BGMは、宮OST『invisible heart -Acoustic Version』『falling leaves -Piano』で♪
〈3〉
シンが次に辿り着いたのは、人気の無い薄暗い音楽科のピアノレッスン室。
個室を取り囲むフロア中央のグランドピアノがアングルに入るようにシャッターを切る。
──ここも、苦い想い出の場所だ。
いつも元気で勝ち気なあいつが、タイでの俺のスキャンダルに心を痛め、食事もまともに
摂れない程ショックを受け体調を崩し、微熱があるのに無理にそれを隠し登校したあの日。
まさか、ヒョリンとあいつが直接対峙するなんて!いつかはこんな日が来るかも?…とは
思っていたが、大勢の生徒達の前で派手にやりあうなんて…女の醜い争いに辟易して半ば
呆れ気味にその様子を傍観しようとしてみたが、パパラッチの餌食になるのも困る。
内心気が気じゃなく、しばらくしてから様子を見に行ってみると、そこには、予期せぬ、
俺の心臓が止まりそうな光景が待っていた。
チェギョンが、顔面蒼白で、瞼に暗く深い影を落とし、意識を失って倒れていた…
しかも、そのチェギョンをユルが抱きかかえている!
『チェギョンに一切、触れるな!』心がそう叫んでいた。
「どけっ!!」
──思えばあの時、いや、その前の落馬事件の際、初めて俺の理性の糸がプツンッと切れた。
俺の中で、ユルに対して抱いていたモヤモヤとした苛立つ感情の名は"嫉妬"といった。
初めて感じる激しい感情…
今まで朧げだった自分の中の心の扉の鍵が砕け散り、あの時一気に開いたのかもしれない。
愛情・怒り・嫉妬…人間の持つドロドロとした感情、制御不能な本能、そして、初めて知る、
『彼女がこのまま目覚めなければ?』という得体の知れない不安感が俺を襲った。
俺の瞳には、既にヒョリンなんて映ってなかった。映ったのはただ一人、シン・チェギョン
という名の俺の妻。何故かいつも俺の心を激しく揺さぶるあいつの存在だけだった…
チェギョン、おまえはいつの間にか俺の心をスルリと簡単に支配して、俺の中で眠っていた
『初めて』の感情をいくつも無意識に呼び覚ましたんだ。
シンは、レッスン室の扉のフレームにもたれ掛かり、倒れたチェギョンを運んだ記憶を辿った。
──初めて抱きかかえたあいつの体重の予想外の軽さには、正直驚いた。
壊れそうな程、細く華奢な躰に、俺の中で今までにない不思議な感情が芽生えたんだ。
あいつ、いつも飛魚のように威勢が良いのに、こんなに折れそうな程儚く華奢なのかって…
こんな小さな躰で必死にあの宮中で・学校で・世間の間で、歯を食いしばって笑って来たの
か…と。
ベッドで意識の無いあいつの頬を伝った一筋の涙を見た瞬間、さすがに罪悪感を感じた。
『俺が守らなければ…せめて、離婚するまでは。
…いや、離婚せず、ずっとおまえを守って行きたい…』
ふと、そんな感情が、朧げに俺の中で沸々と芽生え始めていたんだと思う。
あの頃にはもう、きっと俺はあいつに完全にノックアウトされていたのかもしれない。
"手放したく無い"と…
シンは、あの時のように同じコースを辿り、階段を降り、正面玄関の車寄せ付近まで歩きながら、
更に物思いに耽った。
──なぜ、あいつに入宮前に『離婚してやる』なんて軽はずみに言ってしまったんだろう?
最初、見ず知らずのあいつが金目当てで結婚を承諾したと聴いて、品の無い、卑しい奴だと
思い、嫌気が刺した。やること成すこと宇宙人のようなあいつが鬱陶しくて嫌いだったし、
あの頃の俺は、敷かれたレールの上で歩くしかない人生に対して投げやりで、正直あいつが
どうなろうがどうでも良かったから、あんな簡単に離婚を切り出せたんだよな…。
俺って救いようが無い愚か者だな。ガキ過ぎ…。
インタビューで離婚を口にしたチェギョンを責める資格なんて最初から無かったんだ…
倒れたチェギョンを車に乗せてシンの膝の上でも一向に意識を取り戻さない姿、
登校時の明るく、ピースサインで調子に乗る姿、車内で憂鬱そうに笑顔の消えた姿、
様々なチェギョンの姿が、走馬灯の様にシンの脳裏を駆け抜けた。
突然のシンの登場に騒がしい周囲の喧騒など耳目にも入らず、シンは校門付近を撮影し、独り
深海を彷徨うように自分の世界に入り込み項垂れながら、美術科校舎方面へ続くグラウンドに
向かった。
──『離婚してやる』その俺の一言が呪縛になり、そこから一歩も動けないように、その後、
どれほど互いの気持ちの足枷となって誤解を生んで来たのか計り知れない。
俺があの不吉極まりない忌まわしい言葉を発したが故に、あいつを苦しめ、いつしか限界
まで追いつめ、今、こんな風に別れて暮らさなければならなくなったんだ。
全ての原因は俺にある…。
世間知らずも甚だしい俺の曖昧な優柔不断さ、未熟さ、幼稚さ故に、こんな事態を招いて
しまったんだ…。
あいつの心はずっと俺に向いていたということにも気付かず、自信も持てず、愛する人を
一番苦しめることになってしまった…
言葉にしないと相手に気持ちは伝わらない。本当にそうだな…
そんなこと、今まで誰も教えてくれなかった。どうすればいいのかわからなかった。でも、
プライドなんか捨てて、もっと早く素直になって、あいつを心から大切に思っていること
を、態度で、言葉で‥はっきりと示すべきだった。
「不器用にも程があるな…情けね…」
──皇太子として、感情をニュートラルに保つことを強いられ、感情表現を抑えるように育った
からなんていうのは、ただの言い訳にもならない。言葉を発しなくても理解して貰えると
思っていた身勝手な俺のエゴと甘え‥。結局、全て俺の未熟さが悪かったんだ…
いつの間にか、グラウンドに辿り着いていたシンは、ふと美術科と舞踊科の実習棟が隣接する
2階フロアを見上げた。
美術科のイーゼルが今日も並んでいる通路側にファインダーの焦点を合わせてシャッターを切る。
そのイーゼルの方を懐かし気に眺め、チェギョンの幻影がフワッとシンの瞳に浮かび上がった。
──あいつは、きっと知らない。
下駄箱の前で巡り会う前に、ここで俺があいつの姿に気が付いていたことを…。
確かにあの時は、ヒョリンの姿に見とれた。凛とした他の舞踊科の生徒達とは一線を凌駕す
る圧倒的な存在感が、眩しく眼に映ったのは確かだ。それほど、ダンサーとしての強烈な
個性を彼女は放っていた。…なんていうか、一種の憧れみたいなものか…。
でも俺は、隣の美術科の絵を描いていた幼気な団子頭の女のことがなぜかチラッと見かけた
だけなのに心に引っ掛って、妙に印象に残っていたんだ。
防犯&社交上、長年培った特技で、遠目でも一瞬で周囲の人間の顔をインプットできる技を
持っている俺は、ギャーギャー騒ぐ女生徒達の隣に二人だけ黙々と絵に集中している女生徒
が居ることを見逃さなかった。1人は後に知ることになるギョンの白鳥で、もう1人はお団
子頭に鉛筆を刺した変な女、そう俺の妻になるチェギョンだった。
あの二人だけは、俺に興味無さげで黙々と絵を描いているようだった。
チラチラとこちらを気にしてるようではあるが、大騒ぎせず、自分の作品に集中していた。
『ふぅん。なんだ、ちょっとはマシな人間もいるのか?』と密かに思ったんだが…
実際に出会ったばかりのあいつは、やっぱり美術科、しかもデザイン専攻だけあって、
思考回路は理解不能で宇宙人そのもの。強烈な個性を放っていたな…まったくッ(笑)
俺、なんであんな変な女に惹かれて行ったんだろうな?
珍獣みたいな変な女だったからか?ハハハッ
カメラを降ろし、柔らかく微笑んで青空に浮かぶ眩しい輝きを放つ太陽を見上げ、目を細めた。
──チェギョン、おまえにこの写真を見せたら、どう反応するかな?
気付いていたか、訊いてみたい。
逢いたい、声が聴きたい、おまえを抱きしめたい…。
シンの心は、益々チェギョンを渇望していた。
──『逢いたい』っておまえに言いたい。
『愛してる』っておまえに伝えたい。
『淋しい』って言ってもいいか?
果てなく抑えの効きそうにない自分への戒めで、今まで直接連絡を取る事を我慢して来た。
でも、ちょっと、そろそろ俺も限界‥かな…
太陽の陽射しを受け、シンはその眩しさに耐え切れず、切な気に瞼を閉じた。
《JPG File/Credit:GUNGGAL》
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