並外れた統率力志々雄真実といえば、もちろん単純に剣客としての「強さ」もあるとは思いますが、真の脅威はやはりあの十本刀をまとめあげる統率力にあったのだろうということはいわずもがなです。あれほど一癖も二癖もある十本刀を従わせるには並大抵のカリスマ賄えるものではありません。
そこで今回は、明治政府に焼き殺されそうになってからの彼がいかにして裸一文から戦艦煉獄まで手に入れ大勢の部下を従え明治政府掌握までの布陣を敷いて行ったのか、その華麗なる人心掌握術について読み解いていきたいと思います。
「俺の次に強くなれるさ」 他を寄せ付けない絶対的自己優位主義の徹底これは、まだ火傷の傷がいえない志々雄がのちに十本刀の右腕となる瀬田宗次郎の素養を見出し、仲間に引き入れた際に宗次郎から「僕、強くなれるかな」と問われたときの台詞です。まだ当時8歳だった、しかも剣客でもなんでもないただの米問屋の養子にすぎなかった宗次郎をスカウトしたのですからそれだけでも宗次郎の天賦の才の片鱗をいかに志々雄が確信していたかは推して測るべきです。
実際、あの若さでめきめきと実力をつけ、しかも感情欠落者(=動きが先読みできない)というスペックつきです。
正直なところ、本気で闘り合ったら志々雄より強いのでは?と考えた読者は私だけではないはずです。
しかし志々雄は決して「自分と同じくらい、いやそれ以上に強くなれる」とは言いません。
あくまでも、自分を超えることはない前提での台詞なのです。
これは宗次郎に限らず、たとえば蒼紫勧誘時にもおんなじようなことがありました。
蒼紫とはあくまでも「同盟」を結ぶだけであり、仲間に引き入れたいわけじゃないと説明する志々雄でしたがその際、「人には各々性分に沿った”生き様”ってヤツがある」「たとえば人の上に立つ者」(といって自身を指さす)、「それに付き従う者」「そして誰とも相容れず孤高に生きる者」(と言って蒼紫に目線を移す)というししおの台詞があるのですが、これだって、蒼紫は決して「だれとも相容れない」人材なわけではなく、ましてや「人の上に立つ」素養がないわけでは決してないのです。
現に、つい最近まで蒼紫だってあの江戸城を守り抜いた隠密御庭番衆を束ねる御頭を勤め上げていたのですし…
で、もちろん志々雄自身、そんなことは百も承知の上でのあの台詞だったことに疑いの余地はありません。
それが意味するものはただひとつ――決して相手を自分より優位に立たせないため(もしくは「超えられるかもしれない」という幻想を抱かせないため)なのでしょう。
この、ある意味潔癖とさえ思えるほどの自分最上位思考はしかし、トップにたつ者として大事な素養なのかなと思います。
「実際のところどうなのか」ということはこの際、結構どちらでもいいのです。
つまり、ひょっとしたら、志々雄よりも蒼紫の方が上に立つ素養は上なのかもしれないですし、宗次郎の方が「強い」のかもしれません。
ただ、いずれもみなそんなことは疑いもしません。
あの蒼紫にしたって、志々雄に対して決して良い感情は抱いてないにしても、同盟の話についていえば志々雄に同意した時点で必然的に志々雄を認め受け入れたということに他なりません。
人間だれしも、「上に行きたい」という向上心を持ち合わせている一方で、手放しに傾倒でき見上げることができる「越えられない存在」というものを求めてやまない生き物です。
そんな崇拝本能ともいうべきものを常に満たしてくれる存在こそがまさに、志々雄のような「上に立つべき人物」ということであるのかもしれません。
「いや極悪人だぜ」 自身の存在を「悪」と言い切る「悪の組織」のトップ出会ったばかりの宗次郎に「悪い人なの?」と聞かれたときの台詞です。厳密に再現すると、「(おじさんは)悪い人なの?」「悪いのは明治政府さ。おれを焼き殺そうとしやがった」「じゃあいい人なの?」「いや極悪人だぜ」という感じの流れだったと思います。
組織のトップ、特に「悪」の組織の頂点に立つ者が「悪役になりたがらない」性質だったとしたらそれに付き従う者もまた、「正義」と「悪」の間で揺れ動いてしまうことは必至です。
ましてや、あの時代の「大正義」である明治政府に対して反旗を翻すべく集まった組織なんですから、たとえどれほど「明治政府をつぶして自分たちの理想国家を作り上げることが正義だ」という強い志を持っていたとしても、心のどこかで「悪に手を染める」マイノリティ側である自身の孤独感というものは芽生えるものであると私は思います。
そんなときにその悪の組織のトップがもし少しでも「偽善的」な言葉を口にしたりしたらどうなるでしょう。
その時点で、組織の目的のための手段として人を傷つけ、殺め、あるいは武器商人から不法に武器を手に入れるような悪に手を染めてきた前線部隊の中には「悪」と「良心」の狭間で立ち往生する者も出てきてしまうことは自明なのであります。
悪の組織のトップはいつだって私心を持ちあわせることなく「極悪人(マイノリティな存在)」でありつづけるべきであり、そうでなければたちまち悪の組織というものは遠からず瓦解するものなのであるのかなって思います。
日本掌握計画の要ともなる優秀な外様参謀・佐渡島方治を傾倒させるに至る志々雄の鮮やかな手腕のプロセスを追う同じ志々雄の腹心中の腹心である瀬田宗次郎や夜伽役の駒形由美とは違い、志々雄の配下につく前には明治政府の官僚を務めていた方治。いわゆる、外様的な人材ともいえます。
ですので、ある程度の忠誠を誓わせることはできても宗次郎に対して行ったような「刷り込み」は容易ではなく、やはり100%自分色に染め上げることは、少なくとも京都編初期ごろの段階では、さすがの志々雄も実現できていなかったように見受けられます。
現に蒼紫と同盟を結ぶことになった際、方冶だけは「あのように人間が壊れた者を」と危惧する様子を見せます。
この時点で方冶には、列強国と渡り合える強靭な日本を創るためには志々雄真実を置いてほかにいないという確信と信頼はあれど、志々雄の修羅の部分に関してはいまいち染まりきれてはいなかったようです。
これが方冶ではなく他のモブ配下であれば、それでも充分ではあるのですが…なんといっても方冶は今後ししおの日本掌握の野望を遂行するにあたって欠かせない唯一無二の優秀な参謀です。
武器商人の間を駆けずり回って戦艦煉獄を手配したその手腕だけでも、いかに方冶がずば抜けて優秀な参謀なのかは推して測るべきです。
「忠誠を誓わせる」だけではなく、それこそ宗次郎のように身体の髄まで志々雄真実カラーに染まってもらわねばなりません。
さて、そこで志々雄が行ったのが方冶への「炎の洗礼」です。
志々雄より唐突に「地獄を信じるクチか?」と問われ、「人間は死ねばただ土に還るだけ」であるという、しごく合理的な理論で返答した方冶。
しかしそんな方冶に志々雄は、「俺は地獄とやらを信じている」とカミングアウトした上で明治政府に焼かれ体温調整が効かなくなった手のひらを方冶の顔にかざします。
そして、志々雄独自の「地獄実在論」をこんこんと説くのです。
そのパフォーマンスは、官僚時代に倭少な明治政府に嫌気がさして野に下ったという方冶の心に火をつけます。
そして、やはり新しい日本を担うべきはこの志々雄しかいないと、改めて感銘を受けます。
いち参謀だった方冶が、志々雄の修羅道に本格的に足を踏み入れる覚悟が芽生えた瞬間でもありました。
現に、洗礼を受けてのちの方冶はこれまで以上にめきめきとした働きを見せていきます。
東京砲撃作戦が失敗し囮作戦に使った十本刀からの不信を買いそうになったときも、方冶の機転により何とか丸く収まります。
その際も、志々雄は方冶へのねぎらいを忘れません。
「以後、汚れ役はすべてまかせる」
「ただしお前にはいの一番に勝利をあじわわせてやる」
「この俺のかたわらでな」
この人についていくと心に決めたリーダーである志々雄の完全勝利のためならば、自分は「蛇蝎」になることも厭わないというその決意をしっかりと受け止めてもらえた方冶。
官僚時代、心から崇拝し自分の手腕を存分に尽くしたいと思えるリーダー不在のまま空虚を抱えていた方冶にとって、これほどまでにありがたい言葉はあるのでしょうか。
かくして彼は十本刀を含め組織がことごとく瓦解する中、唯一、最終決戦まで志々雄のそばにつきその壮絶な最期を見届ける生き証人となるのです。
(なお最終的には公の場でししおの目指した理想国家論を語る機会を一切与えられないばかりか、敵側であったはずの自分を引き込み、その能力を活用しようと目論む明治政府に絶望し、牢獄の中で自決します)
いち剣客としての志々雄はあくまでも孤独な存在さて、並々ならぬ人心掌握術によって華麗に配下たちの心を虜にしてきた志々雄ですが、あくまでもいち剣客としては最後まで孤独な存在であったように感じます。最終決戦時、志々雄に「完全勝利」の実現のための奇襲作戦を打診する方冶でしたが、その際方冶は剣心のことを「所詮はあの男もたかが”剣客”」と揶揄し、だからこそこちらも堂々と「剣客同士」の決闘に持ち込んでくるだろうと高をくくってくるだろうからその隙をついて一気に葵屋を攻め落とすべきであるということを滔々と語ります。
しかも、その「剣客」的には唾棄すべき奇襲作戦を傍らで聞いた腹心の宗次郎までもが「なるほど!」と合いの手を打つ始末です。
この点、剣客としての志々雄は剣心と比べてもいかに満たされない存在であるかが推して測ることができます。
一方の剣心は、敵側である元新選組三番隊組長である斎藤とは因縁の仲とはいえ、互いに剣客としてはシンパシーを感じる部分があるということは明言しておりましたし、そういった敵味方を超越した「剣客」としての絆みたいなものを共有できる人物が志々雄のまわりにはなく、ある意味、最大の敵である剣心サイドにそれを求めてしまう側面もなきにしもあらずでした。
その心のうちばかりは、たとえ腹心である宗次郎や方冶にも計り知れない部分であり、しかし野望を達成するため優先すべきは剣客としての我を通すことではなく今の仲間と共に完全勝利への道筋を牽引することが志々雄真実の最大のプライオリティであった以上、その孤独もまた仕方のないことなのかもしれません。
圧倒的カリスマ性で大勢の配下を傾倒させ、あらゆるものを手に入れてきた志々雄ですが、剣客としては終始満たされることのない、寄る辺無き存在でもあったのかなとふと思ったりもしました。
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るろうに剣心
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コメント(4)
■維新のさきがけ世代幕末から明治維新へと、時代が移りゆく時期に、その渦中にいた年代のひとたち。
・新井赤空
・斎藤一
・四ノ森蒼紫
・雪代巴
・緋村剣心
・志々雄真実
etc
■焼け跡世代幕末→明治の混乱期に幼少時代を迎え、自分ではまだ生き方を選択できるほど大人ではなく、時代の渦に運命を翻弄されがちだった年代のひとたち。
・高荷恵
・雪代縁
・相楽左之助
・瀬田宗次郎
・神谷薫
・巻町操
etc
■夜明け世代黎明期に生まれ落ちた世代。
るろ剣の舞台である、明治10年に思春期を迎え、これからの明治を担っていくべき世代のひとたち。
・明神弥彦
・塚山由太郎
・三条燕
・三島栄次
etc
剣心をさきがけor焼け跡、どちらの世代に入れるかは若干迷いましたが、当時は、15歳で元服(=大人の仲間入り)って考えれば、ギリ、さきがけ世代チームになってしまうのかなと考え、そちらに加えました。
このさい、ネーミングセンスの悪さには目をつむっていただけると幸いです…
で、私が今回とりわけ語りたいのは焼け跡世代のひとたちのことなのですが、
この焼け跡世代のひとたちは、ほかの世代のひとたちと比べても、ことにヘヴィで理不尽な人生を歩んでいるような気がします。
特に、会津戦争の最中に行方不明となった家族の消息を探るため上京するも武田観柳にその才能を悪用され、観柳の監禁の下で阿片を作らされる羽目になった恵さんや、
師と仰ぎ尊敬していた相楽隊長率いる赤報隊が明治政府に「偽官軍」として汚名を着せられ抹殺されたことで政府を憎み続け、子供心に「悪一文字」を背負う覚悟をした左之助や、
異母兄の米問屋一家からひどい虐待を受けた結果、殺されかけ喜怒哀楽の楽以外の感情を封印し修羅に落ちた宗次郎や、
姉を失った悲しみが癒えないまま剣心への復讐心のみを支えに明治の時代を生きた雪代縁など――
まだ「自己責任」などというものが課せられるほど大人ではなく、ただただめまぐるしく変革する激動の時代において、様々な犠牲を強いられ大人たちの都合に振り回され、それでも各々の悲惨な運命に向き合い、抗い、あるいは必死で目を背けながらも辛い幼少時代を生き抜いてきた世代といった、そんな印象を受けます。
時代はとっくに夜明けを迎えているというのに、彼らは未だ薄暗い地の底から這い上がれず、幼少期のトラウマやツケを清算できないままそれぞれに多かれ少なかれ、空虚を抱え、生きていたのです。
左之助が、明治政府を憎み、「悪一文字」を背負い続ける気持ちや、
感情を封印し、他人の痛みも自身の心の傷もシャットダウンしたまま罪を重ね続けた宗次郎の振る舞いや、
復讐にとりつかれた縁の執念などは、
正直、共感できなくはないですし、もし自分だったらと思うと、おそらくおんなじようなふうになってしまっていたのかもっていうのは、なんとなく想像できてしまうのですが、
ただ、恵さんに関しては、とうてい、自分がその立場だったらおんなじようには振る舞えないだろうなというのが私の所感です。
恵さんというひとは、観柳のもとで阿片を作り続けていたのですが、その真意は、他にその精製方法を知るものがないが故に彼女なりに、被害を最小限に抑えることにあり、
罪をあえて投げ出さず、たとえ自分の手を汚してでも一人で背負い込もうとするひとでした。
よほどの強い気持ちがないと、到底、続けられることではないと思います。
自分の理不尽すぎる運命に絶望して自暴自棄になってしまうでもなく、また観柳に洗脳され修羅に落ちてしまうでもなく、
自分が今できることを、極限の選択肢の中で冷静に判断し、希望を捨てずに精一杯こなしていった恵さんは、同世代の「焼け跡世代」の中でもひと味もふた味も違うなあって、そんな風に思いました。
そして、そんな恵さんの、強くも孤独な生き様を見抜き、優しく手を差し伸べた剣心。
そういえば剣心は、恵さんのみならず、自分と剣を交えた左之助や宗次郎、縁にもそれぞれ、手を差し伸べているんですよね。
また蒼紫のことで思いつめていた操ちゃんの心を救ったのも剣心でした。
剣心は「焼け跡世代」にとってのヒーリングパーソンなのかもしれません。
そして、そんな剣心を癒したのが同じく「焼け跡世代」の薫ちゃんなのですよね。
焼け跡世代の中でも、唯一、過去編というのがない薫ちゃん。
彼女なりに苦労はしてきているはずなのでしょうが、あまりそうした描写もなく…
そんな薫ちゃんの、「私は過去にはこだわらない」という言葉が剣心を心から癒し、救ったのです。
剣心という存在は、時代に振り回されあるいは理不尽に虐げられ、明治の世にあってもなお、奈落の底で膝を抱えてうずくまっていた「焼け跡世代」たちのヒーリングパーソンであったわけですが、
同時に、そんな剣心にとってのヒーリングパーソンもまた焼け跡世代の薫ちゃんであったということは、何やら感慨深い気がしなくもなかったりします。
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こんばんわじマニア
yukuです☆彡
おひさしBLEACHですーーー(>∀<)
封切り以来、絶好調の
映画『るろうに剣心』ですが、
はたして「続編」はあるのか
あるとすれば
どういった展開になるのか
気が早いかもですが
ファンとしてはウズウズ
気になるところなのであります(>∀<)//
まあ順当に考えれば
続編=京都編
で決まりっしょー(´∀` )
と、期待に胸をふくらませてはみるものの
じつは、続編として京都編を持ってくるのには
大きなハードルがなきにしもあらず
だったりするのですよね。
こっからは、ネタバレになりますので
今回の映画『るろうに剣心』未鑑賞の方は
お気を付けください(´Д` )
今回の映画『るろうに剣心』
どうやら、季節は明治11年・夏まっさかりの
ストーリーだったように思われます。
具体的に何月とは描写されてませんでしたが
すでにセミが鳴いてたりしましたし・・・
ここが、剣心と薫ちゃんが出会ってから京都編までが、
春頃〜初夏だった原作との相違点の一つになります。
・・・・・・いやいやいやいや
季節なんて春でも夏でも
どっちでもえーやん
と思われるでしょうが。。。
しかし、もし続編を京都編に持っていくのだとすれば
この違いは大きなポイントになるのです。
なぜなら、思い出して欲しいのですが
そもそも、剣心が志々雄真実を斬るべく
京都に向かったキッカケといえば、
大久保利通が大きく関わってきていましたよね。
最初は、大久保卿直々の懇願にも
首を縦にふらず、考える猶予が欲しいと
返答を保留にしていた剣心でしたが
来たる明治11年5月14日、
大久保卿は、剣心の返答を待たずして
志々雄の配下の者(瀬田宗次郎)によって
紀尾井坂にて、秘密裏に暗殺され、
そのまま帰らぬひととなります。
なお、史実としては、実行犯は、
石川県士族島田一郎率いる不平士族6名
ということになっております。
いわゆる「紀尾井坂の変」です。
はい、つまり、原作版の
京都編導入におけるキーマンとなる、
大久保利通という人物は
明治11年5月14日に殺されてしまっているわけで、
すでに明治11年夏だった映画版では、
あの続きに、京都編を持ってくるのは
かなり無理があるということなのです。
とはいえ、
すでに斎藤一まで登場させてしまっていた映画版
いくつかの改変で、京都編に持っていくことは
不可能ではないとは思います。
キーマンを大久保卿以外の人物に持ってくれば・・・
たとえば、今回の映画『るろうに剣心』でも
少しだけ登場していた山形有朋などが
原作での大久保卿の役(剣心のスカウト役)をやるとして。。。
うん、それだったらまあ
映画続編の世界が
明治11年5月14日を過ぎていたとしても
つじつまは合うかな。
ただし、紀尾井坂にて
瀬田宗次郎が大久保卿を鮮やかに暗殺し
そのことがキッカケで、
剣心の京都行きへの心が決まったという
あの一連のエピソードは恐らくまるまる
カットされてしまうのは必至ですので
まあ、そのあとに続く、剣心と宗次郎の因縁やらは
薄まってしまいますね。。。
そしてなにより、維新三傑の最後の1人である大久保卿が
暗殺され、迷走の時代が再び始まるであろうということと
うまくリンクしていた
「時代は再び流れ始めた」
「とどまることは許されない」
という剣心の独白も、かなり説得力が弱まり、
うーん・・・けっこう残念な感じにはなりますね。
で、思ったのですが、
もし、続編(あるとして)に、京都編を持ってくるという構想が
映画スタッフさんたちのあいだで少しでもあったのならば、
やはり、最大のキーマンである大久保卿の登場を
みすみす削るなんてこと、するかなあ・・・っていう風に考えると、
続編に京都編をやるつもりが
そもそも映画スタッフ側にはなかったのではないのか?
とも思ってしまったりするのですよねー。
yukuとしては個人的には
続編=京都編を観るのは、悲願でもあるのですが
大久保卿の出ない京都編・・・となると
ちょっとあんまり期待できなかったりもしたりなのです。。。
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こんにちわ
yukuです。
るろうに剣心という作品の魅力を語る際、なんといっても主人公である緋村剣心の
たぐいまれなる優しい人となりは、やはり外せません。
優しくって、しかも強いとか、もう最高です。
骨抜きというやつです。
そこで、yukuが個人的に癒された、ヒーリング効果抜群の、剣心癒しの台詞を厳選チョイスで挙げてみましたーーー。
共感頂ければ幸いです
■厳選・剣心癒しの台詞 其の1
「剣は凶器、剣術は殺人術、
どんな綺麗事やお題目を並べてもそれが真実。
けれども拙者そんな真実よりも薫殿の言う戯れ言の方が
好きでござるよ」
所感
「好きでござるよ」ときましたよ!
薫殿に対する掴みはバッチリでござるバッチリでござる★☆
これは、剣心が薫ちゃんと出会って間もないころ、卑劣な手段で、道場乗っ取りを画策する比留間兄弟に追い詰められ、まさに大ピンチの薫ちゃんが、それでもお父上の残してくれた神谷活心流の理である「人を活かす剣」の実現を信じ抜き、力の差を見せつけられながらも最後まで悪に屈せず立ち向かわんとしていた矢先、助けに駆け付けた剣心が、比留間から「お前も人を活かす剣などとほざく口か?」と問われ、放った台詞。
やー、あの優しい笑顔には初っ端からやられましたーー。
■厳選・剣心癒しの台詞 其の2
「1度や2度の戦いで真実の答が出るくらいなら
誰も生き方を間違ったりはせん。
人1人の人生はそんなに簡単なものではござらんよ。 真実の答は、これからお主自身が自分の生き方の中から 見出すでござるよ・・・」
所感
激戦ののち、見事打ち負かした宗次郎から、「正しいのは緋村さんの方だった。そうですよね」と問いかけられたときに、剣心が放った言葉。
宗次郎といえば、幼い時に虐待され、志々雄からもらった「強ければ生き、弱ければ死ぬ」という言葉に助けられ、それをそっくり自分の摂理として後生大事に持っていました。
めちゃめちゃ強くて、しかも「楽」以外の感情が欠落しているといういわゆる「感情欠落者」ゆえに、人を殺めることを何とも思わない、容赦ない敵キャラだったのですが、その実、「人の痛み」に誰より感じやすく、本当は人を傷つけることなどできない優しく感受性豊かな心の持ち主だったのでした。
なので、押し殺した感情の奥底では、自分が傷つけ殺めてしまった人たちのことを、ずっとずっと後悔していて、癒えない心の傷を負ったまま、剣心とも剣を交え、そこで見事、剣心はそんな宗次郎の「心の傷」を見抜き、あのような厳しくも優しい言葉をかけたのでした。
■厳選・剣心癒しの台詞 其の3
「蒼紫の安息の地は死ではござらん。
安息の地はここにある。蒼紫は拙者が必ずここに連れて帰る」
所感
覚悟は決めていたはずなのに、いざその局面になったとき、激しく心のうちで動揺する操ちゃん。
(蒼紫様を――殺すの?緋村・・・)
と心配げに剣心の方に視線を泳がせる操ちゃんに、剣心はしかし、ふっと表情を緩め、そして放った台詞がこれです。
薫ちゃん・弥彦はもとより、京都御庭番衆の仲間ですら、皆が皆、修羅と化した蒼紫は抹殺するしか道はないと諦めていたところへ、剣心が下した思いもかけないこの判断は、それまでめいっぱい自分の運命を受け止めんと健気に戦っていた、16歳の操ちゃんの極限まで張り詰めた心を優しく優しく溶かしたのでした。
■厳選・剣心癒しの台詞 其の4
「医者になるでござるよ、恵殿」
所感
自らが精製に携わった阿片のせいで、多くの尊い命が失われた。
その罪の意識に苛まれ、自らの命を絶とうとする恵さんへ剣心が放った台詞。
恵さんといえば、阿片の被害を最小限にするために、あえて阿片作りを投げ出さず、ひとりで罪を抱え込んでいました。
そんな恵さんに、「阿片女」と言い放った佐之助をはじめ、周囲の目は冷たく降り注いでました。
しかし、そんな恵さんの孤独な正義を唯一見抜き、その凍てついた心に触れ、生きる希望と目標を与えた剣心は恵さんにとってはかけがえのない人生の恩人なのです。
うーん・・・
yukuも剣さんに優しく人生を諭されたいっす
|
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こんにちわ
yukuです。
『るろうに剣心』実写版映画を観にいってきましたーー
やー、やはりなんやかやいっても漫画の実写化はイイですね^^♪
原作の、名シーン・名台詞諸々も
存分に採用されており、
原作ファンにも嬉しい仕上がりだったかとおもいます。
映画をみるのんに、ポップコーンとコーラの「ペアセット」を注文しました。
ひさしぶりの映画館だったので、テンションあがりました
とゆうわけで、以下、
ネタバレ含む感想です☆
↓
↓
↓
*明治維新より10年、建前と実情、若しくは理想と現実の狭間で
迷走する世界観や内情を、すごく巧みに描写されており、
その点ではかなり満足度が高かったです。
*原作の「いいとこどり」がギュっと詰め込まれてて
原作ファンとしては嬉しい反面、詰め込み過ぎ感は否めませんでした
*薫ちゃんと恵さんのキャラデザ(←映画ではなんていうんだろう)が
若干被り気味なのが気になりました。
お二人とも前髪パッツンだし、
声も高音でしたので、も少し、どうにかならなかったのかなあって
思いました。
どちらかが低音ハスキーな声で演技できなかったのかな。
まあお二人とも可憐でカワイかったですが、
メイン女子キャラが2人しかいないのに2人とも可憐系だったので・・・
*他のキャラに関しては、みなさん味が出ててヨカッタです^^
*yukuのだいすきな原作シーンのひとつに
恵さんが自ら観柳邸に赴き、門番のひとに
「観柳に伝えなさいな。高荷恵が戻ったってね」
的な台詞をいうシーンがあるのですが、
あれは、やってほしかったなあ・・とかって、
個人的な感想です。
*おにぎりほおばってた、観柳邸の士族崩れの山賊的なひとたち、
さいごは警察につかまってて可哀想でした。
同じように「生きるために仕方なく」悪事に手を染めた恵さんは
警察に捕まってなかったのにな。
*ウサギ
*左之助がいつの間にか仲間になってました^^;
原作ファンとしては彼らが仲間になる経緯が
すっ飛ばされていたのはかなり残念です。
(左之助のくだりはまあ尺的に仕方ないにしても
せめて、恵さんと剣心のくだりはもう少しちゃんとやっても
よかったんじゃないのかなあって思いました)
*剣心役の佐藤健さんが素敵でしたー
とくに笑顔がすごくヨカッタです(>∀<)
*なにげに弥彦役の子、上手かったです^^
あんまり目立ってなかったですが・・・。
*薫ちゃんが心の一方術を、刃衛にかけられたとき、
yukuもいっしょに息を止めてみました。
(どれほど苦しいのかなあって思って)
でも、すぐに続かなくなり、とうてい無理でしたm(__)m
おんなじようなことやったひといます^^??
(注:よいこはマネしないでネ)
*あと、どーでもいいことかもですが、映画版の季節は
初夏〜真夏あたりだったのかな。
(蝉がめちゃ鳴いてたし)
もし続編を京都編に持って行くのであれば
5月14日の紀尾井坂事件と絡められないですよね。。。
まあ続編があれば・・・のおはなしですが^^;
◆まとめ◆
原作の名シーンや、名台詞が
ふんだんに詰め込まれていて、
その点では、原作と比べても遜色ない
カッコイイ映画でしたが、
彼らの友情だったり恋心だったりの絆の描写に関しては
あまりにもエピソードが端折られすぎており、
そこがなんとも惜しかったです。
アクション時代劇として観るのであれば
すごくすごく楽しめました
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