒16:16)

 どんな助言の源を信頼できますか。ローマ11章33節には、「神の知恵と知識が深いことを述べています。それで、その助言の源は、知恵と知識の源である全知全能の神であるべきです。

 さらに、聖書はイエスについて、「くすしい助言者」であると述べられています。(イザヤ9:6)それで、イエスの助言を考慮するなら、益を得る事ができます。それで、その助言が救いをもたらすためには、エホバの言葉とイエスの言葉が載せられている聖書と調和していなければなりません。

 さらに、詩篇にも、「わたしはあなたの諭しにわたしの助言者として愛着を感じます。」とあり、「神の諭し」が助言者になると述べています。(詩篇119:24)それで、人の助言を聞くことも益がありますが、神のみ言葉そのものが助言者になると述べています。

 助言を無視して孤立する事について聖書は何と述べていますか。箴言18章1節には、「自分を孤立させる者は・・・あらゆる実際的な知恵に逆らって突き進む」と述べられています。それで、助言を受けず、孤立している人は、正確な知識や実際的な知恵に調和しないで行動する事があります。

 「内密の話し合いのないところには計画のざ折があ(る)」と述べられています。(箴言15:22)さらに、「助言者の多いところには救いがある。」とも述べています。

 ですから、良い目的や計画を成し遂げ、救いを得たいと思うならば、内密の話し合いを行なうこと、つまり複数の助言者の助言を考慮すべきであると聖書は述べています。

 そして、助言者が多いなら、救いに結びつくと述べられています。聖書の原則も助言者となりえるのですから、聖書の原則もひとつではなく、できるだけ数多く考慮するなら、救いを得る事ができます。

 確かに、聖書そのものの助言や聖書と調和した健全なメディアや書籍や雑誌や人の意見を助言として参考にすることは、ある意味、孤立を避け賢くなるひとつの方法だと言えます。

 また、確かに、聖書に敬意を払う賢い人間の助言者が多いならば、その助言を聞く人は、益を受けられると言えます。

 そして、私たちはみ言葉を敬意を払う人々の集まりに行って、み言葉からの助言を考慮したり、話し合ったりする事は賢明だと言えます。

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「『そして王のもとに行き,このような言葉を語るように』。そうして,ヨアブは彼女の口に言葉を置いた。」(サムエル第二14:3)

 ヨアブは、女をダビデのもとにやって、兄のアムノンを殺して逃げたダビデの息子アブサロムをダビデのもとに連れ戻すために、女に語らせる言葉を与えました。ダビデは、女の言葉が、ヨアブから出ていることを気づきました。

 ところが、ヨアブが女の口に授けた言葉はモーセの律法を考慮したものではありませんでした。ただ自分の息子をいとおしく思うダビデの人間的な感情に訴えるものでした。ヨアブの助言は人間的な感情に訴えるものだったので、一見して良いものであるように見えたことでしょう。

 しかしながら、アムノンは異母姉妹のタマルを犯したのですから、厳密にモーセの律法に従うならば、近親相姦を禁じたモーセの律法に従って死に処せられるべきでした。(レビ18:9,29)

 ところが、ダビデは自分が人妻のバテシバと姦淫を犯してエホバ神に許されていたので、淫行に関するモーセの律法を厳格に当てはめることが難しかったのでしょう。また、ダビデは息子のアムノンに対する盲目的な愛情に動かされていたものと思われます。さらに、ダビデはそのことについてエホバ神に対処を伺うこともありませんでした。

 それで、妹のタマルをレイプしたアムノンはそのままにしておかれました。
それで、アブサロムが兄のアムノンを殺して逃亡することになりました。けれども、アムノンを殺したアブサロムの処置はモーセの律法に調和していたかもしれません。

 しかしながら、エホバ神を度外視して、ただ親の子に対する感情に訴えてアブサロムを連れ戻すようにヨアブは助言しました。長い目で見て、ヨアブの助言はどんな結果になったでしょうか。

 ヨアブの助言は、アブサロムを助長させ、ひいてはアブサロムがダビデに反逆することになりました。そしてダビデは苦しい目に遭う結果になりました。

 人の助言は人間的な観点から、良いように思えても、神の律法を尊重していないなら、長い目で見て、苦しい結果を招く場合があることが分かります。

 もちろん、その当時のイスラエルの人々は、モーセの律法を守ることが要求されていましたが、今クリスチャンはモーセの律法のもとにいません。

 今日のクリスチャンはモーセの律法よりも数少なく基本的なキリスト教の律法を守ることが求められています。私たちは問題が生じた場合、いつも神の律法を考慮すると共に、どう判断するか神の導きを祈り求めるべきです。そのようにした方が、結果は良いでしょう。

「レハベアム王は年長者たちの助言を捨て, 次いで,若者たちの助言にしたがって彼らに話して言った,・・・」(歴代第二10:13,14)

 イスラエルの民はソロモン王の時代に重かった奉仕とくびきを軽くしてくださいとユダのレハベアム王に頼んできました。王は、その時、父親のソロモンに仕えていた年長者と、共に成長した若者たちに相談しました。レハベアム王は年長者たちの助言を捨てて、若者たちの助言に従って語ったために、イスラエル十部族の離反を招くことになりました。

 レハベアム王は若者の助言に従ったために大きな損失を被ってしまいました。

 助言を求める場合、自分と同年代の人のほうが話しやすい傾向があります。そのため、若者の助言の方に耳を傾けやすい傾向があるかもしれません。

 しかし、聖書は経験のなさ、つまり若いことと、愚かさを結び付けています。(箴言14:18)それで、助言を求める場合、おおむね経験のある年長者の助言が知恵があり、自分にとって益があることを覚えておくことができます。

 それで、親や年長の識者の意見は、耳に痛いことがあっても、聖書の原則に反していないなら、それに従う方が益があるでしょう。

 しかしながら、年長者の助言も神の言葉に調和していない場合は、愚かな助言であることを覚えておく必要もあります。(ヨブ32:9)

「『そして王のもとに行き,このような言葉を語るように』。そうして,ヨアブは彼女の口に言葉を置いた。」(サムエル第二14:3)

 ヨアブは、ダビデのもとにやって、兄のアムノンを殺して逃げたダビデの息子アブサロムをダビデのもとに連れ戻すために、ある女に語らせる言葉を与えました。ところが、ヨアブが女の口に授けた言葉はモーセの律法を考慮したものではありませんでした。ただ自分の息子をいとおしく思うダビデの人間的な感情に訴えるものでした。

 アムノンは異母姉妹のタマルを犯したのですから、厳密にモーセの律法に従うならば、近親相姦を禁じたモーセの律法に従って死に処せられるべきでした。(レビ18:9,29)

 ところが、ダビデは自分が人妻のバテシバと姦淫を犯してエホバ神に許されていたので、淫行に関するモーセの律法を厳格に当てはめることができなかったのでしょう。また、ダビデは息子のアムノンに対する愛情に動かされていたものと思われます。さらに、ダビデはそのことについてエホバ神に対処を伺うこともありませんでした。

 それで、タマルを犯したアムノンはそのままにしておかれました。こうしたことを考えると、アムノンを殺したアブサロムの処置はモーセの律法に調和していたかもしれません。
 
 いずれにしても、エホバ神を度外視して、ただ人間的な感情に訴えてアブサロムを連れ戻したヨアブの助言は、アブサロムを助長させ、ひいてはアブサロムがダビデに反逆してダビデは苦しい目に遭う結果になりました。

 人の助言は人間的な観点から、良いように思えても、神の律法を尊重していないなら、苦しい結果を招く場合があることが分かります。

 もちろん、今クリスチャンはモーセの律法のもとにいません。その当時のイスラエルの人々は、モーセの律法を守ることが要求されていましたが、今日のクリスチャンはモーセの律法よりも数少なく基本的なキリスト教の律法を守ることが求められています。

 私たちは問題が生じた場合、いつも神の律法を考慮すると共に、どう判断するか神の導きを祈り求めるべきです。

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