苦しみと死

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伝道の書8章・義なる者であっても災いを経験する

 
 
「邪悪な者たちの業に生じるかのような事態が自分の身に生じている義なる者たちがいる。義なる者たちの業に生じるかのような事態が自分の身に生じている邪悪な者たちがいる。わたしはこれもむなしいと言った。」(伝道の書814
 
 
東日本大震災で、命を失ったエホバの証人もいました。また、東日本大震災で命を失った人々の中には、悪いことを行なわないように、良心的に努力をしていた一般の人々もいたことでしょう。
 
 
聖書は冒頭の聖句にあるように、今の事物の体制下で、義なる者たちが邪悪な者に生じるようなことを経験することがあると述べています。確かに、伝道の書は、「邪悪な者たちは決して良い結果を見ること(が)な(い)」と述べています。(伝道の書813)邪悪な者たちは、神からの保護と祝福を受けていないので、良いことを経験しないことが多いでしょう。
 
 
しかし、聖書は冒頭の聖句にあるように、今の事物の体制下で、義なる者たちが災いを経験することがあると述べています。ですから、人々が災いにあうのは、それらの人々が神の目に邪悪であるからではありません。伝道の書は、義なる者たちの身に災いが生じることがあるという人生の現実を述べています。
 
 
伝道の書によると、「神を恐れる者たち」は、基本的に「神を恐れていたために良い結果になる」と述べています。(伝道の書812)例えば、ヨブは、神を恐れていたのに、全財産と、子供たち十人を失い、自分も病気になりました。けれども、ヨブは神の助けによって後になって病気も治り、十人の子供たちを持ち、以前の二倍の資産を持つようになりました。(創世記4210)
 
 
ヨブの例は、義なる者が最終的に良い結果を経験することを示しています。しかし、ヨブが一時的に、災いを経験したことは、義なる者であっても、邪悪な者が経験するような災いを経験することを示しています。
 
 
そして、義なる者であっても、寿命でもないのに命を失ってしまった人のことも、聖書に記録されています。例えば、ナボテは、モーセの律法に従うように努力をしていたので、先祖伝来の土地をアハブに売ろうとしませんでした。そのナボテをアハブの邪悪な妻イゼベルは、自分の思い通りにするために、策略を講じてナボテを殺してしまいました。(列王第一21811
 
 
また、一世紀には、義なる者であったクリスチャンの中にも迫害で命を失ってしまった人がいました。例えば、ステファノは、ユダヤ人の石打で、殺されてしまいました。(使徒75860)また、エルサレム会衆の中心的な長老のひとりであったと思われるヤコブは、剣によって殺されてしまいました。(使徒122
 
 
それで、聖書は、義なる者にあたかも邪悪な者に臨むような災いが臨むことがあることを述べていますが、それは聖書の歴史の記録によると真実です。また、それは、現代でも起きていることです。伝道の書の筆者ソロモンは、それを「むなしい」と言いました。それは、残念なことです。
 
 
しかし、聖書は、人類の中で少数の者たちは、死後報いを受け、天に復活して霊者になることを述べています。それらの人々は、たとえ迫害によって命を寿命より早く失ってしまったとしても、人類の大多数よりも早く天へ復活し、「死人の中からの早い復活」を受けます。(フィリピ3:11。啓示20:6)
 
 
また、人類の大多数にも、地上で人間としての復活が約束されています。聖書は「義者と不義者の復活がある」と述べています。(使徒24:15)それらの人々は、復活して神からの教育を受けた後の行いによって裁かれます。義なる者たちは、復活後、神からの教育に応じやすいでしょう。ですから、義なる者たちは、復活して、地上での「永遠の命」へ導かれる可能性が高いでしょう。(マタイ25:46)
 
 
しかし、聖書は現時点では、義なる者も、邪悪な者に臨むことが多い災いを受けることがありえることを述べています。ですから、人が災いを経験しているのを見て、その人を神の目に邪悪な者と断定するのは、間違っています。また、義なる者が苦難を経験するのは、神によるものではありません。
 
 
しかし、長い目でみれば、神の律法に従った正しい生き方をして、義なる者となる努力を払うことは、報いがあり、賢い生き方だと言えます。
 
 
 
 
 
 
 

ヨブ8章・先祖の教えに頼ってヨブを苦しめたビルダド

 
 
「実際、どうか先の代の人々に尋ね。その父たちにより探求されたことにあなたの注意を向けよ。」(ヨブ8:8
 
 
ビルダドは、エリパズ、ツォファルと共に、ヨブが災いにあったことを聞き、ヨブを慰めるためにやってきたヨブの三人の友の一人でした。(ヨブ2:11)ヨブは、サタンの攻撃によって、全財産と十人の子供とを失い、体中病気に蝕まれていました。三人の友は、ヨブの苦しみの原因を知りませんでした。そのために、三人の友の言葉は、ヨブを慰めるものとはなりませんでした。
 
 
ビルダドはエリパズの後に発言します。ヨブ8章はビルダドの最初の発言となっています。そこで、ビルダドはヨブに冒頭の聖句のように、先祖の教えに頼るように勧めます。
 
 
ビルダドは、なぜ先祖の教えに注意を向けるようにと述べたのでしょうか。ビルダドは、「わたしたちはただ昨日からの者に過ぎず、何も知らないからだ。わたしたちの地上の日々は影だからである。」と述べて、現在の命の短い自分たちが何も知らないことを述べます。(ヨブ8:9)それゆえに、ビルダドは、先祖の教えに頼るように勧めました。ビルダドの論議は一見して、理にかなっているように見えます。
 
 
しかし、先祖の教えに頼ったビルダドの論議も悪霊から影響を受けていたエリパズとさほど変わりませんでした。ビルダドは世の中で起きていることがすべて神が行なわれたことだと論じました。ビルダドは、こう論じました。神は裁きを曲げず、義を曲げない。(ヨブ8:3)「神を忘れる者」、「背教者」の道は、「滅びうせてしまう。」(ヨブ8:13)神は、とがめのない者を退けることはなく、悪行者を支持することもない。(ヨブ8:20)邪悪な者の天幕はなくなってしまう。(ヨブ8:22)もし、ヨブが神を捜し求め、恵みを請うていたなら、今ごろは、神がヨブに義の住まいを回復されていたであろう、と論じました。(ヨブ8:56)一見して、ビルダドの言葉は正しいように見えます。
 
 
ビルダドは、エリパズが示唆したように、ヨブが邪悪な者であり、神を忘れる者、背教者であることを示唆していました。ヨブが災いを経験したのは、邪悪な者であるヨブに対して神の裁きが下っているのであり、それはヨブに対する神の正当な扱いであり、ヨブは神の前に悔い改めるべきだと述べていました。ビルダドは、ヨブは、悪行者であるゆえに、ヨブに災いが下っているに違いないと決め付けました。
 
 
しかし、神はヨブを邪悪な者であるとして、ヨブに罰を与えることはされませんでした。ヨブが、神を恐れる者だったので、ヨブの忠誠を試みるために、サタンがヨブに災いをもたらすことを神は許されたのでした。(ヨブ1:18)ビルダドの言葉は、少しもヨブを慰めるものになりませんでしたし、真理でもありませんでした。
 
 
ビルダドは、エリパズと同じように、エホバに関して真実なことを語らなかったとして、エホバの怒りを買いました。(ヨブ42:78)ビルダドは、罪の許しのためにエホバに焼燔の犠牲を捧げなければなりませんでした。
 
 
 ビルダドのエホバに関する推論は間違っていました。それで、たとえば、今回東日本の人々が地震や津波の災害を経験したのは、神が災いをもたらしているわけでも神の怒りを買っているわけでもありません。そのように考えるならば、私たちはビルダドのように全く神について間違った考えを持つことになります。
 
 
ビルダドがそのような間違った論議をしたのはなぜだったでしょうか。ビルダドは先祖の教えに頼っていました。先祖の教え、つまりそれは、人間の教えであり、伝統でした。イエスは、次のように神の言葉と調和しない伝統を非難されました。
 
 
 「彼らがわたしを崇拝しつづけるのは無駄なことである。彼らは,教理として人間の命令を教えるからである。あなた方はのおきてを捨て置いて,人間の伝統を堅く守っているのです。」(マルコ7:7,8)
 
 
ですから、先祖の賢人の言葉は、一見して知恵の言葉のように見えることもありますが、やはり神の言葉や真実と調和していないことがありますから、気をつけなければならないことが分かります。私たちは、自分の信じていることや考え方が、神の言葉や真実と調和しているか慎重に吟味しましょう。
 
 
 
 
 
 

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ローマ5章・愛の神がなぜ罪と死を人間に与えたのですか

 
「一人の人を通して罪が世に入り,罪を通して死が[入り],こうして死が,すべて[の人]が罪をおかしたがゆえにすべての人に広がったのと同じように―。」(ローマ5:12)
 
ある人は、エホバが愛の神なのに、なぜ最初の人間アダムとエバの行動のために罪と死を人間に与えられたのか、それは残酷で厳しいのではないかと考えます。どうして神は人間に罪と死というとても大きな罰を与えて人間を苦しめるのだろうかと考えます。
 
この考え方は、交通ルールを決めてその交通ルールに違反することがあれば、罰することのある当局にすべての交通事故の責任があるとみなすのに似ています。また、当局の課す罰が残酷で厳しく、当局は人々を苦しめているとみなすのに似ています。交通事故の責任は、交通ルールに違反して交通事故を起こすすべての人にあります。交通事故は、交通ルールが決められているから存在するのではありません。交通事故は、交通ルールの違反者に罰を与える当局に責任があるわけではありません。
 
交通ルールは、交通事故を起こさないため、人々の命と安全のために設けられています。交通ルールとその罰は、人々の命を守るのに助けになっています。
 
エホバはアダムとエバに善悪の知識の木の実からとって食べてはならないという律法を与えられました。その命令は、人間が神の支配権を尊重すべきことを意味していました。「それから食べる日にあなたは必ず死ぬからである」とエホバはアダムに言われました。(創世記217)
 
これは、アダムが木の実を食べることの罰でしたが、またその必然的な結果ということもできました。エホバ神は、人類の命と福祉のために、人類がご自分の支配権に服する必要があることをご存知でした。その必要性を示すために、エホバはアダムに善悪の知識の木の実を食べてはならないという律法を与えられました。
 
アダムとエバがエホバの命令に逆らって善悪の知識の木の実を食べた時、エホバがアダムとエバに与えた直接的な罰は、エデンの園から追い出すことでした。(創世記323)エホバはアダムとエバを即座に処刑することもできましたが、そうされませんでした。たいへん軽い罰だったと言えるのではないでしょうか。そして、アダムとエバはエホバの親しい指導を受けられなくなりました。ですから、アダムとエバに起こることは、エホバの支配権から独立してエホバの親しい指導を拒む時、どんな結果になるかを示していました。
 
アダムはサタンの言葉に欺かれなかったが、エバは欺かれたと聖書に書かれています。(テモテ第一214)ですから、エバは、サタンの言葉を信じて、エホバの支配権に従わずエホバから独立しても、死ぬことはなく、かえって自分たちにとって状況は良くなると考えていたことでしょう。(創世記345)そして、アダムとエバは、エホバに不従順になってエホバから独立する道を選びました。
 
しかし、神の親しい指導を受けられなくなった結果、アダムとエバは年を取って死んでしまいました。(創世記55)アダムとエバが死ぬことは、確かに、彼らがエホバに背いたことへの罰と言うこともできましたが、それは、アダムとエバがエホバからの親しい指導を退け、エホバから独立するならば、どんな結果になるかを示していました。人間は、神の親しい指導を退け、神から独立して永遠に生き続けることはできませんでした。
 
このことは、人間は、エホバに完全に従順を示し、エホバと親しい関係を維持する時にのみ、幸福のうちに永遠に生き続けられるということを示しています。アダムの子孫は、アダムとエバから不完全さと罪を受け継ぎました。そのために、生まれつきエホバに不従順になる傾向があり、病気になりやすい弱さを持っています。(詩編515)その結果、アダムの子孫は、最終的には死にます。アダムの子孫の中のある人々は、罪をさらに犯して神の道徳基準を無視した行動をとり、自分と他の人々に苦しみを増し加えました。
 
それで、人類は、アダムがエホバに従順であり、また各々がエホバに従順であるならば、今日経験しているような苦しみはほとんど経験しないですむはずでした。苦しみは、エホバの支配権と神の律法に不従順な人間が自らもたらしています。罪と死という苦しみは人間が自らもたらしており、人間に責任があるということを意味しています。
 
それで、ローマ5章が述べているように、罪と罪による死はエホバがもたらしたものではありませんでした。聖書は一人の人つまりアダムによって罪が世に入ったと述べています。また、すべての人はさらに罪を犯して自ら罪と苦しみを増し加え、自らに死をもたらしています。
 
交通事故とそれによる苦しみと死を交通ルールの違反者がもたらしているのと同じです。交通ルールを設ける当局に交通事故の責任がないのと同じように、エホバに人間の罪と死という苦しみの責任はないと言えます。
 
では、エホバに不従順になって罪を犯したのは、アダムとエバですから、アダムの子孫には、永遠の命を与えることはできないのでしょうか。アダムが罪を犯したために、アダムの子孫は、生まれつき罪と不完全さを受け継いでいます。アダムの子孫は、生まれつきの状態では、永遠の命を受けられない状態にあります。
 
このことは、エホバ神がアダムの子孫に望まれたことではありませんでした。エホバ神はアダムの子孫が救われて、永遠に生きられるようになることを望んでおられます。(テモテ第一24)アダムの子孫が罪と死を受け継いだことは、アダムとエバがエホバから独立する道を選んだためにアダムの子孫に及んだ結果でした。それで、エホバはアダムの子孫が罪と死から救われて完全な人間になるように援助されることにされました。
 
エホバは、そのために、ご自分の最愛のみ子の贖いという犠牲を払われました。(ヨハネ316)また、アダムの子孫を罪と死から救い出すために援助するための神の政府も取り決められました。これが神の王国です。(マタイ610)このような備えは、エホバ神のアダムの子孫である人類に対する愛を証明しています。
 
エホバは愛の神であり、人間が罪と死によって苦しむことを望んでおられません。人間が苦しんでいるのは、神の設けられた律法に違反し、神の支配権を退けたからです。人間が罪と死に苦しんでいるのは、人間の行動に責任があります。エホバはその愛により、人間がご自分の支配権に戻る道を開いておられます。私たちは聖書を読み、エホバとの親しい関係を築いてエホバ神の支配権に今から服することができます。
 

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「そこで,テマン人エリパズが返答して言った,・・・どうか,思い起こしてもらいたい。だれか罪がないのに滅びうせた者があるか。また,どこに廉直な人でぬぐい去られた者があるか。」(ヨブ4:1,7)

 
 テマン人エリパズは、ヨブが災いを経験したので慰めに来たヨブの友人でした。ところが、エリパズの慰めは、ヨブにとって何らの慰めにもなりませんでした。

なぜなら、ヨブは何の罪も犯してはいませんでした。ヨブは神を恐れ、廉直で悪から離れるように最善の努力を払っていました。(ヨブ1:8)ヨブが苦しみを経験していたのは、ヨブに隠された不義があったからではありませんでした。

ヨブの苦しみは、サタンがもたらした苦しみでした。実際は、サタンがエホバに対してヨブの忠誠に対して疑問を投げかけたので、エホバはサタンがヨブを攻撃することを限定的に許されたのでした。
 

 ところが、エリパズは上記のようにヨブに述べました。エリパズの言葉は、ヨブが罪を犯しているゆえに苦しみを経験していることを示唆していました。


 私たちは公正の感覚のゆえにエリパズの言葉のようであることを望むかもしれません。つまり、罪がない者は滅びうせることはなく、廉直な者は、決してぬぐい去られることはないということを、私たちは望みます。


 しかし、事実はそうではありません。エリパズの言葉は間違っていました。
 

 たとえば、聖書中の例をあげれば、アダムの息子アベルは何の罪も犯さずに、ただその信仰と神への犠牲が神に喜ばれたために、それをねたんだ兄のカインに殺されました。(創世記4:5,8)

また、ナボテはモーセの律法に従ってぶどう園をアハブに譲らなかったために、アハブとイザベルの邪悪な企みによって殺されてしまいました。(列王第一21:3,13)

 聖書の中には、他にも罪も無いのに、殺されてしまった人の例が数多く書かれています。
 
 
 それで、事実は罪のない廉直な人が殺されてしまったり、災いを経験したりすることがあるのがサタンの支配する今の世界の現実です。

 
 しかし、エリパズは事実を踏まえず、ヨブが災いを経験したのは、ひとえにヨブに罪があるからだとしたので、神の前に罪を犯さないように最善の努力を払っていたにもかかわらず、苦しんでいるヨブの苦しみを増し加えてしまいました。
 
 
 私たちは他の人が様々な災いで苦しんでいるのを見るとき、単純にその人の罪のせいだと言って、そうした人の苦しみを増し加えることのないようにするべきです。

 かえって、出来る場合には、そうした人に実際的な援助を与えて、苦しみを和らげることをするべきです。

「 なぜわたしは胎から出て死ななかったのか。[なぜ]わたしは腹から出て来たとき,息絶え[なかったのか]。・・・今ごろは,わたしは横たわって,乱されないでいたであろうに。そうすれば,わたしは眠っていたであろうに。わたしは休み,・・・ かしこでは,邪悪な者も動揺をやめ,かしこでは,力の点で疲れ果てた者たちが休んでいる。」(ヨブ3:11,13,17)


ヨブは悪魔サタンによって罪も無いのに、財産を奪われ、十人の子供たちを失い、自分の体は全身が悪性のはれ物が生じました。ヨブはあまりの苦しさゆえに誕生した時、死んでいればよかったと言いました。ヨブは、その時、死んだ人の状態をどのように描写していますか。


 ヨブは、死んだ人は横たわって乱されず、眠っていたと述べています。また、動揺するのではなく、休んでいると述べています。ヨブは邪悪な者が死の状態の中では、動揺していないと述べています。ですから、聖書は悪いことをした人が地獄で苦しめられるとは述べていません。


 また、ヨブは死んだ人が天国に行っているとも述べませんでした。ただ、死んだ人が休んで眠っていると言いました。

 聖書は他の箇所でも、「死んだ者には何の意識もなく」、「シェオル」、すなわち人の「行こうとしている場所には、業も企ても知識も知恵もない」と述べています。(伝道の書9:5,10)シェオルとは、人類一般が死ぬと行く場所を意味しています。

 それで、人間をその邪悪さのゆえに永遠に地獄で苦しめるという教えが間違っていることが分かります。

 神は、悪に対して残忍に執念深く永遠に復しゅうするような方ではありません。

 ただ、ヨブは自殺をしなかったので、良い結果になりました。ヨブがエホバを崇拝するのをやめなかったので、ヨブの終わりをエホバは良くされました。(ヨブ42:12)つまり、ヨブの後の人生は神に祝福されて幸福なものになりました。

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