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(画像入り)幕末・明治への旅

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武藤様、連載有難うございました。
  原稿は一括して頂きましたが、掲載が遅れて、申し訳ありませんでした。
  今後も宜しくお願い致します。

幸徳秋水の大逆事件(第25回)
・幸徳一派の大陰謀事件は大審院で特別組織の下に審理『明治43年(1910年)9月25日 東京朝日新聞』
 恐るべき大陰謀を企てた幸徳秋水、菅野すが等社会党員に対するその筋の大検挙は、東京、横浜、長野、神戸、和歌山その他全国各地にわたって着々進行した。大審院では特別の組織で審理に着手、松宮検事総長は神戸から上京してきた小山検事正、及び大賀、武宮等を専任にして、それぞれ監獄で取調べを続けている。何分にも重大事件なので、各被告はそれぞれ別房に分けて収禁しているとのことである。
    ↓幸徳秋水
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 当時の大審院は現在の最高裁判所に当たる。地裁から高裁の順序を踏まず、いきなり最高裁で審理した。しかも「公安維持の必要上、公開は禁止する」とされた。
 
・有史以来の公判 傍聴は禁止となる『同年12月11日 東京日日新聞』
 身は金甌無欠(注・外国の侵略を受けたことがない強固な独立国家)、皇統連綿たる神州の民と生まれながら、不自然な西欧の曲学に心酔のあまり、ついに我が国有史以来かつてない大反逆を企てた無政府党・幸徳秋水以下26名の強欲非道は、吾人はその六族を亡ぼしてもなお足りぬ思いである。万人がその肉を食い、屍に鞭打ちたいと希うところだが、国家はこれら不忠の徒に対しても法を定めている。
 
 ここでは、犯人ではない親戚縁者まで「六族を亡ぼし」、「その肉を食い、屍を鞭打ちたい」等と激烈で感情的な表現を使っている。読んだご先祖さまたちは、いったい何事が起こったのかと驚き興奮したことだろう。しかし新聞には、いきなり大審院で裁判することや、傍聴禁止についての疑問や批判は見られない。
当時の政府の言論圧迫は、未だそれほどではなかった(それは後述する大正時代の新聞で分かる)。これらの記事は大衆の気分に迎合し、人気を得ようとする新聞社の下心の方が強く感じられる。
 この裁判は新聞には「某重大事件」「大反逆」と書かれただけで、国民にはいったい何があったのか、真相は一切知らされなかった。昭和に入って終戦後、発表された幸徳秋水の資料でようやく知ることが出来たのである。
それを読むと、確かに当時の国民には知られたくない情報だった。
 秋水は明治40年1月、「天下に社会主義思想を広める」と宣言して『平民新聞』を発行した。そかし当局に度々発行禁止され、同年4月に廃刊した。この以前に秋水はアメリカに行き、無政府主義者と付き合い、社会革命党を結成している。
この党が出した雑誌『革命』の第1号に「日本皇帝睦仁君(明治天皇のこと)に与う」という論文がある。問題にされたと思われる部分を要約すると、
「天皇の祖先の神武天皇は神の子とされているが、それはウソで事実は猿類の進化したものである。明治天皇は支那とロシアと戦った。戦場に行った平民は死んだり捕虜となったが、天皇とその周囲の者は何も失わず得をした。睦仁君、憐れな睦仁君、足下の命は旦夕に迫っている。爆裂弾が貴方の周囲にあって、将に爆発せんとしている。さらば足下よ。

                        無政府党暗殺主義者」


「天皇の先祖は神様である」と教育され、信じ込まされてきた国民にとって、「本当は神様ではなくてサルである」と言われたらショックである。実はダーウインの進化論『種の起源』は1859年に発刊され、その後の世界で最新知識とされていた。しかし天皇の権威を確立させたい明治政府としては、神話を疑わしくさせるような科学の学説は、国民には知ってもらいたくはなかっただろう。

         ↓ 平民新聞 創刊号
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↓ 菅野スガ(須賀子)
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↓平民社
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↓大逆事件の犠牲者を顕彰する会による碑[志を継ぐ](和歌山県新宮市)
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生年:
生地:
没年:
1911124(満39歳没)
没地:
思想:
活動:
裁判:
死刑
刑場:
市ヶ谷刑務所
母校:
影響を受けたもの:
:

大逆事件 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%80%86%E4%BA%8B%E4%BB%B6

☆大逆(たいぎゃく)事件☆

生誕

188167
天皇旗 明治政府 大阪市北区絹笠町

死没

19111月25(満29歳没)
大日本帝国の旗 大日本帝国 市ヶ谷刑務所

別名
幽月, 管野須賀子
罪名
刑罰
職業
ジャーナリスト, 革命家
両親
義秀、のぶ, 弟正雄, 妹ヒデ


菅野スガ(須賀子)の表象 関口すみ子






大逆罪 
旧刑法第116条:天皇三后皇太子ニ対シ危害ヲ加ヘ又ハ加ヘントシタル者ハ死刑ニ処ス

1947年改正前の刑法第73条:天皇、太皇太后、皇太后、皇后、皇太子又ハ皇太孫ニ対シ危害ヲ加ヘ又ハ加ヘントシタル者ハ死刑ニ処ス


聖書の言葉 ガラテヤ1:3・4(口語訳)
1:3 わたしたちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。
 1:4 キリストは、わたしたちの父なる神の御旨に従い、わたしたちを今の悪の世から救い出そうとして、ご自身をわたしたちの罪のためにささげられたのである。

NKJV 1:3 Grace to you and peace from God the Father and our Lord Jesus Christ,
 1:4 who gave Himself for our sins, that He might deliver us from this present evil age, according to the will of our God and Father,


bears | brooks falls - katmai national park, alaska - See more at: http://explore.org/live-cams/player/brown-bear-salmon-cam-brooks-falls#sthash.pFbNMRng.dpuf ;
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■日露戦争と伊藤博文(第23
 
(伊藤博文)
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戦争の状況は知られているので、この頃の伊藤博文の行動を追ってみよう。昭和以後の政治家との余りの違いに驚かされる。
 
・捨小舟 海女が子の嘆きぞ悲し 滄浪閣の前のおとど阿福を捨て給う『明治37年(1904年)4月11日 東京朝日新聞』 
 先に藤公(伊藤博文のこと)は夜な夜な大磯の滄浪閣(伊藤宅)を出て、同地の旅館仙招閣に通っていたことがある。当時は旅館に1人だけ美人の女中がいてお福(20)といった。近所の漁夫の長女で、一生を海に潜らせ、雪の肌を黒くするよりもと、大磯の町に出したのである。
 藤公はその色香をめで、旅館の主人に話してお福を自由にした。お福は赤心をこめてかしづいたので、藤公の寵愛一方ならず、表面はお腰元、裏面はお部屋さまとして暮らしていた。しかしとかくさめ易いのが藤公の癖で、お福との間にも秋風が吹いて、昨年6月、300円の涙金で暇を出した。
 ところが大磯の小商人に黒木屋某という者がいて、息子の正賢(23)は小学校教師をしている。嫁を迎えてやろうと思っている時にお福のことを聞き込んだ。
“伊藤さんのお手がついた女なら結構だ。おまけに300円の持参金とは”
 とばかり縁談を結んで、4、5日前に結婚した。式場で嬉しくなった黒木屋は出席していた船頭たちに、
「お手前方は漁船に乗るが、倅は今日から親船に乗ったも同然。早晩、伊藤さんに取り立てられ、文部大臣になるでしょう」
 とエビで鯛釣る考えはお里が知れる。
 日露戦争のさなかに、こんなのんびりした記事が載った。同じ日の紙面に、伊藤が特使として朝鮮に向かったニュースが出ている。当時としては政治家に限らず、裕福な男が妾をつくることは珍しいことではなく、スキャンダルにもならなかった。戦争中にもこれだけの余裕を持っていることを、知らせたかったのだろうか。
 しかし伊藤は遊んでばかりいたわけではない。次の記事では、さすがという芸当をやり遂げている。
  (小田原滄浪閣跡に建つ滄浪閣跡の碑(左)と伊藤博文胸像(右)
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・伊藤公が酒乱の放言乱語『明治38年(1905年)2月2日 萬朝報』
 水交社(海軍軍人のクラブ)で開かれた東郷大将歓迎会で、伊藤博文が傲然として演説し、物議をかもした。演説の要点は次の通りである。
「自分は内閣に頼まれて言うわけではない(当時は桂首相)。今日までの陸海軍は連戦連勝、偉大な成績で感謝のほかはない。しかし、この偉大な功績を完了することは至難で、外交上最も大切な事業と言わざるを得ない。
 この難局に対して、小村君(寿太郎外相)のような豪傑で、ビスマルクにしんにゅうを掛けたような大人物であっても、目的を達することは難しい。この難局を切り抜けるには、正しい主義を立てて行動しなければならない。その主義は世界的に観て、決して攘夷的であってはならない。あの対露同士会(対露強硬派の集まり)や7博士(同じく強硬派の七人の東大教授)のような無法な攘夷論は、徒に列国の感情を害して大事を誤るものであるから、断じて排斥しなければならない。万事を世界主義から割り出して、初めてこの難局から切り抜けられるのである」
 伊藤の論旨はさておいて、酒気ふんぷんとして態度が傲慢無礼なことが列席者の感情を害し、殊に軍人に対して大きな要求をする事を戒め、政府に対しても暗に自分に従えと示威したことが物議の種となった。
 翌日、山本海相と小村外相が伊藤を訪問して真意を確かめようとしたが、伊藤は、                            
「そのような事を言ったかどうか、何分、酔っていて覚えていない」
 と要領を得ないため、責める者もそれで止めてしまった。
 伊藤が今日でも世間に攘夷思想があるが如く言うのは実に愚であり、また失礼である。耄碌翁はあまり口を叩かぬがよろしい。        
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 小村寿太郎
 この頃、陸軍は旅順を攻略し、満州、朝鮮での戦闘に勝っていた。海軍も日本海海戦前だったが、かなりの敵艦を沈めて、国内は戦勝気分に酔っていた。しかしロシアは超大国で、日本が最後まで勝てるという見通しはなかった。それで、この戦争を止めることの大切さ、難しさを分からせようとしたのである。
 真正面から言うと大反対され、命も危ないので、酔った振りをして真実を少しでも知らせようとした。
このような行為は、太平洋戦争でいうなら、ハワイやシンガポール、ジャカルタ等で日本が連戦連勝していた時期に、山本連合艦隊司令長官の歓迎会で、「今は勝っていても、戦争は止める時が大変だ」と言うようなものだ。昭和の時代には、そういう政治家は1人もいなかった。
 伊藤は明治42年10月26日、満州視察中にハルビン駅で朝鮮人安重根に暗殺された。韓国は今、この安を独立運動の英雄として記念碑を建てようとしている。しかし伊藤は初代韓国統監にはなったが、生存中は韓国の日本併合には反対していたのだ。                                 安重根 
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「韓国は古来、完全に独立したことはなし。日本の助けで世界列国のⅠ員になったが、依然として自立することは出来ないでいる。日清戦争後に韓国のしたことと言えば、日露戦争の原因をつくり、我が国に数万の英霊と多額の戦費を費やさしたことだけである。
 韓国の併合は徒に厄介を増すだけである。韓国に自治の能力を養成してやって、後に日韓連邦政府のようなものをつくるのが、日本の利益になる」(明治43年8月30日 読売新聞)
 政界最長老の持論なので、併合論者も反対は出来なかった。それが安によって暗殺されたので、翌43年、韓国を併合して「朝鮮」と改称し、朝鮮総督府を置いた。もし安が伊藤を暗殺していなければ、もっと違った形になっていたかもしれない。安のしたことが併合を速めたのは確かである。
    (日本海海戦時の三笠艦橋における東郷平八郎)    
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                        (日露戦争の経過 地図)
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(小林清親の版画。敗北によりボロボロとなったロシア軍の悪夢を見て、飛び起きるニコライ二世。)
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下の写真説明
左下志士時代   
中央 長州五傑:左上段から遠藤謹助・野村弥吉(井上勝)・伊藤・下段左から志道聞多(井上肇)・山尾庸三 
右下高杉晋作(中央)と伊藤博文(右)(左の少年は三谷国松)
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左下木戸孝允(前列中央)と伊藤博文(後列右端)ら。明治3年撮影
右下:岩倉使節団 右から大久保利通 伊藤 岩倉 山口尚芳 木戸孝允 
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左下:東京都品川区西大井にある伊藤博文の墓
中央:韓国の民族衣装着て記念撮影におさまる伊藤(韓国統監時代、前列左から二番目が梅子夫人) 右下:開東閣(山口県萩市)
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左下:晩年の伊藤博文                    右下:大韓帝国皇太子李 垠と伊藤 
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*武藤直大様の寄稿です(元週刊サンケイ編集長) 有難うございます。掲載が遅れて申し訳ありません。
*画像はウィキペディアからです。
*伊藤の暗殺は[安]でなかった http://matome.naver.jp/odai/2136671410411695501



聖書の言葉 ガラテヤ人への手紙 1:4(口語訳)
 1:4 キリストは、わたしたちの父なる神の御旨に従い、わたしたちを今の悪の世か  ら救い出そうとして、ご自身をわたしたちの罪のためにささげられたのである。
 who gave Himself for our sins, that He might deliver us from this present evil worl d, according to the will of God and our Father,(KJ21)

皆様の上に神様の平安(しゃろーむ)がありますように!!!
 




■日露戦争までの10年間(第22回) 

   ◎武藤様有難うございます。更新が遅くなって申し訳ありません。
 

 日清戦争は明治28年に終わり、日露戦争は明治37年に始まった。この短い期間にもいろいろなことが起こっている。それを新聞見出しで羅列しよう。

・車夫のスネを出すのさえ喧しいのに、一糸まとわぬ裸体画をさらすとは 博覧会の裸体画陳列問題『明治28年(1895年)4月14日 日本』

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 これは当時の有名な洋画家黒田清輝の裸体画で、初め新聞は当局はなぜ取り締まらないのかと騒いでいた。しかし当局がその絵の女性の局部にだけ黒布を掛けて見えないようにしたら、今度は「芸術を解さない」と攻撃した。

 


←黒田清輝








・南米ブラジルに移民の計画『明治29年(1896年)6月12日 読売新聞』

 政府がブラジルと通商条約を結んだことで、条約が成立すると2万人の移民が送られることになった。


1900年代初期のサンパウロ↓  移民船↓笠戸丸  コーヒー栽培↓

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↑ジャガイモ栽培農家   ↑移民奨励ポスター     ↑お茶栽培農家

   

・匪徒義和団北京に乱入 列国公使館が危険に『明治33年(1900年)5月20日 国民新聞』

 この時は欧米諸国から日本に出兵して居留民を守るよう要請された。

 
       ↓檄文           ↓連合国兵士  ↓北京議定書
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     ↑義和団兵士


・日英同盟成立 桂総理大臣 議会に報告『明治35年(1902年)2月13日 時事新報』

 イギリスがロシアのアジアでの南下政策を恐れて日本と同盟を結んだ。この条約のおかげで、日露戦争で日本は有利になった。

 

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↑桂太郎(11・13・15代内閣総理大臣) ↑1次日英同盟条約批准書署名原本

 

・厳頭の感の一文 華厳の滝に藤村操投身『明治36年(1903年)5月27日 報知新聞』

 高等学校生の藤村が家出し、「厳頭之感」という詩を残して滝に飛び込んだ。以後、若者の自殺が流行った。

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                       華厳の滝↑
藤村操の巌頭之感
悠々たる哉天壤、
遼々たる哉古今、
五尺の小躯を以て此大をはからむとす、
ホレーショの哲學竟(つい)に何等のオーソリチィーを價するものぞ、
萬有の眞相は唯だ一言にして悉す、曰く「不可解」。
我この恨を懐いて煩悶、終に死を決するに至る。
既に巌頭に立つに及んで、
胸中何等の不安あるなし。
始めて知る、
大なる悲觀は大なる樂觀に一致するを。
  

・露兵続々と南下『明治36年10月16日 東京朝日新聞』

 ロシア兵が連日、南満州に輸送され、旅順、大連の兵営では昼夜兼行で防御工事が行なわれていると伝えている。

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注:画像はすべて、ウィキペディアからの引用 青字は挿入
  明治時代年表 http://meiji.sakanouenokumo.jp/1900.html 
藤村操 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E6%9D%91%E6%93%8D 


聖書の言葉 詩編4:1
 4:1 わたしの義を助け守られる神よ、わたしが呼ばわる時、お答えください。あなたはわたしが悩んでいた時、わたしをくつろがせてくださいました。わたしをあわれみ、わたしの祈をお聞きください。(口語訳)
【NKJV】 Psa 4:1 Hear me when I call, O God of my righteousness!You have relieved me in my distress;Have mercy on me, and hear my prayer.
皆様の上に、神様の祝福と平安がありますように。
 
■日清戦争の原因と戦闘状況(第20回)
 日清戦争はどうして起こったのだろうか。明治10年代から朝鮮では内乱が続いていた。政府の中は日本に援助を仰ぐ者、清国に願う者と分かれていた。それで両国が互いに兵を出し合ったりして不穏な状況になっていた。日本に亡命した政治家もいて、その政治家が反対派の韓国人に暗殺されたこともある。
 20年代には「東学党の乱」(農民一揆のような暴動)が大きくなり、朝鮮政府は自力で抑えきれなくなった。それで朝鮮政府は、清国に援助を求めた。
 イメージ 5
・清国の尊大暴慢 いたずらに事を日本に構う『明治27年(1894年)7月14日 時事新報』
 前月初めに朝鮮国内で東学党の内乱が起こり、朝鮮政府の力では平定できそうもなかったので、清国は朝鮮をそそのかせて援兵を頼ませた。清国は天津条約(朝鮮に派兵する時は、日清両国とも互いに事前に通知する取り決め)があるにもかかわらず、出兵の通知が日本に到達するかしないかの瞬間に、大軍を牙山に上陸させた。
 日本政府は黙視できず、我が居留民の安危も懸念すべき状態なので、出兵の止むなきに至った。
 
 朝鮮に出兵した両国は、互いに撤兵を要求したが譲らない。そうして8月1日、両国が宣戦布告した。戦いは27年8月に始まり、翌28年4月18日に講和条約が結ばれ、8ヶ月余りで終わった。その中から海と陸の戦闘を一つずつ。
 イメージ 6黄海海戦を描いた浮世絵(画:尾形月耕)
・死をもって火薬庫の危険を護る 勇敢な水兵「定遠はまだ沈みませんか」『明治27年(1894年)10月6日 時事新報』
 海洋島付近の海戦
で「松島」の副艦長・向山少佐はこう語った。
↓中国艦隊を攻撃する松島を描いた浮世絵(画:春斎年昌、出版:小森宗次郎)
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 敵弾が艦上で破裂し、肉飛び血ほとばしって多くの死傷者が出た。兵士らはますます勇奮し、幾多の死体を飛び越えて働いた。1等兵曹と4等水兵の両名は艦の下層の弾薬庫を護り、今にも燃え移る危険の中で自分の服を脱いで火を防ぎ、艦の危険を防いだ。
 またある水兵は身に10数箇所の傷を受け、気息えんえんたる中で、私に
「副長殿、定遠は未だ沈みませんか」
 と言った。私は、
「心配するな。定遠はもう発砲できないほどにやっつけた。これからは鎮遠をやる」
 と答えると、彼は微笑して、
「どうか仇を討って下さい」
 との一言を最後に息絶えた。死に瀕しながらなおも勝敗を気にしているのかと、私の胸中は張り裂けるほど苦しかった。
 
 これは戦争の勝敗を決した黄海大海戦の報告記事である。この場面は戦後「勇敢なる水兵」として歌になり、小学校の教科書にも載った。
 次に陸軍の戦闘記事はかなり面白い。
↓黄海海戦を描いた浮世絵(「於黄海我軍大捷 第一図」画:小林清親)
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補:「勇敢なる水兵」 ウィキペディア http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%87%E6%95%A2%E3%81%AA%E3%82%8B%E6%B0%B4%E5%85%B5
 
 
奇妙な戦闘記事(第21回)
  幕末・明治への旅 ご先祖さまに聞く「何があったの?」古新聞で読む日本近代史
 
・世界に誇るに足る帝国軍隊の行動 仏国従軍記者が驚嘆して語る『明治28年(1895年)2月22日 報知新聞』
 仏国フィガロ紙記者カレスコー及びイルエストラシオン紙記者ジョセフ・ラローの両氏は、第二軍とともに威海衛方面に向かい、去る15日に帰朝した。両氏はある人に次のように語った。
 余等が第一に感じたのは、日本軍が栄城湾に上陸の際、万の兵卒と千の人夫が整々粛々と少しの混乱もなく終了したこと。第二に司令部の用意周到さに驚いた。余等が上陸すると既に住民慰撫の公示が掲げられ、村はずれの家には「産婦あり、入るべからず」と張り紙してあった。第三に人夫がよく労働に耐え、食事は1椀の飯と2個の梅干に過ぎないのに、寒苦を忍んで運送に僅かな遅滞もなかった。
 摩天嶺占領の日のことである。日本軍が北端の砲台を攻撃すると、守備兵は散りぢりに敗走した。するとどこからか妖艶な美女が現れた。敵将の妾で逃げ遅れたものだろう。川村中佐は道を教えて、この女性を避難させた。
 その後すぐ、乳児が地上に置かれて泣いているのが見つかった。きっと先ほどの女性の子供であろう。あまりに可哀想なので六師団大隊長の樋口大尉が抱き上げ、なだめたので泣きやんだ。大尉は捕虜を呼び、「この子の母親を見つけて届けてくれたら、お前を釈放してやる」と言った。捕虜は大喜びでその子を抱こうとすると、嫌がって泣き、大尉から離れたくない様子だった。
 仕方なく大尉は、左手に子を抱き、右手に剣を持って全軍を指揮し、砲台に向かって進攻した。 
*補 http://www.eonet.ne.jp/~zarigani/ukip/uki3.htm に画像アリ 
   陸海軍人高名鑑 「第六師団大隊長 樋口大尉」 是非御覧ください。
 
 今回、日本が清国と戦うに至ったのは、この行動から見ても大義から出たことは明らかである。日本の将卒は決して殺戮を好んでいない。戦争はもともと野蛮な行為である。敵が我に向かって残酷に振るまうならば、我が之に応ずるのに咎めはない。しかし日本軍は寛大な措置で捕虜を遇し、病気や負傷した者は治療している。
 清国軍はとみると、日本軍卒が彼等の捕虜になると、あらゆる残酷な刑罰を加えて苦しめているではないか。手足を切り、睾丸を抜くなど、野蛮人でなければそんなことは出来ない。
 それなのに日本帝国は、暴に報いるに徳を以ってしている。さすがに東洋の君子国たるに恥じない、というべきだ。
 
 この記事を読んで私は嬉しかった。日清戦争には外国の記者も従軍していたのである。フランスのフィガロといえば一流紙である。フランスは戦後、三国干渉に参加した国だから親日国ではない。そういう国の記者が名前を出して話しているのだから、記事は信用していいと思った。
 今、中国、韓国がやたらに宣伝している南京大虐殺、従軍慰安婦などのことも、こういう外国の従軍記者がいたら、正確な事実が分かっただろう。
 また、この話は私の子供時代の記憶とぴたりと一致する場面があった。小学低学年の頃、我が家に「明治絵画史」というような大型の本があった。明治時代の大きな出来事を絵にしているのだが、その中に不思議な戦争の絵があった。日本軍が坂の上の方にある敵陣を攻撃している。兵は鉄砲を撃っているのだが、先頭の指揮官は片手に赤ん坊を抱いて、剣で前方を指示しているのだ。
子供なので説明文は読めなかった。今思えば、この記事の場面だったのである。当時は有名な戦争エピソードになっていたのだろう。
そう思っていたのだが別な資料を読んでいて、また新しいことも分かった。当時の従軍記者にはいい加減な者もいて、金を出せば言われた通りの記事を書いていたというのだ。
同業者としてそんな記者がいたとは思いたくはないが、120年前の話で、当事者に確かめることは出来ないのは残念だ。
日清戦争は日本の勝利で終わったが、直後に「三国干渉」があった。
 
・ああ、三国の干渉来たる 幾千万の生霊を賭して得たる平和、いつか又再び撹乱さるるに至らむ『明治28年(1895年)5月14日 東京日日新聞』
聞くところによれば、4月23日、露、独、仏の3国政府より我が政府に申し込んできたのは、大陸における土地の永久保有を止めよ、ということだった。我が政府は数回の会議を開き3国と交渉した後、応諾した。
我が国がこのように速やかに応諾したのは、3国と和親を破らないように決した以上はそれを守るとともに、第三者である列国に日清両国との案件に口をさしはさまないようにするためである。
 
 これは清国との講和条約で「遼東半島は永久に日本のものとする」と一度決めたのに、ロシア、フランス、ドイツの3国が「東洋平和のためにならない」と威嚇し、横槍を入れてきた。3国は強国で日本はとても勝てないので、返還することにした。しかし3国はその後、清国から次々に領土を借りたり奪っている。2年後の明治30年にロシアが占領した旅順の基地は、同国の南下政策の拠点であり、日露戦争ともつながってくる。
 
     イメージ 1   イメージ 2 
       連合艦隊旗艦 松島           日清戦争 戦場地図
 
   イメージ 3   イメージ 4
          一斉射撃           ジョルジュ・ビゴーによる当時の風刺画                                     (1887年)          
 補 ウィキペディアより
 
樋口 喜吉(ひぐち きよし、186559慶応元年415 - 1934昭和9年)712)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将予備役編入後、光学関係の研究に従事し、特許権実用新案権を取得した。
特許 測距望遠鏡 19169月 集光鏡 19186月 顕微鏡同軸式微動装置 19204
プリズム眼鏡 192011月 縦横四線式微動装置 192212月 内空ノ翼車ト船端ノ導壁トニ依ル船舶推進装置 1927
実用新案 顕微鏡微動装置 19182月 顕微鏡簡保持器 19182月 顕微鏡輝照装置 19222月 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%8B%E5%8F%A3%E5%96%9C%E5%90%89 
 
回をお楽しみに
■日露戦争までの10年間(第22回)
 武藤様 有難うございます。 
 
聖書の言葉
 列王下  20:19 ヒゼキヤはイザヤに言った、「あなたが言われた主の言葉は結構です」。彼は「せめて 自分が世にあるあいだ、平和と安全があれば良いことではなかろうか」と思ったからである。
 
 一テサ  5:3 人々が平和だ無事だと言っているその矢先に、ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むよう 
 に、突如として滅びが彼らをおそって来る。そして、それからのがれることは決してできない。
 
 二テサ  3:16 どうか、平和の主ご自身が、いついかなる場合にも、あなたがたに平和を与えて下さるよ うに。主があなたがた一同と共におられるように。
 
 
■政治家と財閥の役割(第19回)
幕末・明治への旅 ご先祖さまに聞く「何があったの?」古新聞で読む日本近代史                    (遅くなりました。 げんきになりました。)
 武藤様 ご寄稿、有難うございます。
 
・丸の内払い下げ その理由と結果 10万坪が150万円で岩崎の手に落ちる『明治23年(1890年)3月3日 国民新聞』
昨年から話題になっていた丸の内陸軍省用地払い下げの件は、内務省に委託して入札法により公売にしていた。しかし公売による価格は予算より非常に安く、払い下げも取り止めになると見られていた。
今般、三菱社と協議が出来て、陸軍省の予定通りの価格で同社に払い下げることが決定した。陸軍省としては、新しい施設を現状にあった場所に設営するには170万円を必要とし、これを払い下げ代金でまかなう計画だった。そこで入札法により公売させたが67万円にしかならなかった。これでは不足で取り止めになった。
しかしながら陸軍省では会計法その他の理由もあって、払い下げを明治22年以内に決定しておかないと、移転がいつ出来るか分からなくなる。そこで止むを得ず大資本家に頼んで、一手に払い下げることになった。
即ち、三菱社の岩崎弥之助氏と話し合い、総坪数10万8035坪を約150万円で払い下げることに決定した。
 
イメージ 1

 三菱  岩崎 弥太郎 初代         岩崎 弥之助 2代目           岩崎 久弥 3代目

10万坪が150万円とすると1坪は15円である。今では日本一のブランドであるビジネス街。今から120年前の話だ。ちなみに明治23年度の国家予算総額は8198万81円42銭だった。都内のちょっとした高級マンション1戸の値段である。
(補:http://www.mitsubishi.com/j/history/  「三菱の歴史」  三菱の関連資料がある。  
      当時の土地など)

お金の話のついでに、当時の総理大臣から巡査まで、お役人の給料表を眺めてみよう。
 
・総理大臣その他の給料『明治24年(1891年)7月27日 官報』
勅令
朕、茲二高等官任命及俸給令ヲ裁可ス。
内閣総理大臣     9600円(年俸)
各省大臣       6000円
次官          4000円
内閣法制局長官     4000円
部長          3000円
 
巡査の月俸は以下の如し
1級            10円
2級             9円    
3級             8円
巡査勤続満9年以上の者は  12円
満12年以上の者は     15円
 
総理大臣の年俸を月給に治すと800円。1級巡査の80倍だ。これも現状に比べてみよう。今の警官の平均的な月給を30万円とすると、その80倍は2400万円になる。当時の上下の差は凄かった。
ちなみにその頃の物価はどうだったのか。1例を挙げよう。
  (補:明治初年の職官表 http://homepage3.nifty.com/~sirakawa/Coin/J069.htm 
         明治人の俸給  http://homepage3.nifty.com/~sirakawa/Coin/J022.htm  を参照してください)
 
・もり、かけ8厘が1銭に『明治24年(1891年)10月3日 郵便報知新聞』
 去る30日の暴風雨の為、蕎麦の損害甚だしき地方があり、蕎麦粉の値段が騰貴した。このため市中の「もり・かけ」は、8厘の看板が1銭と改められたところがある。
 ついでに当時の政府高官たちは、どういう遊びをしていたのだろうか。
 
・伊藤、大山、樺山の3豪傑 京都で飲む『同年10月9日 濃飛新聞』
 伊藤博文(枢密院議長)と大山巌(陸軍大臣)、樺山資紀(海軍大臣)の3人が京都に遊び、祇園で飲んだ。酒あり泉の如く、妓あり花の如く、興に乗ったところで博文は美妓3人をそれぞれの相手に選んだ。
 やがて大山が便所に行ったすきに樺山が博文にささやいた。
「巌は品行方正で遊ばないのに勝手に決めてしまった。どんなつもりなんだ」
「やぼなこと言うな。そう言われていても、美女が嫌いなわけじゃない」
「それじゃ百円賭けよう」
 博文は応じた。翌朝、樺山が宿の女中に「大山大臣はいるか」と聞いた。女中は「昨夜は泊らずに、お帰りになりました」と答えた。樺山は喜び、博文に「百円よこせ」と言った。博文は「昨夜は酔いにまかせての冗談だ」と逃げようとした。
「そうか、約束を破るんだな。それなら東京に帰ったら君の家に行き、奥さんに話して百円貰うからな」
「とんでもない、女房にだけは言うな」
「それなら約束を履行するか」
 ここで博文は多いに困った。 
 
この手の話は当時の新聞に多かった。政治家たちはそれで攻撃されることはなく、読者は面白がっていたようだ。大山夫人は捨松といい、青森県士族の娘で明治4年、12歳でアメリカ留学した才女である。大山は夫人に頭が上がらない恐妻家として有名だった。
 しかしこの頃から、朝鮮をめぐる国際情勢は緊迫していたのである。

イメージ 3
イメージ 4

イメージ 2

岩崎 弥太郎の銅像          弥太郎の生家      土佐山内家土佐柏紋  岩崎家 重ね三階菱 
________________________________________
次回は ■日清戦争の原因と戦闘状況(第20回)ご期待下さい。


聖書の言葉
 申命記 8:17 あなたは心のうちに『自分の力と自分の手の働きで、わたし はこの富を得た』と言ってはならない。
 
 申命記  8:18 あなたはあなたの神、主を覚えなければならない。主はあな たの先祖たちに 誓われた契約 を今日のように行うために、あなたに富 を得る力を与えられるからである。

 箴言 11:28 自分の富を頼む者は衰える、正しい者は木の青葉のように栄 える。
 
皆様の上に 神様の平安とお守りがありますようにお祈りしています。
 

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