「独飛第十三防空隊」工作科作業日報

永遠の模型少年(笑)のチラシの裏的製作日記

史跡&ロケ地へGO!

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その四 播州赤穂

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JR播州赤穂駅より「お城通り」を、南に徒歩20分程で大手門に到着します。
「お城通り」は、通りに面した建物を白壁作りの昔風の建物に統一中で、
完了すれば「如何にも城下町的風情」で、お城散策の気分もより盛り上がりそうです。
赤穂城は周囲3kmの海岸に臨み、城内には10の櫓と12の門を配し、往時は直接
海に舟を出せる「海平城」でした。現在、本丸以外にも二の丸、三の丸でも発掘調査中で、
復元作業も平行して行われる予定とか。完成すれば、此処も時代劇の格好なロケ地となりそうです。
街中の雰囲気も如何にも城下町の雰囲気で、結構お気に入りの場所ですので都合3回訪れましたが、
家族旅行の為、(人物写真が多く)ネットに掲載できる「赤穂城」の画像がありません。ご容赦を・・。

ちなみに赤穂浅野家(5万3千石)は3代55年間で廃絶しましたが、その後永井直敬(3万3千石)を経て
入封した森家(2万石)は、森長直より12代森忠義まで161年間続きました
(森家の領地変遷:美作津山18万6千5百石→備中西江原2万石→播磨国赤穂2万石)


赤穂城といえば、「赤穂浪士!」ですが、事件の発端となった浅野内匠頭長矩と吉良上野介義央について私見を少々。
(例によって、一歴史ファンが予断と勝手な思い込みにより書いた文章の為、事実誤認がありましてもご容赦願います。)
 
【浅野内匠頭長矩】
 映画・TVなどでは、売り出し中の「二枚目俳優」の登竜門的存在の役どころで、悲劇の名君と言った体ですが、
実際のところは、癇癪持ちで感情が激した時に胸が苦しくなる「痞(つかえ)」という持病があり、政治については
無頓着で酒に耽るだらしない性格であったとの記述が残っております。反面、「大名火消し」には非常に熱心で、
家来の迷惑を顧みず頻繁に消火訓練したとも伝えられ、この分野では精勤が認められ何度もお役についております。
 余談ではありますが、長矩の母方の叔父にあたる内藤和泉守忠勝が、延宝8年(1680年)徳川家綱葬儀中の
増上寺に於いて、永井信濃守尚長に対して刃傷に及び切腹となっております。
外様の分家5万石に過ぎない身代にも関わらず、祖父の代に赤穂城を幕府に懇願してまで築城したため、
赤穂藩の財政は逼迫し、それは内匠頭の代にも持ち越され、年貢の取立ては苛烈を極め、当時の赤穂浅野家の
領地での評判は極めて悪かった様で、浅野家断絶を知った領民は餅を搗いて祝ったという記録も存在 します。

【吉良上野介義央】
扇谷上杉氏の血をひき高家筆頭となれば、石高4千2百石ながら官位は「従四位下」、一般的な国持ち大名が
「従五位下」辺りですから、家格で言えば大名並以上であったと云えます。
 事実、妻は出羽米沢藩主・上杉綱勝の妹(三姫)ですし、長男三之助は上杉家と養子縁組(のちの上杉綱憲)、
長女鶴姫は薩摩藩主・島津綱貴の室(後、離縁)となっており、常々田舎大名何するものぞと言う感覚はあったはずです。
 「松の廊下事件」の3年前に勅使ご馳走役を勤めた津和野藩藩主亀井玆親も、賄賂(付け届け・指導料?)の額が
少なく、吉良上野介に相当に苛められ刃傷による意趣返しを考えていた所、慌てて家老が賄賂の上積みをすると
手のひらを返す様に扱いが変わったと言う話も伝わってますので、上野介が賄賂の金額によって、態度が変わる
人物であったことは間違いありません。
 義央の偉業とされる「黄金堤」にしても近隣諸領に対しては、結構姑息な手段を取ってますし、結構喰えない
狸親父っぽい印象があります。
 しかしながら、知行地であった三河国幡豆郡・吉良庄(現・吉良町)辺りでは、仁政をひいた名君であると未だに
慕われて居ります。史実では生涯一度しか知行地を訪れていない義央ですが、赤馬に乗って領地を見回ったとの
伝承もあり、同地にはその伝承に想を取った郷土玩具及び銅像もあるとか。

その参 彦根城

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徳川家の譜代大名、彦根藩井伊家14代の居城。築城の際工期の短縮とコストの軽減の為、
近隣の諸城から移築された建造物も多数。徳川譜代の居城にも関わらず、明治新政府による
保存が決定し、建造物・景観の状態は良好且つ、京都と近いこともあって幾多の映画・ドラマの
ロケ地として、時代劇ファンには超お馴染みのお城です。

入城口(?)の脇には、表御殿一部が外観復元されて博物館(彦根城博物館)
になっていたり、近隣には「見どころ」が一杯!連泊して細かく見て周りたかったなぁ〜。

天秤(てんびん)櫓に続く廊下橋の右手には、お土産屋さんが!
此処も撮影のアングルに制限が出るでしょうね〜。ちょっと残念。

その弐 八幡山城跡

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八幡掘りの画像奥の橋を渡って日牟禮八幡宮の境内へ入ると、
八幡山へ登るロープウェーの乗り場があります。
徒歩でも約45分で登れるらしいのですが、
此処は無難にロープーウェーを利用しました。

八幡山城は、天正13年(1585年)羽柴秀次(ひでつぐ)が近江43万石を与えられ築城した山城です。
本丸等の主郭は、八幡山山頂に位置し、居館は標高約130mの中腹を造成して造られています。
天正18年(1590年)に秀次が尾張清洲に移った後は、京極高次(たかつぐ)が代わって城主となり、
秀次事件の起きた文禄4年(1595年)に京極氏の転封に伴い「廃城」となりました。
現在山頂には、村雲瑞龍寺(1596年、豊臣秀次公の生母(秀吉の姉)日秀公が、秀次公の菩提を
弔うため創建。)が、昭和36年に京都より移築されています。

【画像はロープウィから近江八幡市街を撮影したものです。】

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近江八幡市は豊臣秀次の城下町として栄え、山城・八幡城と共に防御と水運の為に
八幡堀を整備しました。昭和40年代には埋め立て計画もあった様ですが、
市民運動により保存を決定。石垣や景観が整備され、今日に至って居ります。
掘割の多かった江戸と同じ様な風情が漂い、時代劇のロケ地としてお馴染みの場所です。
 実際に行くと画面で見るより狭い範囲でもあり、「景観保存地区」とは言えすぐ
近くには近代的な建物も多く、撮影のアングルには制約があるかと思いますが、
幹線道路のすぐ脇に、こんな場所があるとタイムスリップした様な気分になります。
時代劇ファンとしては、浪人の扮装でもして写真を撮って見たい場所かも。(笑)
(チラシの裏情報ですが、画面の真ん中の蔵は喫茶店になってます。)

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