コリント第一15章・神はみ子より高い地位にある「しかし,すべてのものが彼に服させられたその時には,み子自身も,すべてのものを自分に服させた方に自ら服し,こうして,神がだれに対してもすべてのものとなるようにするのです。」(コリント第一15:28)
多くの教会員は、三位一体を信じています。三位一体は、神のみ子と聖霊が全く同じ神であるという信条です。コリント第一15章では、エホバ神がみ子イエス・キリストよりも高い地位にあること、すなわち三位一体が間違っていることをさらに示しています。
まずコリント第一15章24節では、キリストの千年統治の「終わり」について述べられています。千年統治の間、キリストは、「王として支配しなければならない」ことになっています。(コリント第一15:25)キリストが、王として支配するということは、神から与えられた務めですから、明らかにこのことは、神がキリストより上位にあることを示しています。
啓示の預言には、聖なる者たちが「神およびキリストの祭司となり,千年のあいだ彼(み子イエス・キリスト)と共に王として支配する」ことが預言されています。(啓示20:6)
キリストはその支配によって、「あらゆる政府,またあらゆる権威と力を無に帰せしめ(ることになります)」。(コリント第一15:24)無に帰せしめるとは、無力にするということでしょう。(ヘブライ2:14)それで、キリストと十四万四千人の神の王国は、千年支配の間にどんな人間の政府や権威や力が成し遂げることよりも、大きなことを成し遂げます。それと比較して、人間の政府は無力であったことになります。「最後の敵として,死が無に帰せしめられ(る)」ことになっています。(コリント第一15:26)政府や権威は、医療制度や保険制度を備えて、人々が少しでも長生きするように助けようとしています。しかし、どんな政府も権威も、人間の死にゆく状態をいやして、いつまでも生き続けさせることはできません。
しかし、神の王国の千年支配の最後には、キリストの贖いの犠牲が適用されて人類は完全になります。(ローマ3:23,24。啓示20:12,13)神が人間を作られた初めは、人間は完全でした。(申命記32:4) 千年統治の最後には、人間は、アダムとエバが神に創造された最初の完全な状態に戻ります。
しかし、千年が終わると、キリストは、「王国を自分の神また父に渡(す)」ことになっています。」(コリント第一15:24)聖書に「財宝をその敵の手に渡す」という言い方があります。(エレミヤ20:5;21:7;22:25)敵の手に渡されるというのは、あるものに対する権限が敵に移るという意味でしょう。ですから、王国が神に渡されるというのは、王国を支配する権限が神に移るという意味でしょう。ですから、十四万四千人でなる神の王国を支配する権限は、み子キリストから、エホバ神に完全に移るということになるでしょう。
さらに、み子は、神に「自ら服し、こうして,神がだれに対してもすべてのものとなるようにするのです。」と述べられています。(コリント第一15:28)ですから、千年統治の間は、み子は十四万四千人に頭として権威を行使していました。(エフェソス5:23。コロサイ1:18)しかし、千年支配が終わるとイエスは、十四万四千人の会衆の頭また夫という立場を降りられるのかもしれません。(啓示21:2)おそらく十四万四千人は、キリストを通してではなく直接神に服する立場になるのでしょう。キリストという頭を持つのではなく、エホバ神だけが頭になるのかもしれません。このことについては、他の聖書的根拠をさらに調べて確認していきたいと思います。
「み子自身も,すべてのものを自分に服させた方に自ら服(す)」と述べられており、み子は父エホバ神に服することになります。(コリント第一15:28)ですから、み子は、千年統治の間エホバ神の権威を代わって行使していていましたが、み子も完全にエホバ神に服することになるのでしょう。そして、み子は贖いの犠牲を捧げられたことで、功績がありますが、最終的には、エホバ神に服されます。ですから、エホバ神の方がみ子よりも上位の立場にあることが分かります。(ヨハネ14:28)三位一体すなわち神とみ子が同じ存在であるという信条が間違っていることがこのことからも分かります。
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非三位一体
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箴言8章 新共同訳・神がその道の初めに造られた方イエス「主は、その道の初めにわたしを造られた。いにしえの御業になお、先立って。」(箴言8:22)
箴言8章には、神がその道の初めに造られた人格的存在がいることが述べられています。神はその方以外の創造の業の前にそれを行なわれました。他の聖句を調べると、その方は、イエス・キリストであることが分かります。
それで、初めのない神と違ってイエス・キリストには初めがあり、神とイエス・キリストは別個の人格的存在であることが分かります。このことは、神とイエス・キリストが神であり同じ人格的存在であるという三位一体の信条が間違っていることを示しています。
箴言8章によると、自らを比ゆ的に「知恵」と呼ぶ人格的存在が登場します。(箴言8:1)その方はどの時期に産み出されたのでしょうか。箴言8章によると、「太初、大地に先立って。わたしは生み出されていた。・・・深淵も水のみなぎる源も、まだ存在しないとき、・・・大地も野も、地上の最初の塵もまだ造られていなかった」時と述べられています。(箴言8:23〜26)
それで、神が大地や海などの地球を創造される以前、すなわち物質宇宙の創造を行なわれる前に、その方は存在するようになりました。冒頭の聖句にあるように、「その道の初めに」、「いにしえの御業に・・・先立って」その方は造られました。神の創造の業は非常に遠い昔に行なわれたので、いにしえの御業と述べられているのでしょう。その方は、「造られた」のですから、創造者ではありません。神とは別の存在であり、あくまでも、神の被造物です。
そして、神が物質宇宙を創造された時、「御もとにあって、わたしは巧みな者と」なったと記録されています。(箴言8:30)神が創造の業を行なわれた時、その方も巧みな業を行なっておられたことが分かります。ですから、その方は、神がその方以外の創造の業を行なわれた時、神の手伝いをされたのでしょう。
新約聖書を調べると、イエス・キリストについて、同様のことを述べる記述があります。コロサイ書にこう記されています。「御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。」(コロサイ1:15)ですから、コロサイ書の記述でも、御子は、「生まれた方です。」すなわち、御子には、存在するようになった初めがありました。
しかし、聖書は唯一真の神について、「世々とこしえに、あなたは神」、「永遠の神」と述べています。(詩編90:2。ローマ16:26)真の神は永遠に存在される神ですから、始まりも終わりもありません。一方御子には、始まりがあります。真の神と御子は別の人格的存在です。
さらに、コロサイ書は、御子についてこのように述べています。「天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。」(コロサイ1:16,17)
「万物は御子において造られた・・・万物は御子によって・・・造られました。」と述べられています。御子は神によって産み出された方ですから、創造者ではありませんが、神が御子以外の物の創造の業を行なわれた時、御子は神の下で働いて、神の創造の業に関与されたことをこのコロサイ書の記述も示しています。
ですから、コロサイ書の御子に関する記述からしても、箴言8章で語っておられる比ゆ的な「知恵」は、御子イエス・キリストであったことが分かります。
御子イエス・キリストは、神によって生み出され始まりがあります。御子は永遠の神とは別の人格的存在です。ですから、神と御子が同じく永遠で同じ神であるという三位一体の教理は間違っていることが分かります。
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ヘブライ1章・イエスが礼拝されるのは神だということですか(新共同訳)「更にまた、神はその長子をこの世界に送るとき、『神の天使たちは皆、彼を礼拝せよ』と言われました。」(ヘブライ1:6 新共同訳)
三位一体を支持する人たちは、その根拠としてヘブライ1章6節をあげます。その聖句は、新共同訳では冒頭のようになっています。新改訳では、「神の御使いはみな、彼を拝め。」となっています。このようにヘブライ1章6節では、新共同訳、新改訳、口語訳およびバルバロ訳によれば、み使いたちはイエスをいわば崇拝するように指示されています。このようにイエスが崇拝の対象にされているということは、イエスが神であることを示していますか。
新世界訳では、ヘブライ1章6節を「そして神のみ使いたちはみな彼に敬意をささげよ」と訳しています。新世界訳では、なぜこのような言葉で訳しているのでしょうか。
「礼拝する」、「拝む」、つまり崇拝するという意味の言葉に訳されているギリシャ語は、プロスキュネオーです。この語は、確かに、崇拝するという意味があります。例えば、黙示録4章10節、7章11節、19章4節には、神をプロスキュネオーつまり「礼拝する」ことについて述べられています。また、マタイ4章10節では、「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ。」とあり、ここでも、神に対する崇拝を表わす語として、プロスキュネオーが使われています。
しかし、プロスキュネオーは、他の場合にも使われる語です。例えば、使徒10章25節では、コルネリウスがペテロを出迎えた時、「足元にひれ伏して拝んだ。」というところで、プロスキュネオーが使われています。その時、ペテロはコルネリウスがそうすることをとどめました。コルネリウスは、もちろんここでペテロを崇拝しようとしたのではなく、深い敬意を表すあいさつをしたかったのでしょう。ここでは、プロスキュネオーは単にひれ伏す行為を意味していました。
また、この語は、セプトァギンタ訳の列王第一1章23節では、ダビデ王に近寄った時の預言者ナタンの行為を述べるために使われています。新共同訳では、「ナタンは王の前に進み出て、地にひれ伏し」と訳されています。ナタンは、ダビデに対して、地にひれ伏して挨拶をしましたが、崇拝したわけではありません。
また、ギリシャ語セプトゥアギンタ訳の創世記23章7節では、アブラハムが取り引きを行なった人々に対して当時の習慣に従って行った事を描写するのに、用いられています。新共同訳では、創世記23章7節を、「アブラハムは改めて国の民であるヘトの人々に挨拶をし」と訳しています。新世界訳では、「アブラハムは立ってその土地の人々、ヘトの子らの前に身をかがめ」と訳しています。それで、ここでは、プロスキュネオーは、崇拝することではなく、身をかがめて挨拶をすることを意味していました。
それで、「新約聖書初期キリスト教文献希英辞典」によれば、プロスキュネオーという語は、「ある人の前に平伏して、その足や衣のへりや、地面に口づけする習慣を示すのに用いられ」ました。(シカゴ、1979年、バウアー、アルント、ギングリッチ、ダンカー共編第2版、716ページ、英文)
それで、プロスキュネオーという語は、崇拝することを表わすだけではなく、ある対象に対して、深い敬意を表明することを表わす語としても用いられます。それで、ヘブライ1章6節のプロスキュネオーの訳が、「敬意をささげる」と訳していても、受け入れられる訳であることが分かります。
ですから、ヘブライ1章6節に、み使いに対して、イエスをプロスキュネオーするように命じられていても、それは、イエスを崇拝するようにと命じているのではなく、非常に深い敬意を表わすようにと命じていることが分かります。ですから、この聖句は、イエスが崇拝されるべき唯一まことの神であることを意味してはいません。
イエスを礼拝せよ、プロスキュネオーするようにと命じられてはいても、この聖句は、イエスが三位一体の神であることを証明してはいません。聖書が崇拝するように命じているのは、エホバ神おひとりです。イエスご自身が「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」と言っておられます。(ルカ4:8)
聖書は、私たちがイエスに対して深い敬意を示すようにと命じています。しかし、たとえ、イエスといえども、崇拝するのは、間違っています。
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三位一体を信じている人は、聖霊を人格的なものと考えて聖霊に対して祈ったり、崇拝したりしています。聖霊は人格的なものでしょうか。 聖霊に言及している幾つかの聖句は、聖霊が人格的なものであることを示していると思えるかもしれません。例えば、聖霊は、教えたり、思い起こさせたり、証ししたり、語ったりすると述べられています。そして、イエスは聖霊を新改訳では、「助け主」と呼びました。(ヨハネ14:16,17,26; 15:26; 16:13) しかし、聖霊がどんなものであるかを理解するために、聖書全体を考慮しなければなりません。他の聖句は、人が「聖霊に満たされた」と述べています。(ルカ1:41)また、冒頭の聖句のように、五旬節の日に、エルサレムのある一室に集まっていた人々も、「聖霊に満たされ」たと述べられています。(使徒2:4) 何かで満たされる場合、それは、水や空気や力のような非人格的なものです。 また、バプテストのヨハネは、イエスについて、人々に「聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。」と述べました。(マタイ3:11)そして、そのことを、自分が人々に水のバプテスマを授けることと対比しました。バプテスマの水が非人格的なものなのですから、対比されている聖霊も非人格的なものに違いありません。また、神はイエスに、「聖霊と力を注がれました。」(使徒10:38)例えば、油を注ぐと言うように、注がれるものは、普通、非人格的なものです。このように、これらの聖句は、聖霊が非人格的なものであることを示唆しています。 では、イエスはなぜ聖霊があたかも人格的なものであるように語られたのでしょうか。聖書では、いろいろなものが擬人化されることは珍しくありません。例えば、知恵には、「子どもたち」がいると言われています。(ルカ7:35)また水と血も「あかしする」と言われています。(ヨハネ第一5:6〜8)しかし、これらの知恵、水、血などは、明らかに非人格的なものです。擬人化されて表現されているに過ぎません。ですから、イエスも同様に聖霊を擬人化して語られたわけです。 聖霊の実体を正しく理解するためには、聖霊について言及している聖句すべてを考慮しなければなりません。聖句すべてを考慮するならば、聖霊は非人格的なもので、神がご自分のご意志を成し遂げるために用いられる強力な力であることが分かります。 それで、イエスは、聖霊が人格的なものであるように語られましたが、イエスは人が聖霊に動かされて、語ったり、証したりでき、聖霊に思いを導かれて教えられたり、昔の記憶を思い起こしたりできることについて語っておられたに過ぎませんでした。そのようにして聖霊は、クリスチャンの「助け主」として働きますが、それは、聖霊が人格的なものであることを意味してはいません。 聖霊は、三位一体の一つの位格ではなく、神のご意志を行なわれる際に用いられる非人格的な力であることが分かります。それで、聖霊自体を崇拝したり、聖霊に対して祈ったりするのは、聖書的に間違っていることが分かります。
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イエスは、ラオデキア会衆に対する音信の中で、ご自分を「神による創造の初めである者」と述べておられます。これは、新世界訳です。明らかにイエスは神の被造物であり、始まりのある方です。同じ部分を新共同訳は、「神に創造された万物の源である方」、新改訳は「神に造られたものの根源である方」と述べられており、少し分かりにくくなっています。 イエスについて同じことについて述べているのが、コロサイ1章15節です。そこには、新世界訳で、イエスについて、「彼は見えない神の像であって、全創造物の初子です。」となっています。同じ聖句が新共同訳では、「御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。」とあります。それで、新共同訳でも、み子は生まれた方、すなわち始まりがある方であることが言い表されています。同じ聖句の新改訳は、「御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。」と訳されています。新改訳の訳し方でも、み子に始まりがあったことが言い表されています。 一方唯一真の神については、新共同訳の詩篇90編2節で、「世々とこしえに、あなたは神。」と述べられており、神は始まりも終わりも無い方です。新改訳は、同様に詩篇90編2節の同じ部分を「とこしえからとこしえまであなたは神です。」と訳しており、神が始まりの無い方であることを述べています。 イエスが始まりある方、神の被造物の初子であるということは、エホバ神とイエス・キリストが別の人格的存在であることを示しています。このことは、イエスを神とする三位一体という教理が間違っていることを示しています。 さらに、イエスご自身は三位一体について何と言っておられるでしょうか。 イエスは敵対者たちから、人間でありながら自分を神として神を冒とくしていると非難されたことがありました。イエスはその非難を認めたでしょうか。いいえ。イエスは「わたしが、自分は神の子だと言ったからといって、『神を冒とくしている』とわたしに言うのですか。」と言われました。(ヨハネ10:33,36)イエスは、ご自分が自分のことを神の子と言っていると言われました。それで、イエスご自身はご自分を神であると言われませんでした。イエスご自身は三位一体を認めておられませんでした。 ある牧師が、もし三位一体が間違っているとしたら、イエス・キリストを神でないのに、神として崇拝することによって、偶像崇拝をしていることになると言われました。その通りです。エホバは十戒の中で「あなたはわたしの顔に逆らって他のいかなるものをも神としてはならない。」と言われました。(出エジプト20:3)エホバは、イエスに対して深い敬意を示すことを求めておられますが、やはり神として崇拝するのは間違っています。 イエス・キリストが神ではなく、神に創造された神のみ子であるという立場は、非三位一体という立場です。三位一体が非聖書的であることを理解した人々の例を挙げます。 16世紀には、反三位一体の運動がヨーロッパで盛んになっていました。ハンガリー人のフェレンツェ・ダビドは三位一体が聖書的でないことを教えて獄死しました。16世紀から17世紀にかけて、ポーランドの小改革派教会も三位一体を否定しました。英国のアイザック・ニュートンは、三位一体の教理を否定する聖書的根拠を詳しく記していました。死後に、それが明らかになりました。米国では、19世紀にヘンリー・グルーが、三位一体が非聖書的であることを暴露しました。エホバの証人は、非三位一体の立場です。非三位一体の教えを奉じる人々は、他にも、ユニテリアンといって、アメリカ合衆国にはその教会があります。 イエスは、神ではなく、神に造られた始まりのある方です。み子に始まりがあることは、新共同訳も、新改訳も認めています。み子は、エホバ神とは、別の人格的存在です。どうぞ、このことを聖書から確かめてみてください。
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