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「珍妃の井戸」の最終章です。
最後のどんでん返し・光緒帝と珍妃の魂の叫びが仕組まれています。
死に行く珍妃愛する皇帝への最後の語りかけ。 あなたを愛しています。 あなたを愛しています。 第七章 小さな悪魔 廃太子 愛親覚羅溥儁氏の証言
四人は、浮浪児の群れに命を狙われます。
やはり、劉四の話が真実だったのだ。だから、真実を暴こうとした我々の命を溥儁が狙ったのだ。 四人がそう話し合っていたとき、溥儁に率いられた小さなボクサーたち(義和団の「拳民」をボクサーと呼びました)が襲撃してきました! ところが、意外とあっけなく溥儁は捕まってしまい、恐怖のあまり失禁した彼は少年に戻り、とつとつと二年前のことを語り始めます。 「珍妃は牢屋から連れ出されたとき、もう肚をくくってたんだ。 西安には行かない。ここで死ぬってね。〜 珍妃は万歳爺にも老仏爺にも、はっきり言ったもの。 『誰よりも私を愛して下さったお二方に、生きて再びお会い することができました。もう思い残すことは何もありません』っ て。〜 おいら、老仏爺の目から涙がこぼれるのを初めて見たよ。 『わかったわ、珍妃。おまえはやさしい女のままお釈迦様の もとへ行きなさい』〜 珍妃はひとりひとりの顔を見つめながら、『再見(ツアイチェ ン)』と呟き、それから赤い壁と瑠璃色の屋根に囲まれた、 小さな空を見上げたっけ。〜 珍妃は空から目を戻すと、古井戸の中をいちど覗きこんで、 それからちっともためらわずにね、頭から消えちゃった」 第八章 天子(サン・オブ・ヘブン)
四人は、ついに西太后によって幽閉された若き皇帝とひそかに謁見します。しかし、皇帝の精神は・・・・。
暗澹とする四人の前で、光緒帝は珍妃との思い出を語り始めました。 「いつのことであったが、珍妃は褥の中でかようなむつごと を言うた。 『もし私が人間でなく、醜い海鼠であったとしたら、あなた はいかがなさいますか』 朕は海鼠が嫌いであった。 もし珍妃が海鼠であったら・・・朕は鳥肌立ちながら考え た。そして懊悩の末、しかと答えを得た。 『珍妃、もし君が醜い海鼠であっても、僕は君を愛するよ。 毎夜この胸に抱き、くちづけをし、君を抱きしめて眠る。 必ずそうする』」 続いて、帝が言ったのは実に意外な言葉でした。珍妃を陵辱し、殺したのは貴様ら四人ではないか、と。 ミセス・チャンが強いショックを受けているソールスベリーの耳元で再び囁きます。 「おわかりになりましたか、閣下。陛下はご病気です。大英帝国の威信に賭けて、お守り下さいますね」 ソールスベリーは、帝にイギリスへの亡命を勧めます。しかし、それを拒む帝。 載沢は、「洋人たちが心から不実を悔い改め、君を利用したりしないと誓うならば亡命してもよいと、言ったじゃないか」と叫び、 ミセス・チャンも「叔父さま、しっかりなさって。このままでいれば、体をこわすか毒を盛られるかして、死んでしまうのよ。お願い、ロンドンに行って」と懇願します。 しかし、皇帝の瞳には黒々とした正気の光が戻っていました。 光緒帝の言葉です。
「朕は、珍妃を愛していた。心の底から、世界中の誰よりも。たとえ海鼠であろうと愛し続ける。いわんや井の底の骸骨であろうと、姿なき魂であろうと、朕は、珍妃を愛し続ける」
あなたは天子だからね。
あなたは世界の天と地を支える、天子だからね。 人間どうしが愛し合うことなど、当たり前だと考えている、耶蘇(ヤソ)も聖書もいらない、この国の天子だからね。 自分の富のために、他人のものを奪おうとする人間などひとりもいない、仁の訓(おし)えに満ちた、世界で一番豊かなこの国の、あなたは天子だからね。 どうか、わかって下さい。 さようならの言葉は、韃靼(だったん)語では何というのでしょうか。 ほんとうはそれを言いたいのだけれど・・・きっと、大興安嶺や黒龍江や、ホロンバイルの草原に美しくこだまする、風のような音にちがいありません。 ではみなさん、再見(ツアイチェン)・・・・。 ごめんなさい。それしか知らないから。 再見。 私の愛しい人。 そして、私の愛しい人たち・・・・・・ 日本が誇り高き中国人民の歴史に残したぬぐい去れぬ傷跡。 かって周恩来は万感の思いで賠償を放棄した事でしょう。 賠償や詫びを求めるよりも“歴史を忘れるな”と執拗に主張する中国。 何故に列強は中国に対しかくも破廉恥な強姦行為をなしえたか? 何故に中国はそれを許してしまったのか? 私は、左翼思想の持ち主ではありませんが、日本が、完全に中国侵略戦争に対して、深い反省をしたかというと、おおいに疑問であります。 日中国交回復の際に、もっとはっきりとした、戦争責任の分離をすべきだったのではないでしょうか。
靖国問題は、その象徴でしょう。
私が中国人だったら、戦争責任をとった人を、神として祀る。その精神は理解しがたいと思います。
靖国の英霊に深い感謝を捧げるものですが、残念ながら、多くの若者たちと、他国の人民の命を奪ったその原因となった、軍部、政治家、実業家を尊敬するというわけには行きません。
このブログはこれにて、閉めさせていただきます。
もう少し、深い勉強をしましてから、「戦争」に関して、中国のこと、韓国のこと、考えてから、また再スタートいたします。
お付き合いをいただき、深く感謝申し上げます。
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コメント(1)
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第四章 梟雄
直隷総督兼北洋通商大臣兼北洋常備軍総司令官
袁世凱将軍の証言 先の蘭琴の証言は、あくまで推測です。袁世凱は、現場に居合わせた者として、事実はこうだった、と証言します。
「瑾妃さまは妹君とは似ても似つかぬ肥えた小さな体を、 鞠(まり)のように弾ませて殿を下りた。そしてやおら珍妃 さまの髪をひっつかむと、まるで叺(かます)でも曳くように ずるずると引きずって、中庭の端まで歩いた。 『誰かある!太后陛下のご命令ぞ。誰かある!』 貞順門から栄禄(ロンルー)が駆けこんできた。 『栄禄将軍、この者をそこなる井戸に投げ入れよ。早 う!』」
瑾妃とは、珍妃の実の姉で、同時に光緒帝の側室となりました。
丸い顔だったので、あだなを「月餅」(「げっぺい」という中国のお菓子)といいます。 また、栄禄とは、西太后の幼馴染で、彼は西太后の恋人であったがゆえに異例の出世をし、また、失敗をしても許されたといわれています。 ともあれ、袁将軍は、「直接命令者:瑾妃、直接実行者:栄禄説」を提唱したのです。 まだ 続きます
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袁 世凱
浅田次郎 珍妃の井戸 より
第三章 老公胡同(ラオクンフートン) 元養心殿出仕御前太監
蘭琴氏の証言 老公胡同とは、引退した宦官たちの共同宿舎のようなところです。蘭琴は、こんな証言をしました。 「決断を下されるのはやはり西太后さましかおられますまい。 目の前の皇上のご意思を制することのできる人物といえば、 他には考えられませぬ。 では、誰が実行したか。 〜 〜 そうだ、あの慰庭なら、やりかねませぬ。 なにしろ、皇上すらも裏切った極悪非道の男でございますか ら。
ああ、思いだしました。慰庭には、珍妃さまを殺す動機がご ざいますよ。実はあの男、珍妃さまに横恋慕をしていたので
す」
慰庭とは、袁世凱(ユアンシイカイ)のことです。 ようやく具体名が出てきました。
袁 世凱とは;清の軍人で、軍閥の総帥。大清帝国第2代内閣総理大臣を務めたが、清朝崩壊後は第2代中華民国臨時大総統、初代中華民国大総統に就任。
清朝末期の軍人として陸軍の近代化を進める役割を担いつつ台頭し、彼自身が作り上げた軍事力を背景に政治的にも大きな権力を振るい、欧米諸国では彼のことを「ストロング・マン」と呼んだ。その後一時失脚するが、辛亥革命の混乱の中で朝廷と孫文ら革命派との間で巧みに遊泳し、中華民国大総統となり、革命派を弾圧するとともに、インフラ整備や軍備の充実などの面から国家の近代化に当たった。さらに一時皇帝に即位したが、内外の反発を買って退位、失意のうちに没した。
袁世凱は朝鮮に政経両面ともに清の勢力を扶植して、対抗する日本勢力を排除しようと考え、特に経済的には一定の成果を挙げている。ところが光緒20年(1894年)、貧しさと圧政に喘いだ朝鮮民衆が甲午農民戦争(東学党の乱)を起こした。朝鮮は清に軍の派遣を要請し、日本も対抗して派兵した。これにより日清戦争が勃発する。
しかし日清戦争は清の大敗に終わり、李鴻章は責任を問われ失脚、敗北の中で袁は本当の意味で近代化した軍隊の必要性を痛感した。当時の清の軍隊は、軍備の資金は与えられても上官による横領が頻発し満足な装備を持たなかったり、装備は充実していても兵隊の規律がなっていなかった。袁世凱は戦後間もない光緒21年(1895年)10月には陸軍の洋式化の職務に就き、近代兵器を伴った兵の訓練、厳しい規律などを実施し、大きな成果を挙げた。
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浅田次郎 珍妃の井戸 その2
第二章 誰が珍妃を殺したか?
ニューヨーク・タイムズ駐在員トーマス・E・バートン氏の証言
バートンは、まず、こんな証言をします。
「たぶん支那人はみなこんな言い方をします。 『珍妃は慈悲ぶかい
み仏さまの怒りに触れて、お命を召し上げられた』、とね」 み仏さまとは、老仏爺(ラオフオイエ)、つまり西太后のことです。 しかし、バートンは、こんな証言もします。
「断言しますよ。珍妃を殺害した犯人は、もしくは珍妃を死に 至らしめた張本人は、西太后ではない。西太后のせいに
する、誰かです」
結局、バートンは「ほのめかし」ばかりで結論めいたことは口にせず、御前太監(ごぜんたいかん。光緒帝側近の宦官)の蘭琴(ランチン)に訊けば詳しいことがわかるといいました。 |
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『珍妃の井戸』
「珍妃の井戸」事件とはどのような事件だったのでしょうか。 珍妃 1867年生まれ。88年の戊戌の政変で、西太后らに革新派の六君子が処刑され、光緒帝が幽閉されると彼女も別の場所に幽閉された。 1900年、日本とロシアを主軸とする八カ国連合軍が北京に侵入した。西太后は光緒帝をともない西安に逃亡した。その際、彼女は西太后の命令で楽寿堂の裏の井戸に落とされ殺された。 これが基本説です。
「直接命令者:西太后説」ですね。
他の説もあります。 八ヶ国連合軍は天津に集結してから北京へ進撃し、八月にはいってこれを占領し、外交団を救出した。身の置きどころをなくした西太后は徳宗を連れて西華門から脱出をはかった。彼を北京に留めておくと親政が復活するかも知れないのを恐れたからである。徳宗の寵妃である珍妃は同行を拒んだため、寧寿宮の裏の井戸に投げ込まれた。
こういう説もあります。 いよいよ出発しようとしたとき、李蓮英はみほとけさまに奏上しました。 〜「もしも太后さまがやつがれにおまかせくださいますならば、うまく処分いたします。」 〜「おまえにまかせる。」 〜李蓮英と手下の宦官はいそいで珍妃を両方からかかえ、東華門内にある有名な大井戸のそばにつれてゆき、そのなかにつきおとしました。 「直接実行者:李蓮英説」です。 第一章 載沢(さいたく)殿下の舞踏会
外国かぶれの満州皇族、光緒帝のはとこ鎮国公載沢が主催した舞踏会で、ミセス・チャンという謎の美女が、エドモンド・ソールスベリー(イギリス伯爵。英国海軍提督)の耳元で「二年前、珍妃という光緒帝の寵妃が殺されたことをご存知?」とささやいたのが、すべての始まりでした。
ソールスベリーは、ヘルベルト・フォン・シュミット(ドイツ帝国大佐、男爵)、セルゲイ・ペトロヴィッチ(露清銀行総裁、ロシア公爵)、松平忠永(東京帝大教授、子爵)を召集し、謎解きに乗り出します。 浅田次郎の文章は、いきいきとして、臨場感があります。
語り手は、ミセス・チャンですね。
光栄ですわ、閣下大英帝国海軍の提督ともあろうお方にメヌエットのお相手をしていただけるなんて、まるで夢のよう。
しかも今宵は、いったい何年ぶりの舞踏会でしょう。
アン、ドウ、トロアーーそう、かれこれ4年にもなりますわね。あの天地をひっくり返すようなひどい政変があってから。
ここで、清国の歴史を振り返りましょう。中国という国を知るには、これは必要なことです。
1644年、農民反乱軍により北京を攻略されると明の崇禎帝(すうていてい)が自害し明王朝は終わりを告げます。
では、その後の中国を支配することになったのは、この農民反乱軍かといえば、そうではありません。女真族(じょしんぞく)が起した清でした。清軍は、明の武将であった呉三桂(ごさんけい)の手引きで北京に入ると農民反乱軍を鎮圧し、その後は北京を占領。そして、清の順治帝(じゅんちてい)が中国皇帝として即位します。 それにしても清王朝をつくった女真族って何者じゃ? 別に女性だらけの集団ではありませんよ。彼らの原住地は中国の東北地方。朝鮮半島のちょっと上くらいにいた民族ですね。12世紀はじめに金という国をつくって宋をガンガン追い込んだ民族です。後にモンゴル帝国により滅ぼされますが、17世紀はじめに、このバラバラになった部族をまとめ上げて後金(こうきん)という国をヌルハチという人が建国し明からの独立を宣言するのですね。そして1636年には国号を清としていました。だから、中国皇帝として即位した順治帝は清の三代目首長です。 とはいえ、女真族はたった200万人程度だったといわれるほど少数民族。対して漢民族は何億人もいる。漢民族からの反発はなかったのか? これを女貴族たちは、「アメとムチ」の使い分けでうまく支配することに成功します。 ムチの方で分かり易いのが髪型。女真族独特の辮髪(べんぱつ)という髪型があるのですが、これを漢民族にも強要します。 次に「文字の獄」。これは、清に対して批判的思想を持つ学問や人物を徹底的に弾圧していくのです。 もちろん、これだけでは反感をかうのでアメもあげます。 満漢併用性(まんかんへいようせい)。これは満漢偶数官制(まんかんぐうすうかんせい)ともいいますが、簡単にいえば役人を女真族と漢民族を同じ人数だけ採用するっていう方策です。部署の役人は奇数人にはしない。必ず10とか20とか2で割れる数人にするわけです。そして、同じ数だけ漢民族と女真族を採用するわけですね。これなら漢民族も納得です。 こうした政策により清はモンゴル、チベットを含み史上最大の中華帝国へと成長していくのですが、19世紀になるとヨーロッパ諸国からの標的となってしまいます。 当時の清王朝では、対外貿易港を広州1港に絞っていました。清にとっての貿易はあくまで従属国からの朝貢であると捕らえていた清王朝では自由貿易を拒否していたのですね。 それに、とりわけ不満を感じていた国がイギリス。イギリスは中国の茶を仕入れるために禁制品であるアヘンを密貿易していました。その結果、清ではアヘン中毒者が急増。そこで、欽差大臣の林則徐(りんそくじょ)が密貿易船のアヘンを大量に没収したことがきっかけとなり、イギリスと清は戦争になります。(1840年アヘン戦争) いざ、戦争が始まってみると近代兵器を有するイギリスの圧勝。1842年にはイギリスが勝利をおさめ、清は上海などの5港の開港や賠償金の支払い、香港島の割譲、南京条約を結ばされることになりました。 さらに1856年にはイギリス船籍のアロー号の乗客員が清に逮捕されるという事件がおきます。ちょうど、その頃、広西省にて宣教師が殺害された事件にて清に抗議をしていたフランスを誘い、イギリスは清に再び戦争を仕掛けました。(1856年アロー戦争) 清は、この戦争にも敗れ、1858年天津条約、1860年北京条約を結ばされます。これにより、天津、南京など11港の開港など屈辱的な条約を結ぶことになり、清王朝の威信は大きく揺らぎ始めます。 その後も清仏戦争、日清戦争にも敗れ、国内でも清王朝打倒の声が高まっていくことになります。清は女真族が建てた国ですね。やはり、漢民族主権の国家でなくてはダメだ!という声が若者達の間で囁かれてくるようになるのです。 そこで登場したのが、孫文(そんぶん)という人物。彼は1894年に革命結社、興中会(こうちゅうかい)を結成し三民主義(民族の独立、民権の伸張、民生の安定)を唱えます。 その前に、光緒帝の維新があります。
光緒帝
(こうしょてい、こうちょてい) 世没:1871年8月14日 - 1908年11月14日〈37歳〉 在位:1875年2月25日 - 1908年11月14日〈35年〉 清朝の第11代皇帝。諱は載湉、廟号は徳宗。在世時の元号の光緒を取って光緒帝と呼ばれる。 道光帝の第7子醇親王の第2子として生まれる、母は西太后の妹。同治帝が早世した後に権力保持を狙う西太后によって擁立された。即位したのは3歳の時であり、当然実権は西太后が握っていた。1871年にイリ問題や1876年の琉球失陥、1885年の清仏戦争による朝貢国ベトナムへの影響力喪失をし、1894年には日清戦争による朝鮮への影響力喪失など相次ぐ自国のふがいなさを光緒帝は嘆き国勢回復を切望するようになった。それゆえ康有為、梁啓超らによる変法運動への興味を強く持つようになり西太后の傀儡から脱し自らの親政により清の中興を成し遂げようとした。光緒帝は1898年に体制の抜本的な改革を宣言(戊戌の変法)した。 戊戌の変法(ぼじゅつのへんぽう)は、100日間で終わります。
構造改革に失敗 しかしあまりにも急進的な改革に紫禁城は混乱し、保守派の期待は西太后へ集まるようになる。西太后は当初静観していたが、変法派の一部が西太后の幽閉を計画。当初変法派に同調していた袁世凱は、変法派を裏切りこの計画を西太后の側近栄禄に密告した。西太后は先手を打ってクーデタを起こし、光緒帝を監禁し、変法派を弾圧した(戊戌の政変)。西太后は一時光緒帝の廃位を考え、端郡王載漪の子溥儁を大阿哥(皇太子)に立てたが、外国の反対にあい光緒帝の廃位は断念した。 義和団の乱 義和団の乱が勃発し八ヶ国連合軍が北京に迫ると、西太后は光緒帝を連れて西安まで落ち延びる。その際に光緒帝の側室珍妃が西太后の命により井戸に投げ込まれて殺害された。外国との交渉で事件の処分は直接首謀者だけに限られ北京帰還後も実権は西太后が握り続けた。その後、西太后の主導でかつての戊戌の変法と基本的に同じ路線の近代化改革である光緒新政が展開されるが、光緒帝は終始西太后の傀儡にとどまった。1908年に崩御 そして1911年には、清王朝が財政危機を乗り越える為に打ち出した鉄道の国有化に反対する革命派の運動が全国へと広がり、14省が清王朝からの独立を宣言。そして、1912年には、孫文が臨時大総統となり中華民国が成立します。 清は。これに対抗すべく、袁世凱(えんせいがい)という軍人勢力の実力者を立てて革命政府に対抗しますが、なんと袁世凱は自身を臨時大総統にするという条件で清を裏切ってしまいます。 もうどうにもならなくなった清王朝は、皇帝である溥儀(ふぎ)が退位することになり、清王朝の長い歴史に幕を閉じることになるのでした。 ながながと失礼しました。
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