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詩編103編・神はわたしたちの違反を遠くに離してくださる

 
「日の出が日没から遠く離れているのと同じく、神はわたしたちの違反をわたしたちから遠くに離してくださった。」(詩編10312
 
 
詩編103編は、ダビデの作です。詩編103編の中で、ダビデは、神を恐れる者に対して、エホバが愛ある親切と憐れみを示してくださり、その違反を遠くに離してくださることについてエホバを賛美しています。
 
 
910節では、ダビデは、神の私たちの罪に対する怒りは一過性のものであると語っています。そして、神の民の罪に応じた当然の処罰を差し控えられることがあることについて語っています。
 
 
こう述べています。「神はいつまでも過ちを捜しつづけることも、定めのない時に至るまで憤慨しつづけることもない。神はわたしたちの罪に応じてわたしたちを扱うことをされなかった。わたしたちのとがに応じて、当然受けるべきものをわたしたちにもたらすことをされなかった。」と語っています。
 
 
ダビデは、なぜこのように語ることができたのでしょうか。ダビデは、自分の経験からこのように語ることができました。ダビデは、バテ・シバと姦淫し、その夫ウリヤを死にいたらせるという大きな罪を犯しました。ダビデはその罪のために死んでも当然でした。しかし、そうはなりませんでした。
 
 
預言者ナタンは、ダビデの罪のためにダビデの家から剣が離れないという宣告を伝えました。ダビデは、本心に立ち返り自分の罪の大きさに苦しみました。そして、エホバが自分を捨て去ってしまわれないように懇願しました。
 
 
ナタンの宣告の通り、ダビデの息子アブサロムはダビデに反抗して剣をとりダビデを殺して自ら王となろうとしました。しかし、ダビデはエホバに祈り、その祈りは聞き届けられ、ダビデは再びエルサレムの王として迎え入れられました。
 
 
ダビデは、自分の罪を許してくださったエホバの愛ある親切と憐れみを賛美しました。しかし、ある人は、ダビデは、アブラハムの胤に至る家系だったので、特別な扱いを受けたのだと言います。では、他の人は、ダビデのようにエホバから罪を許していただけないのでしょうか。そうではないでしょう。
 
 
なぜならダビデは詩編103編の中で、自分のことだけではなく、エホバを恐れる者たちについて語っています。例えば、詩編1031113節でこのように語っています。「天が地よりも高いように、その愛ある親切はご自分を恐れる者たちに対して優れたものだからである。・・・父が自分の子らを憐れむように、エホバはご自分を恐れる者たちを憐れんでくださった。」
 
 
それで、エホバの愛ある親切と憐れみは、ダビデに対してだけでなく、エホバを恐れる複数の者たちに対して示されると述べられています。
 
 
また、神が油注がれた者だけでなく、地的な希望を持つ者たちの罪を許してくださることは、聖書が贖いについて述べることからも分かります。イエスの贖いについては、ヨハネ第一21,2節に、「それでも,もしだれかが罪を犯すことがあっても,わたしたちには父のもとに助け手,すなわち義なる方イエス・キリストがおられます。そして彼はわたしたちの罪のためのなだめの犠牲です。ただし,わたしたちの[罪]のためだけではなく,全世界の[罪]のためでもあります。
 
 
それで、イエスの贖いは、ここで「わたしたち」と述べられているアブラハムの胤である天的希望を持つ者たちだけでなく、それ以外の人々、地的な希望を抱く者たちの罪も覆う働きがあります。それは、エホバを恐れる者たちに対するエホバの愛ある親切と憐れみの反映です。
 
 
しかし、聖書は罪の重大さを過小評価していません。ダビデは、自分の犯した罪のために非常に苦しみました。しかし、ダビデは基本的に神を恐れ、神の律法を守ろうと努力する者だったので、ダビデに対してエホバは憐れみを示されました。
 
 
私たちもダビデのように最善を尽くして、神を恐れ、神の律法を守るようにしましょう。そして、万一失敗があったとしても、エホバの愛ある親切と憐れみを受けられる者となるようにしましょう。
 
 
 

マタイ12章・許されない罪とは何ですか

 
 
 

詩編38編・ダビデは自分の罪により苦しむ

 
 
「あなたの糾弾のゆえに、わたしの肉には健全な所はありません。わたしの罪のために、わたしの骨には平安はありません。」(詩編383
 
 
詩編38編の中で、ダビデは、自分の罪のために苦しんだことを言い表しています。ダビデは、ウリヤの妻バテ・シバと姦淫し、罪のないウリヤが死ぬように取り計らうという大罪を犯しました。そのために、ダビデは預言者ナタンを通して、自分の家族から生じる剣の災いを経験することが予告されていました。(サムエル第二1211)ナタンの予告どおり、ダビデの息子アブサロムは、ダビデに反抗して、自ら王となり、ダビデを亡き者にしようとしました。ダビデは、そのことをエホバ神からもたらされた糾弾とみなしました。
 
 
冒頭の聖句にあるように、ダビデは、自分の罪のゆえに平安を失いました。ダビデは、ナタンを通して示されたエホバの裁きの言葉のゆえに、大いに苦しんだことでしょう。エホバの糾弾の言葉は、ダビデの身体全体に悪影響を及ぼしました。
 
 
また、詩編384節の中で、ダビデは自分の罪が非常に大きなものであることを認めています。ダビデは、「わたしのとががわたしの頭を越えたからです。重い荷のように、それらはわたしにとって重すぎるのです。」と述べています。ダビデは自分の犯した大きな罪に唖然としたことでしょう。
 
 
また、ダビデにとって自分の罪は、悪臭を放つうみをもった傷のようでした。(詩編385)ダビデは、自分の罪とエホバからもたらされた災いのゆえに苦しみ、一日中悲しみました。(詩編386)ダビデは腰が熱くなったように感じ、また、自分の身体全体が病んでいるように感じました。(詩編387)ダビデは極度に打ちひしがれ、大声を上げてうめきました。(詩編388)ダビデの心臓は激しく鼓動し、ダビデから身体の力は去りました。ダビデの目の光は失われました。(詩編3810
 
 
このような苦しみの中で、どのようにダビデは、エホバに向かったでしょうか。ダビデはエホバに祈ることをやめませんでした。ダビデは、自分のとがをエホバに言い表しました。(詩編3818)そして、エホバに自分を捨てないように懇願しました。(詩編3821)さらに、自分を助けに来てくださるようにエホバに懇願しました。(詩編3822
 
 
最終的に、ダビデの祈りは聞き届けられました。ダビデはエホバの警告どおり、エホバの不興を被って災いを経験しましたが、許されて、命と王位を永らえることができました。ダビデは、最後には、エホバが許してくださったことを感じて、平安のうちに生涯を閉じました。
 
 
私たちもエホバに対して大きな罪を犯してしまい、エホバからの保護や祝福を失って災いを経験しているように感じることがあるかもしれません。そのため、大いに精神的な苦しみを経験することがあるかもしれません。
 
 
そんな時でも、エホバが私たちを捨て去ってしまわれないようにエホバに懇願し、エホバに罪を告白し、罪を悔い改めましょう。エホバからの救いがもたらされるようにエホバにお願いしましょう。エホバからどんな時でも離れないようにしましょう。
 
 
エホバは私たちのエホバに対する粘り強さのゆえに、私たちの罪を許してくださり、再び是認と祝福を与えてくださることでしょう。
 
 
 
 
 
 
 

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箴言27章・神が罪を犯す人間を造ったのは失敗でしたか

 
我が子よ,賢くあって,わたしの心を歓ばせよ。」(箴言27:11)
 
ある人は、神なら、最初の人間アダムが罪を犯さないように造る事も出来たはずなのに、神が罪を犯す人間を造った事は失敗ではなかったのだろうかと考えます。では、そのことについて考えてみましょう。
 
神はなぜ人間を決して罪を犯さないように造らなかったのでしょうか。また、アダムは神に罪を犯さないようにすることはできなかったのでしょうか。
 
 
神が人間を神に対して決して罪を犯さないように造ることは、人間をロボットのように自由意志を持たないものとして造ることを意味しました。それは、人間が単に理性のない動物のように本能に従ってのみ生きることを意味していたでしょう。
 
 
動物は人間と異なって創造されました。動物は「本能的に賢い。」と述べられています。(箴言30:24) 動物は本能に従って行動するので、動物には、罪というものは存在しません。動物はただ本能に従って行動する時に、神のご意志にそって賢く行動します。
 
 
一方、人間はどのように造られたでしょうか。動物とは異なり、人間だけが、神の像に造られたと述べられています。人間が神の像に造られたというのは、人間には、神と同じような特質が与えられているという意味です。(創世記1:27)人間は、動物とは違って神のように自由意志を行使できる能力を与えられています。人間には、自由意志があるゆえに神に対して罪を犯す可能性があります。人間は、行動を自由に選択することができます。神を愛して神に従うこともできれば、神に聞き従わず神から独立することもできます。(申命記30:15〜19)
 
 
そして、自由意志を行使する助けとして、人間は、知識を習得し、その知識に基づいて思考力を働かせて判断し、結論を下し、その結論に基づいて行動する能力、理性が与えられています。聖書は動物には理性がなく、人間には理性が与えられていることを示しています。(ペテロ第二2:12。ローマ12:1)神に不従順を示すことによりもたらされる非常に悪い結果に関する知識は、人間が神に従う道を選択する助けとなります。(箴言1:4)
 
 
アダムは、善悪の知識の木の実を食べて神に対して罪を犯すならば、「それから食べる日にあなたは必ず死ぬからである。」という警告を与えられていました。(創世記2:17)死んでしまうという悲惨な結果は、アダムに神に不従順になって罪を犯さないようにさせるのに十分な警告であったはずです。アダムは思考力を働かせて、神に対して罪を犯さないようにすることができました。
 
 
また、単に知識だけでなく、愛や良心なども人間の行動に影響します。神は、何よりもまず愛の神です。(ヨハネ第一4:8)ですから、人間も愛を表わす能力も与えられています。聖書は「そのおきてを守り行なうこと,これがすなわち神への愛だからです。」と述べています。(ヨハネ第一5:3)また、「あなたは隣人を自分自身のように愛さねばならない。・・・愛は自分の隣人に対して悪を行ないません。」と述べられています。(ローマ13:9,10)ですから、人間は、基本的に神のおきてに従い、隣人を自分自身に対するのと同じように扱って愛を表わしたいという願いを持っています。
 
 
ですから、アダムは、神から与えられた自分の命、また美しいエデンの園という楽園、そこでの有意義で幸福な生活に対する感謝とそれらすべてを与えてくださった神に対する愛に動かされて、神のおきてに従いたいと感じて当然でした。
 
 
また、人間は、生来道徳感覚、良心を持っています。人間は、不完全になっていますから、そのような愛や良心は人間の心の中で弱くなっています。また、人間は、アダムから受け継いだ罪のために、現時点では、罪を犯しやすい傾向を持っています。(ローマ7:20〜23)けれども、愛を表わすことができない時、不完全な人間であっても幸福には感じません。
 
 
良心は、罪を犯す前に人間の心に警報を与えます。例えば、ヨセフは姦淫を犯すよう人妻から誘惑された時に、神に対し、女の夫に対し、悪行を犯さないように心に動かされました。ヨセフの良心が働いたと言えます。(創世記39:9) また良心は、罪を犯した後に人間に不快な気持ちや苦しみをもたらします。
 
 
人間は、神のおきてに従うことができない時また隣人を自分と同じように扱えない時、不快や苦しみを感じます。それは、人間に与えられた良心の働きです。(ローマ2:14,15) そうした良心を人間は神から与えられています。ですから、アダムはエバから神に不従順になるよう勧められた時、もし、アダムが神から示された愛ある親切を思い出していたなら、不快に感じて神に罪を犯さないように動かされる可能性もありました。
 
 
ですから、理性を賢明に働かせるなら、人間は、自由意志を行使ながら、愛や良心の助けによって神に対して罪を犯さないようにすることができます。最初の人間アダムが神に対して罪を犯したのは、神がアダムに与えられた自由意志をアダムが誤用したからです。
 
 
冒頭の聖句にあるように、普通親は、子供が自発的に賢く行動する時、心に喜びを感じます。同様に、エホバ神は人間が、ただ本能に従ってご自分に服するのではなく、理性を働かせて自発的に愛の気持ちからご自分に服することを望まれます。人間がそうする時、エホバに真の喜びをもたらします。また、そうする人間にも喜びがあります。
 
 
エホバはすべての被造物が自由意志を働かせて、ご自分に罪を犯さず、愛の気持ちから自発的に神に服する時が来ることを予見しておられます。(啓示5:13,14) 将来、地球は罪を犯さない神の崇拝者だけが住む所になります。人間は、苦痛を感じることなく、神に対する愛と従順を示すことができるようになります。それは、神の王国政府によって、人間の中から罪を犯しやすい傾向が取り除かれるからです。罪がなくなることに伴って死もなくなります。(啓示20:14;21:4)
 
 
そのようになる時、宇宙の中には真の平和と一致と喜びが存在するという結果になります。それゆえに、エホバが人間に自由意志を与えられたことは、決して神の失敗ではありませんでした。
 
 
神は、人間に理性を伴う自由意志を与えて、人間が最大限に生きる喜びを味わうことができるようにされました。人間は、自由意志を行使しながら、神と人を愛して永遠に生きられます。
 
 
 
 
追記
ソースネクストのセキュリティソフトを使っていますが、担当者によると、ウィンドウズが壊されているので、初期化をしなければならないということでした。それで、パソコンを買ったところでリカバリをしてもらわなければなりませんでした。お金と手間がかかりました。
 ウィンドウズが壊されていたのは、私のブログに反感を抱いている人による、攻撃だと思います。真のクリスチャンは反対を受けます。それは、私のブログで述べられていることが真実だからだと思います。
 
 
 

テモテ第一2章・エバはなぜ罪を犯したのか

 
「アダムは欺かれませんでしたが,女は全く欺かれて違犯に至ったのです。」(テモテ第一2:14)
 
 エデンの園で、エバはなぜ罪を犯してしまったのでしょうか。エバはアダムの次にエホバによって創造されました。エバは、最初から大人の女性として創造されました。それでも、エデンの園で罪を犯してしまった時に、判断力が欠けていたことが伺えるので、エバは比較的まだ若かったと考えられます。
 
エデンの園で、エバがひとりで善悪の知識の木の近くにいた時、蛇がエバに話しかけました。もちろん、蛇は人間と話をする知性を持ち合わせていません。聖書は蛇の背後に、悪魔サタンという邪悪で悪賢い霊者がいたことを示しています。(啓示12:9)
 
 悪魔サタンは、エバにこう言って話しかけました。「あなた方は園のすべての木からは食べてはならない,と神が言われたのは本当ですか。」(創世記3:1)悪魔サタンの言葉は、善悪の知識の木の実を食べてはならないことについて、それが拘束的であるとエバが不満に感じるように意図されていたと思われます。
 
エバは、蛇が話したことについて不思議だとは思わず、警戒しませんでした。エバは、若かったこともあり、思考力に欠けていました。
 
エバは、蛇の問いにこう答えました。「園の木の実をわたしたちは食べてよいのです。でも,園の真ん中にある木の実を[食べること]について,神は,『あなた方はそれから食べてはならない。いや,それに触れてもならない。あなた方が死ぬことのないためだ』と言われました」。(創世記3:2,3) エバは、アダムから聞いていることをそのまま答えたと考えられます。アダムはエホバが言われたことをそのままではなく、言おうとされたことの意味をエバに伝えたのかもしれません。
 
 それに対して蛇はエバにこう言いました。「あなた方は決して死ぬようなことはありません。その[木]から食べる日には,あなた方の目が必ず開け,あなた方が必ず神のようになって善悪を知るようになることを,神は知っているのです」。(創世記3:4,5)
 
善悪の知識の木の実を食べても、決して死ぬことがないと言った蛇の言葉は、偽りでした。また、善悪の知識の木の実を食べたら、神のようになって善悪を知ることができるようになるというのも、偽りでした。人間は、神のように善悪をわきまえる能力は生来持ち合わせていませんでした。また、人間が神のように善悪を判断できるのをそうさせないように神が人間を拘束しているというのも、神に関する中傷であり、偽りでした。
 
聖書は蛇の背後にいた悪魔について、「彼が偽りを語るときには,自分の性向のままに語ります。彼は偽り者であって,[偽り]の父だからです。」と述べています。(ヨハネ8:44)悪魔が、「偽り者」、「偽りの父」と呼ばれているように、宇宙の中で、一番初めに偽りを語ったのは、悪魔です。しかも、悪魔は、神聖な神エホバについての偽りを語りました。それで、悪魔の罪は他の誰の罪よりも大きいと言えます。
 
しかし、聖書の言葉は、エバが蛇の語った偽りを見抜けなかったことを示しています。聖書は、「へびがそのこうかつさによってエバをたぶらかした」と述べています。(コリント第二11:3)聖書は、さらに「女は全く欺かれて違反に至ったのです。」と説明しています。(テモテ第一2:14)エバは悪魔サタンの語った偽りをそのまま信じこみました。
 
ですから、善悪の知識の木の実を食べても、決して死ぬことがないと考えました。かえってその実を食べると、神のようになれると考えました。エバは神のようになって善悪を判断できるようになりたいと考えたに違いありません。エバの反応が例示しているように、女性は冷静な判断力に欠けている傾向があるでしょう。
 
聖書は、「そこで女は見て,その木が食物として良く,目に慕わしいものであるのを知った。たしかに,その木は眺めて好ましいものであった。」と説明しています。(創世記3:6)エバは、間違った思いを持ちながら、神が禁じられた木の実を眺め続けました。エバは神から禁じられたものに対して、欲望を抱き、それをはぐくみました。(ヤコブ1:14,15)
 
エバは、善悪の知識の木の実を食べたいという欲望をふりはらい、その木のあるところから、立ち去るべきでした。けれども、エバは蛇が話しても警戒せず、すっかり蛇の言葉を信じこんだので、蛇の誘惑に抵抗することができませんでした。
 
聖書は、「アダムは欺かれませんでした」と説明しています。ですから、アダムは、蛇の言葉が偽りであることを分かっていました。善悪の知識の木の実を食べても、神のように善悪を判断できるようになり、賢くなるわけではないことを分かっていました。また、その実を食べて神に不従順になると、最終的には、死んでしまうことを知っていました。
 
エバの罪は、神に対する罪でしたが、エバはアダムの頭の権も無視していました。なぜならその当時、アダムは、エバの頭また神の預言者として行動していました。その当時、エホバの言葉はアダムを通して与えられていたので、エバの行動は、エホバに対する罪であり、同時にアダムの言葉に対する不従順でもありました。
 
もし、エバがアダムに相談していたら、アダムは、おそらくエバに木の実を食べることについて警告を与え、正しい導きを与えることができたでしょう。そうすると、エバも罪を犯すことはなかったでしょう。しかし、エバはアダムに相談しませんでした。
 
結果として、「彼女はその実を取って食べはじめた。その後,共にいたときに夫にも与え,彼もそれを食べはじめた。」と聖書は説明しています。(創世記3:6)エバは、アダムに相談せずに、欺かれるままに、善悪の知識の木の実を食べました。エバがアダムに木の実を勧めた時に、アダムはエバを失わないためでしょう、神ではなく、エバに従いました。(創世記3:12。使徒5:29)
 
エホバから釈明を求められた時に、エバは言いました。「蛇です,それがわたしを欺いたので,そのためにわたしは食べたのです」。(創世記3:19)それで、善悪の知識の木の実を食べても、神のように善悪を判断できるようになるわけではないことを、エバはエデンの園で、木の実を食べた直後に分かったようです。
 
それで、エバが罪を犯したのは、蛇のうそに全く欺かれたからです。また、エバの罪は、神の預言者としてのアダムの頭の権に対する不敬でもありました。
 
 
創世記3章・アダムはなぜ罪を犯したのか」の記事もご覧ください。
 
 
 
 
 

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創世記3章・アダムはなぜ罪を犯したのか

 
「それで彼女はその実を取って食べはじめた。その後,共にいたときに夫にも与え,彼もそれを食べはじめた。」(創世記3:6)
 
アダムは、エバから善悪の知識の木の実を勧められた時に、受け取って食べました。(創世記3:6)アダムは、エバから善悪の知識の木の実を勧められた時に、それを退けて神に対して罪を犯さないようにすることはできなかったのでしょうか。アダムは、そもそもなぜ罪を犯したのでしょうか。人間は、誘惑や試練を受けると神の律法に従うことができないのでしょうか。
 
聖書は人間が神の像に創造されていることを示しています。(創世記1:27)それは、人間が神の内面的な特性を与えられているということを意味します。神の主要な特質は愛です。(ヨハネ第一4:8)ですから、当然アダムにも愛という特質が与えられました。聖書は、「そのおきてを守り行なうこと,これがすなわち神への愛だからです。」と述べています。(ヨハネ第一5:3)ですから、アダムの神に対する愛はなによりも、神のおきてに従うことによって表すことができました。
 
聖書は神が人間の心に良心という機能も与えたことを示しています。「律法の内容がその心に書かれている」と述べられており、人間は、神のおきての基本的な原則に従いたいという願いを生来持っています。(ローマ2:15)そのことは、諸国家が聖書を知らなくても、殺人や偽り、姦淫、親への不従順などを非とする原則を自然に自国の法律の中に反映させていることから分かります。
 
神から与えられている良心のゆえに、人間は悪行に誘われた時、それを不快に思う気持ちが生じます。例えば、ヨセフは人妻から姦淫に誘われた時、神と女の夫に対して悪行を犯して罪を犯さないように動かされました。(創世記39:9)姦淫を悪行とする条文は、その当時まだありませんでした。しかし、ヨセフは、結婚の取り決めは、神によって始まったというという聖書の記述を知っていたでしょう。それで、ヨセフは、自然に姦淫は神に対する悪行であると感じて退けました。ヨセフは、良心に動かされていました。
 
ですから、エバから善悪の知識の木の実を食べるように勧められた時、アダムも、良心に動かされて不快に感じたはずです。(ローマ2:15)アダムはその時、エホバ神から与えられていたものすべてに対する感謝に基づいて神に愛を表わし、神に不従順になって神を不快にさせたくないと良心に従って考えることもできました。そのようにしてポテパルの妻に誘惑された時のヨセフのように神への愛や感謝や良心に基づいて行動することもできました。そのようにしていたなら、アダムも神に対して罪を犯すことはなかったはずです。
 
しかし、アダムは、罪を犯した後、「わたしと一緒にいるようにと与えてくださった女、その女がその木から実をくれたので、わたしは食べました。」とエホバに説明しています。(創世記3:12)ですから、アダムが罪を犯したのは、仲間の圧力でした。唯一の仲間であったエバが神に不従順になりました。アダムは神に従うのではなく、仲間のエバに従いました。
 
アダムは、エバと一緒にいたいと思っていたのでしょう。そして、おそらく、アダムは、神に従って、木の実を食べないでいれば、罪を犯してしまったエバと一緒にいることができなくなると考えたのでしょう。アダムは、エバと一緒にいるようにしたいという欲望を神への愛や従順や良心よりも優先させたと考えられます。
 
私たちは仲間の人間が神に不従順な時、しかも仲間の人間の多くがそうである時、神に従うのは、難しくなります。聖書は「よこしまな事柄のために群衆に従ってはならない。」と述べています。(出エジプト23:2)私たちは仲間の人間の多くに従いたいという願いをもっているでしょう。しかし、アダムはよこしまな事柄のためにエバに従いました。アダムは、その当時唯一の仲間の人間であるエバが神に不従順になって、独りになっても神に従うべきでした。
 
申命記32章5節にある「彼らは自ら滅びとなることを行なった。彼らはその子供ではない。その欠陥は彼ら自らのもの。」という言葉は、アダムにも当てはまるでしょう。アダムは、神の子供として神への愛に基づいて行動しませんでした。その欠陥は、アダム自身のものです。自由意志を与えられた人間として、アダムはその自由意志の行使の仕方に責任がありました。アダムが罪を犯したのは、自由意志の誤用であり、アダムはヨセフのように健全な仕方で思考力を働かせませんでした。
 
人間は、自由意志を用いて、たとえ誘惑や試練にさらされても、罪を犯さないようにすることができます。ヨセフが、人妻に勧められても、悪行を退けたことは、不完全な人間であっても、神の律法に不従順にならせようとする仲間の圧力に抗することができることを示しています。そのことは、また、歴史を通して、誘惑や試練のもとで神に忠実を保った大勢の人が証明しています。またイエスは、どんな苦しみを受けても完全な人間が全く罪を犯さないようにすることができることの完全な証明となっています。(ペテロ第一2:22)
 
アダムは、エバから善悪の知識の木の実を食べるように勧められた時に、アダムは、神ではなく、人間に従いました。(使徒5:29)けれども、不完全な人間であっても、誘惑や試練を受けても、支配者として人間よりも神に従い、神の律法に従う人がいます。
 
聖書の預言によると、基本的に神に対して罪を犯すことのない天と地上におけるエホバの崇拝者からなる世界が将来実現する時がきます。(啓示21:1,3)それは、神の王国が千年間支配した後の時のことです。その時、地球と人間に対する神の目的が完全に成功します。人間は永遠に神に対して罪を犯すことなく、神に愛と感謝を表わすことができるようになります。(ヨハネ17:3)
 

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