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JR播州赤穂駅より「お城通り」を、南に徒歩20分程で大手門に到着します。
「お城通り」は、通りに面した建物を白壁作りの昔風の建物に統一中で、
完了すれば「如何にも城下町的風情」で、お城散策の気分もより盛り上がりそうです。
赤穂城は周囲3kmの海岸に臨み、城内には10の櫓と12の門を配し、往時は直接
海に舟を出せる「海平城」でした。現在、本丸以外にも二の丸、三の丸でも発掘調査中で、
復元作業も平行して行われる予定とか。完成すれば、此処も時代劇の格好なロケ地となりそうです。
街中の雰囲気も如何にも城下町の雰囲気で、結構お気に入りの場所ですので都合3回訪れましたが、
家族旅行の為、(人物写真が多く)ネットに掲載できる「赤穂城」の画像がありません。ご容赦を・・。
ちなみに赤穂浅野家(5万3千石)は3代55年間で廃絶しましたが、その後永井直敬(3万3千石)を経て
入封した森家(2万石)は、森長直より12代森忠義まで161年間続きました
(森家の領地変遷:美作津山18万6千5百石→備中西江原2万石→播磨国赤穂2万石)
赤穂城といえば、「赤穂浪士!」ですが、事件の発端となった浅野内匠頭長矩と吉良上野介義央について私見を少々。
(例によって、一歴史ファンが予断と勝手な思い込みにより書いた文章の為、事実誤認がありましてもご容赦願います。)
【浅野内匠頭長矩】
映画・TVなどでは、売り出し中の「二枚目俳優」の登竜門的存在の役どころで、悲劇の名君と言った体ですが、
実際のところは、癇癪持ちで感情が激した時に胸が苦しくなる「痞(つかえ)」という持病があり、政治については
無頓着で酒に耽るだらしない性格であったとの記述が残っております。反面、「大名火消し」には非常に熱心で、
家来の迷惑を顧みず頻繁に消火訓練したとも伝えられ、この分野では精勤が認められ何度もお役についております。
余談ではありますが、長矩の母方の叔父にあたる内藤和泉守忠勝が、延宝8年(1680年)徳川家綱葬儀中の
増上寺に於いて、永井信濃守尚長に対して刃傷に及び切腹となっております。
外様の分家5万石に過ぎない身代にも関わらず、祖父の代に赤穂城を幕府に懇願してまで築城したため、
赤穂藩の財政は逼迫し、それは内匠頭の代にも持ち越され、年貢の取立ては苛烈を極め、当時の赤穂浅野家の
領地での評判は極めて悪かった様で、浅野家断絶を知った領民は餅を搗いて祝ったという記録も存在 します。
【吉良上野介義央】
扇谷上杉氏の血をひき高家筆頭となれば、石高4千2百石ながら官位は「従四位下」、一般的な国持ち大名が
「従五位下」辺りですから、家格で言えば大名並以上であったと云えます。
事実、妻は出羽米沢藩主・上杉綱勝の妹(三姫)ですし、長男三之助は上杉家と養子縁組(のちの上杉綱憲)、
長女鶴姫は薩摩藩主・島津綱貴の室(後、離縁)となっており、常々田舎大名何するものぞと言う感覚はあったはずです。
「松の廊下事件」の3年前に勅使ご馳走役を勤めた津和野藩藩主亀井玆親も、賄賂(付け届け・指導料?)の額が
少なく、吉良上野介に相当に苛められ刃傷による意趣返しを考えていた所、慌てて家老が賄賂の上積みをすると
手のひらを返す様に扱いが変わったと言う話も伝わってますので、上野介が賄賂の金額によって、態度が変わる
人物であったことは間違いありません。
義央の偉業とされる「黄金堤」にしても近隣諸領に対しては、結構姑息な手段を取ってますし、結構喰えない
狸親父っぽい印象があります。
しかしながら、知行地であった三河国幡豆郡・吉良庄(現・吉良町)辺りでは、仁政をひいた名君であると未だに
慕われて居ります。史実では生涯一度しか知行地を訪れていない義央ですが、赤馬に乗って領地を見回ったとの
伝承もあり、同地にはその伝承に想を取った郷土玩具及び銅像もあるとか。
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