啓示2章・七つの会衆のひとつペルガモン会衆天で栄光を受けられたイエス・キリストは、ヨハネに現代ではトルコになっている七つの会衆に音信を伝えるようにと命じられました。今回、その中のひとつの会衆、ペルガモン会衆に当てたイエスの音信を調べたいと思います。
(3)ペルガモン会衆
ペルガモンは、小アジア(現トルコ)のアナトリアにあります。スミルナ(現イズミル)北方にあります。ペルガモンの標高335メートルの丘の上に、アクロポリス遺跡があります。そこには、ローマの皇帝トラヤヌスの神殿、ギリシア神話の主神であるゼウスの大祭壇、ギリシャ神話の女神アテーナー神殿などがあります。ですから、ペルガモンは異教の偶像崇拝や、皇帝崇拝が盛んに行われていた場所でした。
トルコのペルガモンのローマの皇帝トラヤヌスの神殿
イエスはペルガモン会衆のある所がサタンの座のある所と言われました。啓示13章によると、「龍」つまり悪魔サタンは、自分の「力と座と大きな権威」を「野獣」に与えます。(啓示13:2)それで、ペルガモンにサタンの座があるというのは、そこが「野獣」つまり政府の力や権威が強い所であることを意味していたでしょう。確かに、ペルガモンは、ローマ皇帝の神殿があり皇帝崇拝が行われていました。
そして、ペルガモン会衆の忠実な者「わたしの証人」アンテパスが殺されたと述べました。おそらく、アンテパスは、皇帝崇拝の強いペルガモンで、イエスに関して証ししたために殉教したのでしょう。しかし、ペルガモン会衆の成員は、彼の殉教を見ても恐れてイエスに従うのをやめることなく、証しの業を続けました。それで、イエスはペルガモン会衆の信仰をほめられました。
しかし、イエスは、ペルガモン会衆には、偶像崇拝と淫行を推進したバラムの教えを守る者がいるととがめられました。(啓示2:14)
また、ペルガモン会衆には、ニコラオ派の教えを固く守る者たちが存在していました。ニコラオ派とはニコラオという人が提唱する分派でエフェソスにも存在していました。ニコラオ派は、おそらく個人を強調しすぎていて「自分たちを買い取ってくださった所有者」イエス・キリストを「否認」し「みだらな行ないに従(って)」いたのでしょう。(ペテロ第二2:1,2)
私たちは、会衆の誰かが迫害で殉教したとしても、恐れてイエスに従うのをやめるのではなく、神のご意志を行ない続けましょう。また、個人に固く従うのではなく、「主人」としてイエス・キリストに従い、偶像崇拝や淫行を避けましょう。
イエスはそのようにして、ペルガモン会衆が忠実を守って征服するなら、隠されているマスと白い小石を与えると言われました。その小石には、「新しい名」が書かれています。(啓示2:17)
マナはエジプトから出て荒野にいたイスラエル人に、神が与えた食物でした。そして、後になってマナは「金のつぼ」に隠されて、エホバの神殿の至聖所の契約の箱の中に入れられていました。(ヘブライ9:3,4)マナは、荒野では、その日のうちに消えてしまいました。(出エジプト16:21)次の日にまでとっておくと腐りました。(出エジプト16:20)しかし、契約の箱のつぼの中のマナは、腐ることなくずっとそのまま新鮮に保たれました。(出エジプト16:33,34)至聖所は、イエスが行かれた天を表していました。(ヘブライ9:11,12)ですから、忠実を保つペルガモン会衆の人々が隠されたマナを食べられるようになるということは、腐れることのない不滅の霊の体を与えられて天で永遠に生きられるようになることを意味しているのでしょう。(コリント第一15:53,54)
与えられる不滅の命に比べたら、今の命は重要性において取るに足りないものです。たとえ、今の命を神への忠誠のために失うことがあっても、それは何も重要なものを失ったことにはなりません。私たちは、今の命を最善を尽くして神への奉仕に用いるように励まされるでしょう。
もちろん、今の命をできるだけ長く生き永らえたら、それだけ長くエホバに奉仕できます。けれどもエホバに忠実を保って命を失うことがあっても、不滅の命の報いが保証されているのですから過度に悲しまないですみます。 「小石」という言葉は,「投票用の小石」という意味があります。使徒パウロは,クリスチャンを迫害していた時、『わたしは彼らに敵対の票(ギリシャ語プセーフォン)[字義通りには,投票用の小石]を投じました』と言っています。(使徒 26:10)小石は法廷において,無罪か有罪かの意見を表明したりする際に用いられました。白い小石は無罪宣告に用いられ,黒い小石は有罪宣告に用いられました。
ですから,征服者に白い小石が与えられるということは,その人がイエスか罪のない者として裁かれるという意味でしょう。天的希望を持つクリスチャンは、たとえ死に面しても忠実を保ち証しの業を続け、偶像崇拝と淫行を避けるならば、キリストの贖いの犠牲によって、罪のない者としてみなしていただけます。
Cold stones by Pia Poulsen(whitesmallstone)
偶像崇拝と淫行を避け死に至るまで忠実を保ち神のご意志を行ない続けるならば神から無罪みなしていただき高められることになります
イエスは、フィラフィデルフィアの忠実な会衆の成員の上に「わたしの新しい名」を書くと言われました。(啓示3:12)キリストの「新しい名」とは、イエスが死に至るまで忠実を保つことによって与えられた「み使いたちよりも優れた名」もしくは「さらに上の地位」を意味しているでしょう。(ヘブライ1:3,4。フィリピ2:9)忠実を保つクリスチャンはキリストの体の成員としてキリストと共同の立場につきますから、神によって非常に高められることになります。
取るに足りない罪を持つクリスチャンがキリストの贖いによって無罪とみなされ、死に至るまで忠実を保つゆえに高められ被造物の中で一番高い地位を与えられるというのは、エホバの何と言う過分のご親切でしょう。(エフェソス1:7;2:5,6)
[関連する記事][はてなダイアリーの最近の更新] |
十四万四千人
[ リスト | 詳細 ]
マタイ24章・忠実で思慮深い奴隷はいったいだれでしょうか「主人が、時に応じてその召使たちに食物を与えさせるため、彼らの上に任命した、忠実で思慮深い奴隷はいったいだれでしょうか。主人が到着して、そうしているところを見るならば、その奴隷は幸いです。あなた方に真実に言いますが、主人は彼を任命してすべての持ち物をつかさどらせるでしょう。」(マタイ24:45−47)
イエスは、その召使たちに食物を与えさせるために、忠実で思慮深い奴隷を任命すると言われました。ルカの並行記述は、「主人が,時に応じてその定めの食糧を与えさせるため,自分の従者団の上に任命する忠実な家令,思慮深い者はいったいだれでしょうか。」となっています。(ルカ12:42)ですから、「忠実で思慮深い奴隷」が「忠実な家令、思慮深い者」、「召使いたち」が「従者団」となっています。
エホバの証人は、従来忠実で思慮深い奴隷とは、「油そそがれたクリスチャン全員」であると解釈してきました。(ものみの塔2013 7/15 20p3節)しかし、最近、忠実で思慮深い奴隷は、エホバの証人の統治体であるという解釈がものみの塔に掲載されました。(ものみの塔2013年7/15 22p10節)また、その解釈によると、統治体の兄弟たちが有能であるがゆえに任命され、忠実な思慮深い奴隷とされました。(ものみの塔2013年7/15 23p12節)
イエスが任命する忠実で思慮深い奴隷とはだれでしょうか。イエスは、有能な油そそがれたクリスチャンだけを任命するでしょうか。聖書は何と言っているか調べてみましょう。
まず、分配されるべき「食物」とはなんでしょうか。ここでは、イエスは「食物」をいろいろな比ゆ的な意味で使っています。
イエスは、神のご意志を行なうことをご自分の「食物」だと言われたことがありました。イエスは、「わたしの食物とは,わたしを遣わした方のご意志を行ない,そのみ業をなし終えることです。」と言われました。(ルカ4:32-34)
イエスは、また、ご自分を「真の食物」に例えられたことがありました。イエスは、「わたしの肉は真の食物であ(る)」と言われ、「これは天から下って来たパンです。・・・このパンを食する者は永久に生きるのです」と言われました。(ヨハネ6:54-58)ですから、贖いを中心としたイエスの教えは、食物です。それは永遠の命に導きます。(ヨハネ6:27)イエスが追随者に与える宣教を行なうことなどの命令や指示も食物に含まれるでしょう。(マタイ24:14;28:19,20)
さらに、聖書によると、「乳」は、「キリストに関する初歩の教理」です。また、「固い食物」は、円熟した人々が摂取できる「義の言葉」で、聖書中のより一層高度な教理です。(ヘブライ5:12-6:2)
それでは、「忠実な奴隷」とは、聖書の中で誰を表わしているでしょうか。イエスは、「タラント」を「奴隷たち」にゆだねるというたとえ話をされたことがありました。イエスは最初に、「五タラント」、「二タラント」、「一タラント」と「各自の能力に応じてひとりひとりに与え(ます)。」そのことは、イエスが能力の程度にかかわらず、ご自分の弟子に、宣教の務めを与えることを意味しています。
そして、「奴隷」は忠実でありさえすれば、能力と成果の程度のかかわらず、イエスによって「善良で忠実な奴隷」として「任命」され、多くのものをつかさどるという結果になります。(マタイ25:14,15,21-23)ですから、イエスは、有能な油そそがれたクリスチャンだけを、「忠実な奴隷」と考えることはないでしょう。
「多くのものをつかさどらせる」というこのイエスの最終的な任命は、天で王として奉仕するという務めに任命されるということを意味すると思われます。
しかし、イエスは弟子たちが天の王として最終的に任命される時だけ任命されるのではありません。イエスが、ご自分の油そそがれた弟子たちを選ばれた時点で、「任命」されています。イエスは、地上の死の前日に、使徒たちと食事をとった時に、こう言われました。「わたしがあなた方を選び,あなた方が進んで行って実を結びつづけ,しかもその実が残るようにと,わたしがあなた方を任命したのです。」(ヨハネ15:16)
イエスは忠実な使徒たちだけを「任命」されたのでしょうか。そうではありません。イエスが任命された目的は、「実を結ぶ」ことです。実を結ぶというのは、イエスの「弟子であることを示すこと」を意味しています。(ヨハネ15:8)イエスが「あなた方を任命した」と言われた時、イエスは単に忠実な使徒たち対してだけではなく、イエスの油そそがれた「弟子」全体に対して語られていました。
イエスは油そそがれたご自分の弟子皆を奴隷として任命される それで、14万4千人の油そそがれたクリスチャン全員が聖霊で油そそがれた時点で、イエスの「奴隷」として任命されていると言えます。
さらに、「花婿を迎えに出た十人の処女」のたとえ話の中でも、光をともすという務めを行なう「五人は思慮深い者」と呼ばれています。(マタイ25:1,2)ですから、イエスに忠実であれば、花嫁級はみな「思慮深い者」です。また、イエスはご自分のことばを聞いてそれを行なう者を「みな」、「思慮深い人」と呼ばれたことがありました。(マタイ7:24)ですから、「思慮深い」とイエスからみなされるために大切なのは、その能力ではなく、イエスのことばを忠実に行なうことです。
忠実に光をともす務めを行なう花嫁級は皆思慮深い者と呼ばれる その「奴隷」が「思慮深い者」になるか「愚かな者」となるか、「無精」で怠惰な奴隷となるかどうかは、油そそがれたクリスチャン各自のイエスの指示に対する反応に依存しています。(マタイ25:1-9,24-27)
また、エルサレム会衆の年長者団の中核になった使徒たちだけではなく、パウロも「任命され」ていると述べられています。 (テモテ第一2:7。テモテ第二1:11)パウロの場合は、特別な務めのためにイエスに直接任命されました。
これらの聖書的根拠から、油そそがれたクリスチャン全員は、イエスに選ばれた時点で、「任命」されています。そして、エルサレム会衆の使徒たちや年長者団だけでなく、イエスのことばを忠実に守る油そそがれたクリスチャン全員は、みな能力の程度にかかわらず「忠実で思慮深い奴隷」と言えます。ですから、エホバの証人の統治体の兄弟たちだけが、有能であるという理由で「忠実で思慮深い奴隷」であるという解釈は、聖書的に正しくありません。
また、「従者団」とは、天的希望であれ地的な希望であれイエスに従うイエスの弟子たちです。 聖書の中で「従者」は「奉仕者」とも呼ばれています。(列王第二6:15)ですから、イエスに従う弟子たち、イエスの「奉仕者」たちはイエスの「従者団」でしょう。
忠実で思慮深い奴隷は、「従者団」に「食物」を分配します。これは、イエスの教えを中心とした霊的食物を仲間のクリスチャンに分け与えることも意味しているでしょう。また、「食物」には、エホバのご意志を行なうという意味もありますから、油そそがれたクリスチャンが、仲間のイエスの弟子たちに、さまざまなエホバのご意志に関連した仕事を与える経路になることも意味しているのかもしれません。
私は、エホバの証人の統治体の兄弟たちが、「忠実で思慮深い奴隷」は油そそがれたクリスチャン全員であるという理解から離れたことは、聖書に基づく解釈からの後退だと思います。エホバの証人の統治体の兄弟たちが、これらの聖書的根拠を検討して、是非聖書の正確な解釈に戻るようにお勧めしたいと思います。
[関連する記事][はてなダイアリーの最近の更新] |
創世記3章・女と女の胤と蛇と蛇の胤が表わす実体「わたしは,お前と女との間,またお前の胤と女の胤との間に敵意を置く。彼はお前の頭を砕き,お前は彼のかかとを砕くであろう。」(創世記3:15)
エデンの園で、蛇がアダムとエバに罪を犯させた後、エホバは蛇に対して上記の預言を語られました。その中で、蛇と蛇の胤、女と女の胤が登場します。それらは、それぞれ何を表しているのでしょうか。
聖書の中で、悪魔サタンは、「初めからの蛇」と言われています。(啓示12:9)ですから、エバを欺いた蛇の背後にいたのは悪魔サタンです。
では、胤とは何を意味するのでしょうか。胤はヘブライ語はゼラでギリシャ語はスペルマで、ふたつの語は対応しています。どちらも「種」あるいは「胤」と訳されています。ゼラとスペルマは、農業に関連している場合、植物の種を意味します。(創世記1:11)また、動物や人間に関連している場合、それらの語は、多くの翻訳で「種」もしくは「胤」と訳されており、「子孫」を意味しています。(創世記21:12,13)
蛇の胤は誰でしょうか。イエスは、ご自分に敵対した当時の「偽善者なる書士とパリサイ人たち」に対して、「蛇よ,まむしらの子孫よ」と言われました。(マタイ23:29,33)さらに、イエスはご自分を殺そうとした者たちに対して、「あなた方は,あなた方の父,悪魔からの者であ(る)」と言われました。(ヨハネ8:37,44)ですからイエスを殺そうとしたユダヤ人は悪魔の子孫つまり蛇の胤でした。
さらに、パウロは、イエスの弟子たちに反対し、信仰からそらせようとした呪術者エルマを「悪魔の子」と呼びました。(使徒13:8-10)また、カインなど「義を行ないつづけない者」、「自分の兄弟を愛さない者」は「悪魔の子供」と呼ばれています。(ヨハネ第一3:10)これらの聖句は、地上で悪魔に倣って、イエスやイエスの弟子たちに敵対し、仲間の人間を愛さず、神の律法を守らない者たちは、蛇の胤と言われているようです。
エホバの証人の解釈では、悪霊たちも蛇の胤と解釈されています。確かに、悪霊たちは龍もしくは悪魔の「使いたち」と呼ばれてはいますが、悪霊たちを蛇の胤と呼ぶ聖書的根拠はないように思えます。(啓示12:7-9。マタイ25:41)
では、女と女の胤は誰を表わしているのでしょうか。悪魔と地上の悪魔の胤と敵対関係にある「女」は明らかに比ゆ的な女でしょう。女とは誰でしょうか。聖書を調べると、女の実体は移り変わったようです。まず、聖書の中で、律法契約のもとにあった生来のイスラエル人の国家は、何度も比ゆ的な女として描写されています。
例えば、エゼキエル23章の中で、「サマリア」すなわちサマリアを首都とする北のイスラエル王国は「オホラ」という女で表わされています。また、「エルサレム」すなわちエルサレムを首都とする南のユダ王国は「オホリバ」という女で表されています。(エゼキエル23:1-4)どちらも「売春婦」になりました。(エゼキエル23:43-45)ですから、聖書は、北の十部族イスラエル王国も南の二部族ユダ王国も、「女」に例えています。
The capture of Jerusalem by the Romans. エホバの女であった昔のエルサレムは不忠実になって捨てられた
エホバの証人は、創世記3章15節の女をみ使いたちの組織と解釈しています。とりわけ、エホバの証人は、イザヤ54章5-8節をみ使いたちの組織に適用します。しかし、み使いたちの組織を「完全に捨てられ,霊の傷ついた妻」と描写することはできないと思います。なぜなら、エホバ神は、み使いたちの組織全体を完全に捨てられたことは一度もないと考えられるからです。確かに、み使いたちの一部はノアの洪水の前に神への奉仕から離れましたが、大半のみ使いたちはエホバに忠実を保ちました。(創世記6:2。ヨブ1:6ダニエル7:10)ですから、み使いたちの組織は、昔の生来のイスラエル人の国家が全体として神に不忠実になったのとは異なって、大半が忠実を保ったようです。
しかし、創世記3章15節の女の実体は、最初のエホバの女が不忠実になったので、変化したようです。なぜなら、先ほど述べたように、イスラエルの国家は、「売春婦」になったと述べられています。また、聖書は、この移り変わりをアブラハムの結婚関係で説明しています。アブラハムはサラとハガルというふたりの妻を持っていました。聖書は、サラとハガルが「二つの契約を表わしている」と説明しています。ハガルは「シナイ山から出ていて,奴隷となる子供たちを生み出すもの」を表わしています。(ガラテア4:24)それで、ハガルは「古い契約」すなわち、モーセの律法契約を表わしています。(コリント第二3:14)ハガルとその子は追い出されました。(ガラテア4:30)そのことと調和してキリストの贖いの死によりモーセの律法契約は廃棄されました。(エフェソス2:15)
ハガルは律法契約を表わしていて廃棄され新しい契約が取って替わった
パウロはサラまた「上なるエルサレム」が自分たちの母であると言っています。(ガラテア4:26) サラも契約を表わしていました。それで、サラはハガイで表わされていたモーセの律法契約に取って代わった新しい契約を表わしていると思います。(エレミヤ31:31,32。コリント第二3:14)新しい契約は、エホバ神と、ユダヤ人と非ユダヤ人からなるクリスチャンの間で結ばれました。(ローマ2:28,29;9:6,24)それで、ハガルはモーセの律法契約、サラは新しい契約を表わしているということになります。
ですから、サラで表わされた「上なるエルサレム」は、母ですから、女です。その女は、パウロのような新しい契約に入っているクリスチャンの組織全体です。
それで、創世記3章15節の女は、最初は、西暦1513年に登場したモーセの律法契約下にあったイスラエル国家を表わしていました。そして、イスラエル国家の個々の成員は、女の「息子」や「娘」つまり胤を意味しています。(エゼキエル23:4)そして、キリストの贖いの死により、新しい契約が、古い契約に取って代わられました。(ルカ22:20)それで、その時以降創世記3章15節の女は、新しい契約に入っているクリスチャンの組織を表していると思います。また、「上なるエルサレム」は、「新しいエルサレム」であり、「子羊」イエス・キリストの「妻」であるクリスチャン会衆を意味していると思います。(啓示21:2。19:7)
聖書はカインを悪魔の子供と言っていますから、蛇の胤の方が女よりも、先に登場したようです。そして、サタンは、モーセの律法契約が発効してから、モーセの律法契約に忠実なイスラエル人を自分に従うイスラエル人によって迫害しました。また、新しい契約が発効して後は、生来のユダヤ人や、キリスト教に反対する人々は、新しい契約に忠実なクリスチャンを迫害しました。ですから、預言されていたように、サタンとサタンの奉仕者、そして、神に忠実な神の僕たちの間には、敵意がありました。
イエス・キリストは創世記3章15節の預言にどのように関係しておられるでしょうか。イエスは、最初の女の最も忠実な部分でした。そして、イエスは律法を成就されて、死んで復活して永久に生きておられるので、最初の女の永続する部分となられたと思われます。(マタイ5:17)
そして、サタンは、女のかかとを砕きます。それで、サタンの攻撃により、イエス・キリストだけでなく、生来のイスラエル国家と、新しい契約に入っているクリスチャンは打撃を受けます。しかし、女はサタンの頭を砕きます。聖書は女が将来サタンとその胤を足の下に砕くことを予告しています。(ローマ16:20)また油そそがれたクリスチャンは死後霊者になってイエスに率いられて今の事物の体制でサタンに従い続ける人々を滅ぼします。(ダニエル2:44。啓示19:11-19)イエス・キリストはサタンを無活動状態にします。(啓示20:1-3)また、千年統治の後、サタンに惑わされる諸国民を滅ぼすことにも、天の神の王国が関与するのでしょう。(啓示20:9,10)
それで、最終的にイエス・キリストと彼に従う油そそがれたクリスチャンがサタンと彼に従う者たちを滅ぼしてしまいます。ですから、女と女の胤つまりイエス・キリストとキリストの兄弟たちの味方の側に立ちましょう。それは永遠の益をもたらします。 [関連する記事][はてなダイアリーの最近の更新] |
マタイ26章・記念式の表象物は何を表していますか「彼らが食事を続けていると,イエスはパンを取り,祝とうを述べてからそれを割き,弟子たちに与えて,こう言われた。『取って,食べなさい。これはわたしの体を表わしています』。 また,杯を取り,感謝をささげてからそれを彼らに与え,こう言われた。『あなた方はみな,それから飲みなさい。これはわたしの『契約の血』を表わしており,それは,罪の許しのため,多くの人のために注ぎ出されることになっているのです。』」 (マタイ26:26-28)
西暦2012年にエホバの証人の記念式で表象物にあずかった人の数は、全世界で1万2604人でした。そして、記念式に出席した人の数は、全世界で1900万人あまりでした。今年2013年の記念式は、3月26日(火)の日没後に行なわれます。
私はエホバの証人の聖書の解釈すべてに同意しているわけではありませんが、イエスの死の記念式を忠実に年に一度執り行っているのは、キリスト教の団体の中でエホバの証人だけだと思います。 イエスは、西暦33年ユダヤの暦でニサン14日午後3時ごろ刑柱上で亡くなりました。ユダヤの暦の一日は日没後に始まり日没後に終わります。イエスは、亡くなる前の日の日没後すなわちニサン14日が始まってまもなく、「記念」式を制定されました。(コリント第一11:25) イエスは、その際に、パンとぶどう酒を弟子たちに配り、あずかるようにされました。パンとぶどう酒は表象物として用いられていました。では、パンとぶどう酒はそれぞれ何を表していたのでしょうか。
イエスは、パンは「わたしの体を表しています」と言われました。(マタイ26:26)その時用いられたパンは膨らんでいないひらべったい無酵母パンでした。では、イエスの体を表すパンを食べるという行為は何を表しているのでしょうか。
聖書は次のように答えています。「わたしたちが割くパン,それはキリストの体を分け持つことではありませんか。」(コリント第一10:16)ですから、記念式の際に、パンにあずかるというのは、キリストの体を分け持つということを意味しています。聖書はキリストを「頭」、またキリストに堅く付き従うクリスチャンをキリストの体に例えています。(コリント第一12:27。エフェソス1:23;5:29-32)
無酵母パンを食べることはイエスの体の成員であることの表明 聖書は神の僕にふたつの希望を差し伸べています。まず、限られた数のクリスチャンには、神の王国の成員になるという希望を差し伸べています。その数は14万4千人で、それらの人々は、「地から買い取られ」、天に行きます。(啓示14:1,3)それらの人々は、神の王国に入るために、人間としては死んで、「霊的な体でよみがえらされ」る必要があります。(コリント第一15:44,50)天で「キリストと共に千年のあいだ王として支配」するという仕事を行なうためです。(啓示20:4-6)
しかし、聖書が人類の大半に差し伸べているのは、この地上で人間として永久に生きるという希望です。(詩編37:29) 聖書は、「民の多いことには王の飾りがあ(る)」と述べており、王がいるなら、王から支配を受ける多くの民がいると述べています。(箴言14:28)聖書は、それらの人々が「すべての国民と部族と民と国語の中から来た,だれも数えつくすことのできない大群衆」になり、大患難を生き残ると述べています。(啓示7:9,14)ですから、地上の楽園で人間として永遠に生きる希望が与えられる人の数は無制限です。
キリストの体の成員であるということは、神の王国に入るという希望を持っているクリスチャンであるということです。そして、キリストの体であるということは、キリストが忍ばれたような試練を地上で受けること、それでも死に至るまで忠実を保たなければならないという責務を持っていることを示しています。(啓示2:10)
では、記念式の際に回されるぶどう酒は何を表すのでしょうか。イエスは、ぶどう酒について、ご自分の「契約の血」を表わしていると言われました。この「契約」とは、「新しい契約」のことです。(.ルカ22:20) 新しい契約は、エホバと霊的なイスラエル人の間で結ばれます。(エレミヤ31:31。ヘブライ8:8) 新しい契約の仲介者はイエス・キリストです。(ヘブライ9:15)それで、ぶどう酒は新しい契約が発効するために流されたイエスの血を表わしていました。 (ヘブライ9:18)
「新しい契約」はモーセの律法契約にとって替わりました。(エレミヤ31:31,32)新しい契約は、モーセの律法契約と違って、「罪の許し」をもたらします。(マタイ26:28。ヘブライ8:12)キリストの「贖いによって釈放するための死」が遂げられたことに基づいて「召された者たちが永遠の相続財産の約束を受けられるように」なります。(ヘブライ9:15)ですから、罪を持つ人間が神の王国に入り永遠の命を受けることができるのは、キリストの流された血のおかげです。
ですから、記念式の際、ぶどう酒を飲むことは、自分が新しい契約に入っていて、「神の子供」となっており、将来キリストと共に王として支配するために天に復活するという希望を持っていることを示すことになります。(ローマ8:14-17)
ぶどう酒を飲むことは新しい契約に入っており天の王国に入る希望を持っていることを示す また、聖書はキリストの贖いにより、地的な希望を持つ大群衆が大患難を保護されて生き残ることができることを示しています。(啓示7:14)また、大群衆もキリストの贖いによって罪が許され地上の楽園で永遠の命を受けることができます。(ヨハネ第一2:2)
記念式の時、表象物にあずかる人は、パンとぶどう酒が表していることを思い巡らすことができます。また、天的希望を持つ人が表象物にあずかるところを見守る大群衆も、キリストの体と血が成し遂げることについて思い巡らすことができます。イエスの死の記念式に出席して、キリストの贖いに感謝を示しましょう。
[関連する記事][はてなダイアリーの最近の更新] |

- >
- 生活と文化
- >
- 祝日、記念日、年中行事
- >
- その他祝日、記念日、年中行事
マタイ25章・イエスの兄弟の小さな者を見分ける「すると,王は答えて言うでしょう,『あなた方に真実に言いますが,これらわたしの兄弟のうち最も小さな者の一人にしたのは,それだけわたしに対してしたのです』。・・・そして,これらの者は去って永遠の切断に入り,義なる者たちは永遠の命に入ります」。(マタイ25:40,46)
イエスは、マタイ25章の中で神の王国の特徴を示す多くのたとえ話をされました。その中で、イエスは、羊とやぎを分ける業のたとえ話をされました。羊は永遠の命を受け継ぎ、やぎは永遠の裁きを受けます。どのようにしてそのように分けられるのでしょうか。イエスは、たとえ話の中で、イエスの兄弟の最も小さな者になされたことをご自分になされたこととみなされると言われました。(マタイ25:40)そして、イエスはご自分に対して個人的になされたとみなされることに基いて、王国の祝福を与えるかどうかを決められます。問題となるのは、イエスの兄弟を正しく見分けることです。
イエスから羊とみなされるためにはイエスの兄弟を見分けることが必要 イエスは、神の王国の召しを差し伸べたご自分の「弟子たち」を「わたしの兄弟たち」と呼ばれました。(マタイ12:48−50。コリント第一15:50)ですから、イエスの兄弟とは、天的希望を差し伸べられる14万4千人です。(啓示14:1)それらイエスの兄弟たちは、将来天に復活して、イエスと共に天から王として地上の楽園を千年間支配します。(啓示20:4,6)では、イエスのたとえ話によると、イエスの兄弟たちは、どんな特徴を持っているでしょうか。
イエスの説明によると、イエスの兄弟たちは、一般社会の基準で、良い立場にない人かもしれません。イエスの兄弟は経済的に困窮しているかもしれません。なぜなら、イエスは、イエスの兄弟が、「飢え」、「渇き」、「裸でいる」場合があると言われたからです。(マタイ25:35,36)
また、イエスの兄弟は一般社会でもてはやされている人ではありません。なぜならイエスは、イエスの兄弟が、「獄」つまり刑務所にいるかもしれないと言われたからです。
イエスの兄弟はイエスに従うために刑務所にいる人かもしれない 結局、イエスご自身も地上におられた時、ユダヤ教の社会から受け入れられませんでした。当時の権力者であった書士やパリサイ人から反対されていました。そして、イエスは当時、いわれのない罪で司法上の罰を受けました。イエスを慕う一般の人々は、大勢いましたが、イエスが宣べ伝えた音信はユダヤ教の社会全体としては、受け入れられない人気のないものでした。イエスは、ご自分の弟子たちが「師」であるご自分と同じ扱いを受け、人々から悪く言われるだろうことを予告されました。(マタイ10:24,25)
イエスは、弟子たちに「剣をとる」ならば滅びると言われて、剣をとって戦うことのないようにと言われました。(マタイ26:52)ですから、ある国で強制的な徴兵制が施行された場合、その人は、兵士として戦うことに対する良心的兵役拒否のために、刑務所や強制収容所に入れられるかもしれません。実際今でも、韓国、トルコ、シンガポールその他の国で徴兵制度が施行されています。そのような国家では、刑務所に入れられるならば、その人は前科者というレッテルを貼られるでしょう。その人は、職業を見つけるのが難しいゆえに経済的困難に直面するかもしれません。一般社会では見下された人になります。しかし、その人はエホバの目には貴重な存在となっています。(イザヤ43:4) また、イエスの兄弟は、イエスの説明によると健康な人ではないかもしれません。イエスはご自分の兄弟が「病気であったり」すると言われました。(マタイ25:39)実際、一世紀に多くの病気の人や身体障害者が、イエスの奇跡によっていやされ、王国の希望を抱くようになりました。しかし、現代においては、奇跡はありませんから、イエスの兄弟は、慢性病を抱えていたり、身体障害者かもしれません。その人は、うつ病を抱えている人かもしれません。
イエスは、イエスの兄弟が「よそからの者として来る」場合があると言われました。(マタイ25:35)ですから、イエスの兄弟は土着の人でないかもしれず、外国人かもしれません。イエスの兄弟は、宣教のために見知らぬ国や地域に移動したかもしれません。また、迫害を逃れてよそから来たかもしれません。(マタイ10:23)
ですから、私たちは、将来楽園では天から王として支配することになるイエスの「兄弟たち」が一般社会で人気がない人かもしれず、経済的成功を収めている人でもなく、また健常者でもないかもしれないことを予期することが必要です。記念式で象徴物にあずかる人に驚かないようにすることが必要かもしれません。エホバの見方で、イエスの兄弟たちを見分け、永遠の命を得られるようにしましょう。
[関連する記事][はてなダイアリーの最近の更新] |





