性急になりがちな人に対する聖書の助言性急に行動する人がいます。いったん思い立ったら、矢も盾もたまらず、結果を考えずにまっしぐらに行動に突き進む人がいます。それは賢明なことでしょうか。聖書の助言はなんと言っているでしょうか。
聖書の中で性急に行動することは勧められていません。さらに、聖書は無分別な行動や、無謀な行動を勧めていません。一世紀、エフェソス市の記録官が、暴動を起こしそうな群衆を静めて、「平静を保って性急に行動しないのがよい」と助言したことがありました。(使徒19:35)記録官は性急に行動するならば、訴えられる危険があると言いました。確かに、性急に行動する傾向は抑制する必要があります。
さらに、聖書は災いを前途にみても、つき進んで災いを経験する人がいることを述べています。聖書は、「災いを見て身を隠す者は明敏である。しかし,経験のない者たちは進んで行って,必ず報いを身に受ける。」と述べています。(箴言22:3;27:12)確かに経験のない人は、思慮深さが欠けがちで、性急に行動する傾向があるでしょう。でも、前途に災いが起こる可能性を認めたらそれを避けるのが賢明なことです。
身を隠すとは、隠れ場に逃れることです。聖書は「神は隠れ場である」と述べていますから、災いが前途にあると考える場合や災いに直面している時、エホバに保護を祈り求めることも、身を隠すことに含まれます。(申命記33:27)
They are many postures for prayer. This man is kneeling 神に祈ってエホバを隠れ場としエホバに保護していただくことができる
では、望ましくない災いを避けるためにどうしたらいいのでしょうか。聖書は義なる者がエホバの保護を受けられると述べています。(箴言18:10)ですから、物事をエホバの義の基準で行なって、エホバの保護に依り頼むことができます。つまり、殺人、流血、盗み、淫行、不法つまり罪の行ないなどのエホバの基準に反する方法に頼るのではなく、エホバの基準に従ってエホバに祈って頼りエホバに保護していただけるようにすることができます。(詩編119:17。マラキ4:3。イザヤ46:4)
聖書は、ダビデが「すべての道で終始慎重に行動し」た結果「エホバは彼(ダビデ)と共におられた)」と述べています。(サムエル第一18:14。列王第一2:3)ダビデは、聖書に従った熟慮に基づいて慎重に行動しました。また、ユダのヒゼキヤ王も、「慎重に行動」していたと述べられています。それで、ヒゼキヤ王は、その当時は、アッシリアに頼らないのがエホバのご意志だったので、エホバのご意志に服しつつ、慎重に行動し、エホバの是認を得ていました。(;列王第二18:7)
さらに、聖書は、「自分の霊を抑制しえない者は,破られた,城壁のない都市のようだ。」と述べています。(箴言25:28)自分を自制しないで、すぐに口論や暴力に訴える人は、城壁のない都市のように、敵の攻撃を受けやすいかもしれません。また、自分を自制できないことを強くて良いことだとは述べていません。節度がないことは賢明でないと述べています。
さらに、「識別力のある人は霊を冷静に保つ。」とあります。(箴言17:27) さらに、「早計な判断を下すこと」のないようにと勧めています。(テモテ第一5:21)ですから、性急に判断するのではなく、冷静になって状況を見極め、賢明な判断を下すように努力を払う必要があります。
さらに、聖書は「すべてのことを確かめなさい」と勧めていますから、例えば旅行をするのであれば、その前に、旅行先の状況についてできるだけネットや書籍で情報を確認して、危険な場所や時期を避けるのが賢明です。(テサロニケ第一5:21)例えば、テロ行為や暴動が起こっている場所、犯罪発生率が高いことが知られている治安の悪い場所は当然避けるべきです。
studying by English106 旅行に行く前に目的地についてネットや書籍でできるだけ調査し 危険な所を避けましょう
また、ある分野において知識や経験がない場合は、とりわけ慎重さが必要です。聖書は知識や思慮分別をもって歩むように勧めています。(ホセア14:9。箴言1:4)しかし、 エホバの言葉の助言の知識は単なる人間の助言よりも、信頼できます。(啓示21:5) 何よりも、エホバの言葉に聞き従うならば、災いを避けられるでしょう。(箴言1::33)しかし、学識をもたらす知識、一般的な事柄についての豊富な知識も助けになるでしょう。(箴言9:9,10;13:16)
神の言葉の助言は人間の教えよりも信頼でき私たちを災いから守ります
さらに、聖書は「まいたものを刈り取る」と述べています。(ガラテア6:7,8)それは種籾をまけばお米を刈り取り、ビワの種をまけばビワの実を刈り取るように、自分が行なった当然の結果を刈り取るということです。ですから、性急に目的地に到着しようとしてスピード違反をすれば事故に遭う可能性が高くなりますし、自分の欲望のおもむくままに肉中心で野菜の欠けた食事をすれば短命になる傾向があります。ですから、理性を働かせて後で良い結果を刈り取る習慣を身につけるよう努力を払いましょう。
loquats by fennfoot ビワの種をまけば・・・ loquat / 枇杷 by Kanko* ビワの実を収穫することになります 同様に私たちの生き方や習慣でそのうち結果を刈り取ります
ダビデが水を一杯飲みたいと言った時に、部下たち三人が敵のフィリスティア人の陣営を突破して敵の水溜から水をくんできました。ダビデは「自分の魂をかけて行った人々の血をわたしは飲めるでしょうか」とその水を飲もうとはしませんでした。(サムエル第二23:14-17)このことは、権威にある人は、自分の単なる欲求の充足のために、他の人に命を危険にさらすことを決して求めるべきではないことを示しています。また、人は権威ある立場の人の是認を追い求める傾向がありますが、単なる人のあまり意味のない欲求を満たすために、向こうみずな行動をとって身を危険にさらすべきでないことを示しています。
しかしながら、聖書は神の言葉を証しすることは、大切なことなので、ある場合証しをするために危険を顧みないことをほめています。聖書は、聖なる者たちが「証しの言葉のゆえに・・・死に面してさえ自分の魂を愛さなかった。」と述べてほめています。(啓示12:11)でも、聖書は殉教することを人に勧めているわけではありませんから、今まで述べてきたように慎重に行動するべきです。
それで、性急になりがちな人は、神の言葉の知識や一般の知識を調べて、早急な判断を避け、物事をよく調査して、前途の危険を避けるように慎重に行動し、エホバの基準を守ってエホバに祈り、エホバの保護に依り頼むことができます。
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クリスチャンの特質
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マタイ5章・きれいな人に見とれることは間違っていますか「わたしはあなた方に言いますが、女を見つづけてこれに情欲を抱く者はみな、すでに心の中でその女と姦淫を犯したのです。」(マタイ5:28)
イエスは女性を見続けて情欲を抱くことを非とされました。これは、女性を見てその相手と性行為をしている状況を想像するようなことを意味するでしょう。でも、とりわけ若い人は、きれいな人やイケメンに感心してみとれてしまうことが多いものです。このようにすることは間違っていますか。
Renae Ayris - Miss Universe Sydney Australia by Eva Rinaldi Celebrity and Live Music Photographer きれいな人は事実存在しますが外見に平衡のとれた見方をする必要があります
美しさに対して感銘を受けることは間違っていません。それは人の自然の反応です。人は「目に見えるもの」すなわち人の外見を見ます。(サムエル第一16:7) 男性でも女性でも際立った容姿を持っている人が存在するのは事実です。例えば、サウル王は、「麗しい人」でした。(サムエル第一9:2)また、聖書は、サラやリベカが容姿が美しかったこと、ラケルが「姿が美しく顔立ちも美しかった」ことを述べています。(創世記12:11;24:16;29:17)
私たちは、自然や動物や花の美しさを認めます。同じように、ある人の外見に感銘を受けることがあることを、正直に認めざるを得ないでしょう。でも、それも度が過ぎないように気をつける必要があります。
なぜなら、ノアの時代のみ使いたちが、天での神への奉仕から離れたきっかけは、地上の女たちの外見の良さに動かされたからです。神の子たちは、「人の娘たちの器量の良いことに気づくようになった」と記されています。(創世記6:2)み使いたちは、単に女性の美しさに注目するだけでなく、その女性に対する不道徳な性的欲望を育てました。
また、ダビデがバテ・シバと姦淫を行なったのも、バテ・シバの容姿の美しさに動かされたからです。(サムエル第二11:2-4)ですから、女性の外見に感銘を受けることは、その女性に対して間違った性的欲望を抱くことにつながることがあります。なぜなら、性的欲望は目に見えるものによって刺激されるからです。聖書は「欲望」と「目」を結び付けています。(ヨハネ第一2:16)ですから、イエスの言われたように、過度に異性の外見にとらわれることに気をつける必要があります。
聖書は、単なる外見の美しさの価値が限られていることを示しています。例えば、ダビデの息子アブサロムは当時のイスラエルの中で一番麗しい人でしたが、彼は、油そそがれた王であったダビデの王権に敬意を払いませんでした。(サムエル第二14:25) その結果、アブサロムは悲惨な最期を遂げました。
聖書は、「分別から離れていく」「きれい」な人を「豚」になぞらえています。(箴言11:22)これは男性に関しても言えるでしょう。とりわけ、エホバの存在を認めず、神の律法に違反する行ないに陥る人は一番「分別のない者」でしょう。(詩編14:1)ですから、単に外見が美しくても、敬虔な思いを持っていないならば、その美しさは価値がありません。
また、聖書は、過去にエホバとの親しい関係を持っていた人が、必ずしも容姿が際立ってはいなかったことを述べています。例えば、イエスは当時のイスラエル人の中で標準的な容姿をしておられたと思われます。なぜなら、十二使徒たちの中で、とりわけ目立った容姿ではなかったので、他の人と容易に見分けられず、イエスを見分けるためにユダは口づけをして知らせる必要があったからです。(マタイ26:48)また、エホバに何度も祈りを聞いていただいたレアは、眼に輝きがなかったと述べられています。(創世記29:17)
People following Jesus. イエスは標準的な容姿をしておられたようです さらに、聖書は、内面的な特質が外見より一層価値があると述べています。箴言は、「美しさもむなしいものとなることがある。」と述べています。年を取って若い頃の美しさが衰える人がいます。しかし、聖書は「エホバを恐れる女は自分に称賛を得る」と述べています。(箴言31:30)ですから、聖書はエホバを恐れるという特質が、どんな外見の美しさよりも、神と人にとって一番望ましいことを述べています。愛のある親切な人は、その容姿にかかわらず、美しく好ましく見えることでしょう。(箴言19:22)
ですから、私たちは、きれいな人の美しさに感銘を受けることは避けられないとしても、外見から過度に影響を受けないようにする必要があります。エホバと同じ見方をして、容姿に対して平衡のとれた見方をする必要があります。
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マタイ5章・敵を愛し続けその者たちのために祈り続けなさい「わたしはあなた方に言いますが、あなた方の敵を愛しつづけ、あなた方を迫害している者たちのために祈りつづけなさい。それは、あなた方が天におられるあなた方の父の子であることを示すためです。」(マタイ5:44,45)
イエスはご自分の追随者に敵を愛し、迫害者のために祈り続けるようにと言われました。このイエスの求めは、私を含めクリスチャンにとって最も難しいご要求のひとつだと思います。イエスご自身や初期クリスチャンは、どのようにこの点で模範を示しているでしょうか。
イエスは刑柱の上で、ご自分を杭にかけた者たちのために祈られました。イエスは杭につけられた時、「父よ,彼らをお許しください。自分たちが何をしているのか知らないのですから。」と祈られました。(ルカ23:34)今、現実に自分を苦しめている者たちのために祈るというのは、普通の人はできません。イエスは、確かにご自分が教えられたことを実践されていました。イエスは、人類全体に対してアガペー愛を示されるエホバ神に倣っておられました。(ヨハネ3:16)
イエスは刑柱の上でローマの兵士などの迫害者たちのために祈られた イエスは、ご自分に敵対する者たちに対して、無私の平衡のとれた見方をしておられ、ある人々はその無知ゆえにご自分に敵対することを認めておられました。あるローマの士官は、イエスが杭にかけられた時に起こったことを見て、『確かにこの人は神の子であった』と言いました。(マルコ15:39)そのローマ軍の士官は、後になってクリスチャンの宣明する良いたよりを聞いた時、受け入れてクリスチャンになった可能性があります。(フィリピ4:22)また、聖書は、イエスを処刑することに賛成していたであろう多くの祭司たちが後になって信仰を抱くようになったことを示しています。(使徒6:7)確かに、杭の上でのイエスの祈りは無駄になりませんでした。
また、クリスチャンのステファノは、自分に対して石打ちをして殺そうとする者のために祈りました。ステファノは、息を引き取る直前に、「ひざをかがめ,強い声で,『エホバよ,この罪を彼らに負わせないでください』」と叫びました。(使徒7:60)
ステファノは石打ちで殺される前に迫害者のために祈った どうして、ステファノは、そのような無私の祈りができたのでしょうか。なぜならステファノは、自分がエホバとイエス・キリストの好意を得ており自分が天的報いを受けることを確信していました。(使徒7:55,56)そして、ステファノは、『皆さん、兄弟たちと父たち、お聞きください」と語りかけて、最後の話を始めていましたが、迫害する自分の敵対者たちに対してアガペー愛を抱いており、彼らにできたら、自分が強く確信している天的報いを得て欲しいと願っていたでしょう。ですから、ステファノも、彼らの迫害の最高潮の時に、彼らのために祈ることができました。ステファノは、イエスの教えを実践していました。
ステファノの祈りは聞かれました。ステファノの殺害の際に迫害者たちの衣服の番をしていたサウロつまり後のパウロは、後になって天的希望を持つ者として選ばれました。(使徒7:58;8:1)パウロは、後にクリスチャンになった時、死ぬ直前のステファノの態度を何度も繰り返し思い出し、それは彼の態度に大きな影響を及ぼしたことでしょう。
自分を苦しめる者に対して、無私の愛を抱くのは難しいことです。しかし、イエスやステファノの模範を心に留め、自分の思いを調整するよう努力しましょう。少しでも彼らの模範に近づけるように自分の敵が天的希望や地的な希望を捉えることができるように願い、敵対する人に対してアガペー愛を持てるように努力しましょう。
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ゼカリヤ7章・互いに対して愛ある親切と憐れみを実行せよ「万軍のエホバはこのように言われた。『真の公正をもってあなた方の裁きを行なえ。互いに対して愛ある親切と憐れみをとを実行せよ。」(ゼカリヤ7:9)
預言者ゼカリヤは、公正と愛ある親切と憐れみの大切さを強調しました。なぜそうすることが重要なのでしょうか。それは、どのように行なえるのでしょうか。
なぜ、公正と愛ある親切と憐れみを示すことが大切なのでしょうか。それは、エホバご自身が、そのような特質を持たれる神だからです。聖書はエホバについて、「憐れみと慈しみに富み・・・愛ある親切と真実とに満ちる神」と述べています。(出エジプト34:6) 「[神]は義と公正を愛される方」とも述べられています。(詩編33:5)エホバ神は、ご自分が示しておられる特質を、ご自分を崇拝する者たちも同じように示すことを求められます。
イエスご自身も、公正と憐れみという特質が重要な特質であると言われました。イエスは、「偽善者なる書士とパリサイ人たち,あなた方は災いです!・・・律法のより重大な事柄,すなわち公正と憐れみと忠実を無視しているからです。これらこそ行なうべきことだったのです。」と言われたことがありました。(マタイ23:23)イエスご自身も、周囲の弟子たちや人々に対して公正と憐れみを示されました。 では、そうした特質をどのように示すことができるでしょうか。ゼカリヤは、「やもめや父なし子からだまし取ってはならない。外人居留者や苦しむ者からも。」と述べています。(ゼカリヤ7:10。詩編68:5。エレミヤ22:3) エホバは父なし子、やもめ、外人居留者のような社会的弱者に特別の配慮を払うようにと言われました。つまり、離婚や死別によってやもめやシングルマザーとなった人々やその子供たち、両親のいない孤児、外国人に対してです。
エホバは父なし子に特別の配慮を払うように求めておられる 外人居留者は、外国の地でつてがなく、住んでいる国の言葉を十分理解できなかったり、外国人に対する偏見のゆえに、仕事を見つけるのが難しかったり、外国で住むことにハンディがあることが多いでしょう。私たちはできる時は外国人に助けの手を差し伸べましょう。
やもめや父なし子に対する扱いは、私たちのエホバ神からの扱いに影響します。なぜなら、「あなた方はどんなやもめや父なし子も苦しめてはならない。 もしこれを苦しめるようなことがあって,その者がわたしに向かって叫ぶことになれば,わたしは間違いなくその叫びを聞く。 そしてわたしの怒りはまさに燃え,わたしは必ず剣をもってあなた方を殺し,あなた方の妻はやもめとされ,あなた方の子らは父なし子とされるであろう。」と、エホバは言われているからです。(出エジプト22:22-24)私たちがやもめや父なし子を苦しめるならば、私たちの生活の上からエホバの祝福が失われることでしょう。
私たちの周囲にも、やもめや孤児やシングルマザーの子供や外国人がいることでしょう。私たちは自分に与えられた力に従ってそれらの人々に、配慮を払うことによって、公正と愛ある親切と憐れみを示していきましょう。そのようにして、エホバの是認と祝福を得られるようにしましょう。
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ねたみはどのような害をもたらすでしょうか。ねたみをなぜ抑制すべきですか。ねたみをどのように克服できますか。 ラケルは子供がひとりもできなかった時、姉のレアをねたむようになり、夫のヤコブに対して「わたしにも子供を与えて下さい。でなければわたしは死んだ女となってしまいます。」と言いました。けれども、ラケルは実際にはヤコブからレアよりも一層愛されていました。(創世記29:30,30:1)けれども、「死んだ女となってしまいます」というラケルの言葉はラケルが夫から愛されているという事実に盲目になってしまっていたことを示しています。 それで、他の人の持ち物をねたむならば、自分がエホバ神から与えられている祝福に対して盲目になってしまうかもしれません。エホバは神の僕の一人一人に対してふさわしい祝福を与えてくださいます。そのことを考えるなら、他の人の持ち物をねたむことのないように気をつけるべきです。(出エジプト20:17) それから、ヨセフの兄弟たちはヨセフがエホバから預言的な夢を与えられてエホバから高められた時に、ヨセフをねたみました。また、ヨセフの兄弟たちはヨセフが父親から愛されていたので、ヨセフをねたみました。その結果、彼をエジプトに奴隷として売りました。 カインもアベルを殺してしまったのは、アベルに与えられた神の好意に対するねたみが原因でした。 ですから、ねたみを抑制しないならば、自分が神から与えられている祝福に盲目になったり、ねたんだ相手を攻撃したり、神の律法に違反することをしてしまうかもしれません。(創世記4:4〜7、37:11)それで、他の人に与えられている特権や祝福をねたまないように抑制すべきです。 聖書は愛があればねたまないと述べています。(コリント第一13:4)たとえば、サウル王の息子であるヨナタンは、自分に与えられるはずの王権がダビデに与えられることになったことを知っていたのですから、ダビデをねたんでも当然でした。けれども、ヨナタンはダビデの特質を高く評価しており、自分のように愛していたので、ダビデをねたむことはありませんでした。(サムエル第一18:1;20:17)それで、かえってヨナタンは命の危険を犯してダビデを助けました。 それで、私たちはねたみの感情が起きたなら、その人の良い特質を探したり、その人と交わったりしてその人に対する愛を培うように努力するならば、ねたみを克服できるということが分かります。
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