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9.■八大君の最初のコンサート
八大君と初めて会ったのは昭和18年(1943年)、私が小学5年か6年の時だった。青島の第一国民学校から転校して第二国民学校の原田先生の組に入ってきた。「中村ハチダイ君です」と紹介されて変な名前だなと思ったが、私の直大と似ていたので親しみを感じた。私は「ナオヒロ」と読むのだが、あだ名は「チョクダイ」だったからだ。
帰る家も忠の海の方角で私と同じだった。当時は同方向の児童はまとまって一緒に登下校することになっていて、私はそのグループの班長だった。
6年生のある土曜日の放課後。校門の近くで班の全員が揃うのを待っていたが、八大君がなかなか出てこない。教室に呼びに行かせると「弁当を食べている」とのこと。こちらは家に帰ってから食べるので腹が空いている。もう一度「速く食べろ」とせかせにやった。
その様子が周りからは、我われ悪ガキが八大君をいじめている、と見えたらしい。原田先生に注進がいったのである。教室にいた一人がやってきて、
「先生が職員室に来いって」
班長の私と呼びに行った者が入っていくと、「なんで友達にそんなことをするんだ」と怒られて、しばらく立たされた。八大君は小柄できゃしゃな体格だった。傍からはいじめに見られても仕方がなかった。2、3分で「もういいから、早く帰れ」と言われ、校門に行くと全員が揃っていた。
「お前のおかげで立たされちゃったぞ」「そうなんだってねぇ」
と笑いあって終わり。いつものようにおしゃべりしながら帰った。
実は八大君は当時、土曜日の午後は学校帰りにドイツ人のピアノの先生に習いに行っていた。だから弁当を食べないともたなかったのである。普段は速く食べて、昼飯を食べないで帰る我われをほとんど待たせなかったのだが、その日は何かの事情があって食べるのが遅くなったらしい。そういう細かいことは先生に説明しなかった。
原田先生は軍国主義を信ずる厳しい先生だった。当時としては当然のことで、厳しくても熱心な授業で曲がったことが嫌いな先生を、クラスの全員が好きで信頼し尊敬するようになっていた。私もちょっとぐらい誤解されるのは平気だった。
昭和19年の卒業文集に八大君の言葉も載っている。
「断じて行えば鬼神もこれを避く。山本元帥(注・戦死した連合艦隊司令長官)の国葬に参列した私は二度とない気持ちを味わった。涙が自然に出るのである。私は真珠湾の奥深く水く屍と散った横山少佐(注・特殊潜航艇による真珠湾攻撃で戦死、軍神とされた)のこの言葉を信条として生き抜く」
クラスの全員がこれに似たような決意を書いている。なお原田先生は戦後、教師をやめて、ずっと自分の行動を反省されていた。
昭和19年には青島中学に入った。太平洋戦争の真っ最中である。ある日突然、全校生徒が講堂に集められた。勤労動員のなかった日で700人ぐらいいた。何があるのかと思っていると、音楽の黒澤先生が壇上から重々しく訓示した。
「我が校にピアノの天才が入ってきた。中村八大君である。今日は特別に演奏してもらうことにする。滅多にない機会だからよく聴きなさい」
学生服でピアノの前に座った八大君は、最初にベートーベンのピアノソナタ「月光」を弾いた。難しい曲はその1曲で、後は当時よく歌われていた軍歌のメドレーになった。
勇壮な曲、哀愁のこもった曲などを強弱をつけ、感情を込めて一時間近く弾きまくった。皆が聞き惚れて終わると大拍手だった。
八大君にとっては最初のコンサートだったに違いない。中学1年の13歳。選曲も演奏のスタイルも自分で決めたものだろう。今から思うと、編曲はピアノ独奏用に自分で考えてやったはずである。ラジオやレコードなどで聴いていた軍歌とはかなり違った感動が伝わってきた。
最後に会ったのは八大君の晩年で、あまり大きなコンサートなどに出演しなくなってからである。私も新聞社を退職して時々、本を書いていた。ある出版社が私との関係を知って、八大君のことを書いてくれないかと言ってきた。
会うと快く承諾してくれたが、話しているうちに私の音楽的な素養の無さが痛感された。クラシックもジャズも専門的な知識はゼロだから、いいものを書く自信がなくなった。「もう少し勉強してからにしよう」と延ばしていた。
その時、話をしているうちに八大君が地方の小・中学校を回ってピアノ演奏をしていることを知った。全くお金にならない、誰にも知られない地味な仕事である。どうしてそんなことをしていたのだろうか。理由までは聞かなかった。
つい先日、NHKの年末番組に指揮者の小沢征爾が出ていた。彼が忙しい日程の合間に「音楽キャラバン」をしていることを知った。バス1台に小人数のオーケストラを乗せて、日本の田舎を回っているのである。演奏場所は小学校やお寺の本堂。もちろん無料である。そこにはオーケストラやクラシック音楽など生まれて初めて、という子供やお爺さんお婆さんなども聴きに来る。
「お婆さんの表情を見ていると、うなづいてくれる。それが嬉しいんです。音楽は世界共通、確かに分かってくれたことが伝わってきてね。大都会、大ホールのコンサートでは味わえない歓びですよ」
と話すのを聞いて、私は小沢さんを見直した。それとともに八大君を思い出した。音楽家として、きっと同じ心境だったに違いない。そうしてその原点は、私が聴いた青島中学の無料コンサートだったのかもしれない。
最後に中村君に聞いた話を混えながら、彼の音楽家としての略歴をたどってみよう。
昭和6年1月20日青島生まれ。小学校に入る頃、父が八大君の姉のためにピアノを買った。ところが姉さんの方はピアノがあまり好きじゃなくて、代わりに八大君が小さな体で椅子によじ登って弾いて遊んでいた。
第一国民学校の校長をしていた父親は、八大君が小学校2、3年になってもピアノが好きだったので才能を認めるようになった。一時期、日本の音楽環境のいい学校に転校させたが、すぐ青島に戻る。父親が校長を退任すると、八大君は私のいた第二国民学校に転校してきた。この頃には本格的にピアノを練習していて、個人レッスンを受けるドイツ人教師の家に近いからである。それで冒頭の弁当事件が起きたのだ。
戦後、落ち着くと、八大君は郷里の福岡県から上京して、早大学院、そして早大文学部に入った。大学在学中からプロのバンドに入って演奏、やがてジョージ川口、松本英彦、小野満と組んで「ビッグフォー」を結成、たちまちジャズ界で日本一の人気バンドとなった。
演奏活動を続けながら、30代半ばぐらいから作曲に重点を移していく。最大のヒット作は「上を向いて歩こう」(1961)だろう。日本だけでなくアメリカでも発売され(1963)、「SUKIYAKI」の曲名で全米チャート1位(ビルボードが3週連続、キャッシュボックスが4週連続)になった。日本人では初めて。これは坂本九が歌ったものだが、後にアメリカ人の歌手たちも歌ってヒットさせ、世界中で流行った。
他にも「黒い花びら」「こんにちは赤ちゃん」「遠くへ行きたい」などでレコード大賞を受賞している。平成4年没。63歳の生涯で数え切れないほどの作品を残したが、どんな曲にも優しく明るく深みのある「おとなの味」がする。普通のポピュラー音楽作曲家とはかなり違うのである。
それは八大君にクラシックの素養があるからだろうが、私には全曲を通じて初夏のアカシアの甘い香りが感じられる。そして中国大陸の広大さも。「明日があるさ」「おさななじみ」などを聴くと八大君の生き方そのものだ。あの豊かな才能の中には、青島の自然が育んだ部分もあると感じてしまうのである。
以上、武藤 直大様の寄稿文
ありがとうございました。これからもお元気でお過ごしください。
中村八大様 画像
中村八大 ウィキペディア
相子老婆的山南海北的話中村八大さん第16回 青島満帆ピアノの中村八大君中村八大さんと青島中村八大氏のお父さん中村八大さんの旧宅を探す月刊青島
www.qingdaojs.org/qd-nihonjinkai/gekkanqingdao/.../page07_3.html中村 八大
「上を向いて歩こう」の中村八大が通った青島の中学を訪ねる
などを、参照ください。
聖書の言葉(口語訳)
列王上 8:23 言った、「イスラエルの神、主よ、上の天にも、下の地にも、あなたのような神はありません。あなたは契約を守られ、心をつくしてあなたの前に歩むあなたのしもべらに、いつくしみを施し、
ヨブ 34:21 神の目が人の道の上にあって、/そのすべての歩みを見られるからだ。
皆様の上に、神様の祝福とお守りをお祈りしています。
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