(7)死者の状態と死者に対する崇拝と復活の希望多くの人は、人間は肉体と霊魂によってできていると考えています。そして、死んだ後、霊魂が残って、死者は霊の世界で意識が存続していると考えています。 そして、死者は生きている人のために良いことをしてくれたり、災いをもたらしたりすると考えています。また、人が死んだ後崇拝されることがよくあります。
聖書は、死者はどんな状態にあると教えていますか。また、死んだ人々にはどんな希望がありますか。私たちは死者に対してどのような態度をとるべきですか。
聖書は、人が創造される前は存在していなかったと述べています。聖書は、エホバ神が最初の人間をこのように創造されたと説明しています。「エホバ神は地面の塵で人を形造り、その鼻孔に命の息を吹き入れられた。すると人は生きた魂になった。」(創世記2:7) ですから、聖書によると、神は人間を地面の塵つまり土の諸元素から造られました。そして、神はアダムが罪を犯した時に、「あなたは・・・ついには地面に帰る。あなたはそこから取られたからである。あなたは塵だから塵に帰る。」と言われました。(創世記3:19)
人は死ぬと土の中の諸元素になります 聖書は、人体の材料が「地面の塵」すなわち土の中の諸元素だと述べています。このことは真実でしょうか。あるサイトによると、人間の体重の95%は酸素、炭素、水素、窒素が占め、残りの5%は約20種類もの元素です。文部科学省と厚生労働省のデータによると人間の肉体には少なくともカルシウム、 鉄、 リン、 マグネシウム、カリウム、ヨウ素、マンガン、セレン、クロム、モリブデン、ナトリウムという元素が含まれており必須です。
そして、土の中には、それらの元素がすべて含まれています。土壌中には炭素、酸素、水素という元素が含まれ、またミネラルがケイ素、アルミニウム、鉄、カルシウム、カリウム、ナトリウム、マグネシウムの順で多く含まれています。その他、マンガン、リン、硫黄、チタンを含めて土壌の主成分元素といいます。他にも、人体の成分であるヨウ素、クロム、モリブデンも土壌の成分で、鉱物や植物に多く含まれています。ですから、確かに、人体は土の中の諸元素によって構成されています。
エホバはアダムを創造された時に、「鼻孔に命の息を吹き入れられた」と述べられています。(使徒17:25)エホバがアダムに与えたのは、命を伴う息です。神は、彼の鼻孔から 空気を吹き入れられ、呼吸を始められました。そして、同時に命を与えられました。人間の命は、「鼻孔」を通して行なわれる「息」すなわち呼吸によって維持されています。ですから、人間の命を始動させたのは、エホバ神です。
人は呼吸を通して生命力を維持し生きている 人間の呼吸を始めさせ生命力を与えたのはエホバ神 詩編には「あなたがその霊を取り去られるなら,彼らは息絶え,その塵に戻って行きます」とあります。(詩編104:29)この聖句の霊とは霊魂ではありません。霊とは、ヘブライ語でルーアハであり、「活動する力」という意味があります。ですから、「霊」とは人格を持つものではなく、「霊」は生命力もしくは命と言い換えることができます。呼吸が止まって、「霊」すなわち 命を維持する「活動する力」が人間から失われるなら、人は無生物の地面の塵になります。人は死ぬと、単なる土の中に見出される諸元素になり無意識になります。(伝道の書8:8)
幾つかの聖句がこのことを裏付けており、死んだ人が意識や感情を持っていないことを示しています。「死んだ者には何の意識もな(い)」と述べ、また死ぬと、「その愛も憎しみもねたみも既に滅びうせ(る)」と述べています。(伝道の書9:5,6)
by historic.Brussels(deadperson)
死者には何の意識もなくその感情も消えうせている
死者は生きている人のために何もできない
それで、死後霊界に死者の霊魂が存続しているということはありません。死者は、生きている人のために良いことをすることも、悪いことをもたらすこともできません。
さまざまな人々が死後崇拝されることがあります。ある人々は、国のために戦って死んだために、その犠牲が尊いと考えられています。しかし、神にとって人の命は大変貴重です。ですから、無実の人の命を奪うならば、それは神にとって忌むべきことです。ですから、無実の人々の命を奪った人をあがめるのは正しいことだとは言えません。また、たとえそれらの死者を崇拝しても、死者は生きている人のために何もしてくれるわけではありません。
では、死んだ人にどんな希望があるのでしょうか。聖書は「義者も不義者にも復活がある」と述べ、人間に命を与えた創造者が、 死者を地上に復活させる時が来ることを約束しています。(使徒24:15)その時には、地上は楽園になっており、国家の障壁はなくなり、戦争はなくなっています。復活した人々は、神のご要求を正確に知ることになります。
worth a thousand words by jessleecuizon(hug6)
地上の楽園で神に復活させられた死者を迎えることになります それで、聖書は、この復活の希望を知らない人々のように過度に悲しまないようにと述べています。そして、死んで土に帰る人間を崇拝するのではなく、人間に命を与える創造者を崇拝するようにと勧めています。聖書は、実際崇拝は神にのみ属すると述べています。(マタイ4:10)人間は必ず死ぬ存在であり、死んだ後は復活するまでどこにも存在していません。私たちは、永遠に生きておられ人間を含めてすべての生き物に命を与えまたこれから与えることができる全能の創造者エホバ神だけを崇拝しましょう。
Sun by Chris_Eden(glarinsun8)
私たちに命を再び与えてくださるエホバ神を崇拝しましょう
(もちろん神は太陽ではありません。神は何にもなぞらえることはできません。でも神は光であると聖書は述べています。写真はイメージ画像) [関連する記事][はてなダイアリーの最近の更新]
|
死の状態
[ リスト | 詳細 ]
伝道の書2章・新改訳 知恵ある者も愚かな者も死んでいなくなる「知恵ある者も愚かな者もともに死んでいなくなる。」(伝道の書2:16 新改訳)
今回は、新改訳を使います。伝道の書2章は、知恵ある者と、愚かな者が、死という同じ結末を迎えることを述べています。伝道の書は、ソロモン王によって書かれました。
聖書は、「悪を避ける」者を知恵ある者と述べています。(箴言14:16)そして、箴言は、愚かな者が、「悪から離れることを忌みきらう」と述べています。(箴言13:19)
ですから、知恵ある者が愚かな者より道徳的に優れています。では、知恵ある者と愚かな者の受ける最終的な結末は違うでしょうか。ソロモン王は、冒頭の聖句にもあるように、今の事物の体制が続く間、両者の受ける最終的な結末は同じであることを述べています。(伝道の書2:14)
また、伝道の書2章15節では、ソロモンは「私も愚かな者と同じ結末に行き着くのなら、それでは私の知恵は私の何の益になろうか。」と述べて、「これもまたむなしい」と述べました。(伝道の書2:15)
ですから、知恵ある者と愚かな者は、死んだ時、すぐに神からの報いを受けるわけではありません。つまり、生きている間、悪を避けて神のみ前で正しく歩む人の知恵ある者の大半は、死んだ時、ただちに天に召されるということはありません。また、悪から離れず、神の律法を無視する人生を歩んだ愚かな者が、ただちに地獄に行って生前の生き方の罰を受けるのでもありません。両者の行き着く結末は、当分の間、同じものです。両者とも、死という「同じ結末」を経験するだけです。(詩篇49:10)
では、天に行く人はいないのでしょうか。確かに、聖書は人類のうちごく少数の人が死んですぐ、「御霊のからだ」で、つまり霊者として天へ復活すると述べています。(コリント第一15:42,44)しかし、それは、人類の中では、少数派です。なぜなら、聖書は「御国」受ける人たちを「小さな群れ」と述べているからです。(ルカ12:32)ほとんどの人類は知恵ある者、つまり善人であっても、死と言う結末を迎えるだけです。(伝道の書9:2)
では、生きている時、知恵ある者として悪を避けて歩むどんな利点があるのでしょうか。知恵ある者として歩むことは、長い目で見てやはりその人に命をもたらします。聖書は義人にも悪人にも復活があることを述べています。(使徒24:15)義人にも悪人にも復活があるのですから、当然それらの人たちは「聖なる天」に復活するのではありません。(詩篇20:6)人類の大多数は、この地上に人間として、復活します。死者は生前と同じ、性格、傾向、経験をもって復活します。その時、地上は神の御国の支配下にあります。そして、地上は「パラダイス」つまり楽園になっています。(ルカ23:43)
そこでは、復活してきた人に神からの教育が行なわれます。生前信仰を持って知恵ある者として正しく歩んでいた人にとっては、復活後、神の支配に従うことはたやすいことでしょう。しかし、生前、神から見て悪い生き方をした愚かな者は、復活した時、たとえ楽園という「正直の地」でも神の支配に順応するのは、難しいことでしょう。(イザヤ26:10)
復活してきた人たちは、その人たちの生前の行ないではなく、神からの「数々の書物」や「いのちの書」を学んだ後の、復活後の行ないの結果、裁かれます。(黙示20:12,13)パラダイスでの滅びは二度と復活のない完全な滅びです。
一方、知恵ある者となって悪を避けるなら、「死のわなを逃れ」、命に導かれます。(箴言13:14)知恵ある者は今の事物の体制でも、「大きな患難」を生き残ることができるでしょう。(黙示7:14)そして、生き永らえて神の御国の支配を受けることができるかもしれません。神の御国の支配に答え応じる知恵ある者は、最終的に、永遠の命に導かれます。
ですから、聖書は、知恵ある者も愚かな者も今の事物の体制で死ぬ時、両者は同じ死という結末を受けることを述べています。しかし、現在の生き方は、神の御国のもとでパラダイスに復活させられた後の生き方に影響します。その生き方で、裁かれることを考えると、今から、神の律法に従って悪を避ける生き方を身につけておく方が賢いと言えます。
|
詩篇6編・死者は神をほめたたえられない(新改訳 新共同訳)「死にあっては,あなたを覚えることはありません。よみにあっては、だれがあなたをほめたたえるでしょうか。」(詩篇6:5)
ダビデは死の状態について上記のように述べました。死者が神をほめたたえることがないことを述べています。新共同訳の同じ聖句は、「死の国に行けば、だれもあなたの名を唱えず、陰府に入れば、だれもあなたに感謝をささげません。」となっています。(詩編6:6)
新共同訳の訳し方だと、あたかも死者の意識がある死の国があるように思えます。しかし、この聖句は、明らかに、人が死ぬと無意識になり、神をほめたたえたり、神に感謝をささげたり何もできなくなることを示しています。
それは、ダビデはこのことを神に願い求めた理由を考えれば分かります。ダビデはなぜこのことを述べたのでしょうか。詩編6編4節で、ダビデは、「私のたましいを助け出してください。あなたの恵みのゆえに、私をお救いください。」と神に訴えています。
ダビデは命をおびやかされていました。それで、神に助けを祈り求めました。その理由として、ダビデが生きているならば、ダビデは神を覚えて、ほめたたえますが、死んでしまうと、それができなくなります。神の賛美者がひとり少なくなるので、神の損失となります。そういうことのないようにと、神に助けてくださるようにと訴えたわけです。
ですから、新共同訳では、死の国と訳していますが、ダビデは、死者の意識が存続する死者の世界があるとは考えていませんでした。陰府とは、単に人類に共通の墓もしくは墓の領域を意味していたにすぎません。ダビデは、人が死ぬと神について語れなくなることを理解していました。
ですから、詩編6編のこの聖句は、女霊媒が呼び出したサムエルについての理解を深めます。サウル王は、エホバが自分に答えてくださらないので、女霊媒を通して、サムエルを呼び出してもらいました。女霊媒に呼び出された「サムエル」は、神がサウル王から去って敵になっていること、神はサウル王から王位をはぎとってそれをダビデに与えること、サウルがペリシテ人に敗北すると言いました。(サムエル記第一28:16〜19)
これは、その通りだったので、あたかも死んだサムエルが語ったかのように見えます。しかし、詩篇6編のダビデの言葉から、語ったのが、死んだサムエルでないことが分かります。死者は神について語ることはできません。ですから、この時、語っていたのは、死んだサムエルではなく、悪霊がサムエルのふりをして語っていたことが分かります。
それで、霊媒を通して神のお告げを聞こうとするのは間違っています。霊媒を通して語るのは、死者ではなく、悪霊ですから、悪霊と交信すべきではありません。(使徒16:16)
ダビデの言葉から死者は何も話すことも行動することもできないことが分かります。伝道者の書にも、「死んだ者は何も知らない。・・・あなたが行こうとしているよみには、働きも企ても知識も知恵もないからだ。」と述べられています。(伝道者の書9:5,10 新改訳)死者は生きている人のように知識や知恵を働かせることができない無意識の状態です。「死の眠り」という言葉もあるように、死者はぐっすり眠っているような状態です。(詩篇13:3。コリント第一15:20)
神は罪を犯したアダムに、「ついに、あなたは土に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない。」と言われました。(創世記3:19 新改訳)ですから、死んだ人は、土のちりに帰っています。死者はもう存在がなくなっていることが分かります。
当然、死者の意識が存続している死の国のようなものは存在しません。死者を苦しめる地獄のような場所は存在しません。死者は神について語ったり、ほめたたえたりすることはできません。
|
ヨブ記3章・死に対する恐れを克服する(新世界訳)「 なぜわたしは胎から出て死ななかったのか。[なぜ]わたしは腹から出て来たとき,息絶え[なかったのか]。・・・今ごろは,わたしは横たわって,乱されないでいたであろうに。そうすれば,わたしは眠っていたであろうに。わたしは休み,・・・ かしこでは,邪悪な者も動揺をやめ,かしこでは,力の点で疲れ果てた者たちが休んでいる。」(ヨブ3:11,13,17 新世界訳)
ヨブは悪魔サタンによって罪も無いのに、財産を奪われ、十人の子供たちが死に、自分の体の全身に悪性のはれ物が生じました。ヨブはあまりの苦しさゆえに誕生した時、死んでいればよかったと言いました。ヨブは、その時、死んだ人の状態を冒頭の言葉のように描写しています。
ヨブは、死んだ人は横たわって乱されず、眠っていると述べています。また、動揺するのではなく、休んでいると述べています。ですから、ヨブは死んだ人がいわゆる地獄で苦しめられているとは述べませんでした。邪悪な者や疲れ果てた者たちが死の状態の中では、動揺しておらず、休んでいると述べています。つまりもう苦しみを感じなくなっていると述べています。
ですから、聖書は悪いことをした人が地獄で苦しめられるとは述べていません。また、ヨブは流産になった子が天国に行っているとも述べませんでした。
聖書は他の箇所でも、「死んだ者には何の意識もなく」、「シェオル」すなわち人の「行こうとしている場所には、業も企ても知識も知恵もない」と述べています。(伝道の書9:5,10)シェオルとは、人類一般が死ぬと行く場所つまり状態を意味しています。シェオルでは、死者は何の意識もありませんから、仕事をしたり、知恵や知識を働かせたりすることはもうできません。それで、聖書は死んだ人が、無意識で、何の苦しみも煩いも経験していないことを述べています。
それで、神が人間をその邪悪さのゆえに永遠に地獄で苦しめるという教えが間違っていることが分かります。神は、悪に対して残忍に執念深く永遠に復しゅうするような方ではありません。死者は無意識で無存在となっています。当然、死者は基本的にそのまま意識をもって天国に行くわけでもありません。
確かに、聖書はある人々に復活によって天へ行くという希望を差し伸べています。しかし、天は、生まれてきてすぐに死んでしまった幼児などが行くことはありません。また、生きている間、信仰を持たないで神を度外視して邪悪な事柄を行っていた邪悪な人々が行くこともありません。人類の中で天へ復活するのは、少数の人々です。
ですから、当然ヨブも死んで天へ行くという見込みは持っていませんでした。ヨブはあまりの苦しさのゆえに死んでいたらよかったのにと言いました。ヨブは、もし人が死ぬと、苦しみが続いて、永遠に苦しめられる地獄に行く可能性があると考えていれば、死ぬことを望ましいと考えたりはしなかったことでしょう。ヨブが死を望ましいと述べたのは、ヨブは死者は無意識無存在になって生きている時の苦しみをもはや経験しないですむということ、また死者には地上への復活という希望があることを知っていたからです。(ヨブ14:13,15。使徒24:15)
それで、私たちは末期的な病気などでどうしても死に直面しなければならない時に、死後にもう苦しみを経験しなくなること、地獄や天国に行くのではなく、無意識無存在になるということ、人類の大多数に神は地上への復活という希望を差し伸べておられることを知ると慰められます。そのような希望を持っていれば、死に対して極端で過度の恐怖を持たないように助けられます。
|





