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大正への旅 ご先祖さまに聞く「何があったの?」
古新聞で読む日本近代史
これより寄稿文 中の画像は「新青島満帆」が挿入しました(ウィキペデアより)。
手づくりの大正デモクラシー
明治が45年間、昭和が63年間。その間に挟まれた大正は15年間と短かった。それで大正の前後に生まれた世代には、何となく印象が薄かった。当時のご先祖さまたちが感じていたのは、漠然としているが、「明治に比べると偉人が少ない」「国威を輝かすような大戦争がなかった」「大正天皇が病弱で、国民に偉業を示されることがなかった」というようなことだろう。
1.■個人が言論の自由を実践
明治を武士たちの“男の時代”としたら、大正は何となく“女性的”な感じがしていた。昭和に対する、もうすぐ終わる平成に似ているのではないか。ところが実際に当時の新聞を読んでみると、その印象は全くはずれていた。それは大正のスタート地点、明治天皇が亡くなって、乃木大将が殉死した日から始まる。
・潔き立派な最期 文学博士 谷本冨氏談『大正元年(1912年)9月17日 大阪毎日新聞』
乃木大将の事かね。乃木さんは平生あまり虫の好かない人である。露骨に言えばはなはだ嫌いな人である。しかし今日のことは実になんとも言えず感動したことであって、壮烈無比と言ってよいように思う。
乃木大将の古武士的質素純直の性格は、いかにも立派なるに拘わらず、何となくわざと飾れるように思われて、心ひそかにこれを快しとしなかった。かつて将軍が少佐か中佐の頃であったと思うが、余の知れる年少者が同邸を訪問した時、昼食時刻に際しておった。大将は鮪の一大肉塊を無造作に平鉢にのせて持ち来たり、軍刀を抜いて荒切りにし、剣の先に肉を貫いて客に勧めたことがあると聞く。
←乃木将軍と妻(自決当日)
概約すれば、乃木さんはむしろ大久保彦左衛門の如き役割の人だろう。とうてい国家実際的政務の紛雑なることを理解し、処理すべき人ではない。時勢の進歩とともに人事の複雑を加うるを見て梗概止まず自殺するに至りしは、気の毒ながらけだしやむを得ざることならんと思う。
大将はいわゆる狐相である。平たく言えば下賎の相に近いもので、とうてい大将という如き高職にのぼるべき富貴も天分も無ければ、また百歳の寿を保つべき福寿相と見えざるようである。支那の相書に、かくの如きは廃業するにあらずんば悪死せん等と書いてあるのに近い相である。
←谷本富氏
発言者の谷本富(たにもと・とめり)氏は当時、京都大学教授。この発言の翌年に退官後は「自由教育理論」の推進者として有名である。「死者を鞭打つ」ことを潔しとしないぐらいの心得はある人だったろうが、当時の日本国内で起こった乃木大将殉死についての賛辞の洪水の中で、止むにやまれず「これだけは言っておかねば、、、」との思いだったのだろう。
新聞では、「忠勇高潔な乃木将軍と、貞操無比な同夫人の葬儀を葬送せねば人間の道に外れるという気組みを以って、青山指して押し出した人の数は潮のよう、、、」(東京朝日新聞)などと書き、「君に殉じ、夫に殉ず」というような見出しに満ちていた。
こんな時に、地位も名声もある人物が堂々と反論を発表したのである。乃木大将は旅順攻略の司令官だった。日本軍はこの戦闘で多くの死傷者を出した。乃木大将の2人の子息も戦死している。それは美談とされたが、一部では乃木大将の作戦面の能力が疑問視された。
大正時代にはかなり言論の自由があり、それを行使した勇気あるご先祖さまがいたのだ。そのような勇気の証拠になる記事はまだまだある。
・陸軍の増師(注・師団数を増す)に経済界が反対『大正元年(1912年)11月28日 大阪朝日新聞』
東京商業会議所会頭の中野武営氏及び同議員の大橋新太郎氏は、27日西園寺首相を官邸に訪問し、制度整理(注・官庁や軍の組織の整理縮小)及び増師問題に関し全国会議所の意見を陳述し、あくまで増師案を排斥すべきことを陳述した。会見の顛末は左の通り。
▽生産案も犠牲 中野会頭は財政の膨張は一夕一朝のことではなく、日露戦争後、逐年増大し停止する事を知らない。内閣成立当時、首相はこの傾向を停止し、制度の根本的整理を期したのは、時宜に適したことと信ずる。そういう時期に突如、増師案が提出されたのは誠に怪訝に耐えない。
▽整理と増師は別問題 増師案の内容を聞くと、陸軍省は僅少の整理をして、この分をすべて増師に消費し、なお一般会計からも要求しようとするに到っては言語道断である。余は増師そのものだけではなく、現在の軍費が、国民は既にその負担に耐えられないことを明言する。
↓中野武営氏 ↓大橋新太郎氏
「増師」というのは、朝鮮に駐留する陸軍に2個師団を増やす要求だった。西園寺首相は拒否し続けたが、陸軍大臣が抗議して辞職、その後任を決められなかったため、総辞職となった。後任首相は陸軍の長老・桂太郎になったが、国民の主張を代弁する野党との対立が激化した。
桂は再三、国会を停会するという強硬措置をとった。国民は憤激し、国会周辺では反対デモなど、戦後の「60年安保」騒動以上の激しい反対運動が起こった。
陸軍の要求に対し「言語道断」というような強い言葉で反対していたのだから、当時の財界人にも骨があったのである。
↓西園寺首相 ↓桂太郎首相
次回、お楽しみにしてください。
2.■女性も強かった
聖書の言葉:
詩編51:12 あなたの救の喜びをわたしに返し、自由の霊をもって、わたしをささえてください。(口語訳)
皆様の上に神様のおも森と祝福をお祈りしています。
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