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日本を離れ1年になろうとしている今日、錆びれ出してきた身体が重い日々が続く有様。
時折雷雨のすごさに呆然と立ち、遠く黒々とした闇雲の中をあびやかな閃光が右往左往し
走っているのを眺める。
そろそろ梅雨明け?今将に出し切れなかったものを思いっきりこの地に叩きつけているかの様にも見える。
ある人は、これを“残り雨“と教えてくれた。
一年の半ばを過ぎ、半年余りの積もり積もった鬱憤を晴らせる自然の恵みともいえるのでしょうか。それによって被害をこうむる人、恵みを受ける人と二分されるのを思う。
明日からは、炎天の澄みきった青空を仰ぎ見る事が出来るのを知っているから・・・
だから今は耐える。
キリスト教では、将にそれらを教えてくれる。
ある教師の書いている小冊には、「キリスト教は愛の宗教である。教会は愛を説き、愛を実践する。所有する事を目的にした愛が行われる世の中で、クリスチャンの無償の愛の姿がそのような評価を生んだ。だから教会から愛を取ったら何も残らない。クリスチャンから愛を除いたら何も残らない。教会はそれほどに、愛に徹して生きている。・・・」と語る。
それらは、イエス・キリストが重い十字架を背負い、われわれの罪を購われた事に意味する。ここまでの自己犠牲を誰が出来ようか?
「だがそれは決して易しい道ではない。愛する事は自己犠牲を意味するからだ。得をしようとまでは思わなくても、自分が傷つき、損をしないようにと自分を守るところでは、愛を実践することは難しい。・・・もう一方で、クリスチャンは偽善者だという評価を受けることも多い。確かに愛に徹して生きる事は容易なことではない。」
わんぱくな幼子、車中では親の言う事をも聞かず駆け回り、大声をあげ泣き叫ぶのを時々見かける。子供心に「親の愛」を求めているのであろう。母親であれば誰しも経験はあるでしょうが、子供を易しく抱きしめ自分の乳房をそっとふくませる・・・。泣き叫ぶ赤子はいつのまにか泣き叫ぶのを止め、一生懸命にその乳房を吸い続ける。この些細な母親の愛がこの赤子に伝わり、大人になり自分が愛されていた事をひとに教えることが出来る様になり、またひとを愛する事が出来るようになるようだ。この赤子の時代に母親からの愛が深ければ深いほどこの世を悩ます事件はなくなるであろう。愛に飢えた者が事件を起こしているのだと考えられる。成長したものにとっては、今聖書の教えを必要とする。「愛されることを求めるように教えている。」からである。赤子の様に愛されたから愛する事が出来る様になりたい。
イエスが自分の為に十字架につけられた事をも考えると、やはりイエスが自分をも愛してくれているんだ!と当然のごとく確信が沸いてくるのである。
独り身であっても、いつもイエスが共に居て下さり道を示され我が子の様に愛して下さっているのだと思う。その愛をひとに教えられるように、そうすれば相手の門戸を開く事は容易になり平安な導きが訪れることとなる。
その様に思える今日ですが、ここはタイ!大きな落とし穴が待っている事を教えられるのです。
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イエスが自分の為に十字架につけられた事をも考えると、やはりイエスが自分をも愛してくれているんだ!と当然のごとく確信が沸いてくるのである。
アーメンですね!
2010/1/9(土) 午後 0:52 [ パスターハリーの「聖書」その他 ]
そうか・・・そうすると、今年の10月で日本を離れて
二年目ですね。神様の祝福の中を歩まれますように!
2010/11/15(月) 午後 11:39