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「あなた方は自分が何を望んでいるか、分かっていない」
主は、心に深く残る言葉をお話しくださいました。決してヤコブとヨハネだけにそうおっしゃっているわけではない。この私にも主はおっしゃっている。今そう感じています。 実に、私たちはたくさんの願いを持っています。そのたくさんの願いを祈りの中に込めています。でも、私たちが捧げる祈りの中には、「あなたは自分が何を望んでいるか、分かっていない」そう神さまが思われる祈りも、混ざり込んでいるのかも知れない。神さまがそう思われる祈りが、もしかして多いのかも知れない。 私たちは幸せになりたい。心を豊かにしたい。だからこそ、願いがあり、祈りがあります。こうなったら私は幸せになれる。ああなったら私は心豊かになれる。そうした私の人生設計があるのです。ある人は詳しい設計図を引いていらっしゃる。ある人はおおざっぱな設計図を引いていらっしゃる。違いはありますが、人はそれぞれ人生の設計図持っています。問題はその人生の設計図を誰が作ったのか。誰がその人生の設計図に線を引き入れたのか、ということです。 私たちの人生の設計図は、私自身が考え、私自身が線を入れました。私たちのちょっとした自信作です。この設計図に従って家を作れば、ステキな家が完成すると思っています。ところが、イエス様の判断はまったく違っているのです。「あなたは自分が何を望んでいるか、分かっていない」とおっしゃる。あなたの設計図どおりに家を建てても、「その家は崩壊してしまいますよ。壊れてしまいますよ。」とおっしゃっているのです。 「あなたの人生の設計図を、引き直してみませんか?」と主イエスはおっしゃいます。「あなたの望み、あなたの願いが一杯に詰まった設計図ではなく、神さまの望み、神さまの願いに基づく人生の設計図。新しい設計図を引いてみませんか?この新しい人生の設計図で、あなたは本当に祝福され、幸せになれますよ。」主はおっしゃるのです。 設計図にはコンセプトが必要です。「どういった人生を送るのか」という大本です。主はおっしゃいます。「仕えなさい。私は仕えてもらうためにこの世界に来たわけではありません。私は仕えるためだけに、この世界に遣わされました。私を信じ、私を愛する人は、私のように仕えなさい。」 「仕える。」誰かのために、何かをする。それが仕えるということです。イエス様は牧師だけではなく、役員だけでもなく、すべての人に「仕えなさい。」とおっしゃいます。「愛をもって仕えなさい」とおっしゃいます。 主がおっしゃったことをみなさんにお伝えするのが、私の仕事です。ですから、この礼拝の場で「みなさん、隣人に仕えなさい」と言わなければいけないのでしょう。でも、私はためらいを感じます。「みなさん、隣人に仕えなさい」と私が講壇からお話しして、ある人は、「そうだ、仕えて生きよう」と思ってくださるでしょう。でもある方々は「そんなことを言われても・・・」と思うかも知れない。またある方は「これ以上、何をガンバレと言うんだ」と思うかも知れない。結果的にその方を追い詰め、苦しめてしまうのではないか・・・。と心配するのです。 教会にいらっしゃるのは、元気な方ばかりではありません。中には、心の病気の方、精神的な病気を負っておられる方もいらっしゃる。また、ご高齢で昔とは違って、何をするもの一苦労と感じていらっしゃる方もおられます。そのようなみなさんが 「隣人に仕えなさい」という声を聞いた時、「とても私には・・・」と思われたり、「私には何も出来ません」と思われ、傷ついてしまうとしたら、大変です。少し丁寧にお話しすべきでしょう。 仕えなさい。イエス様はすべての人におっしゃっています。「あなたは病気だから、あなたはお年だから、あなたは忙しいから、免除してあげましょう。しなくてもいいですよ。」そうはおっしゃいません。でもプレッシャーを感じる必要はありません。イエス様はみんなに同じ奉仕を求めてはおられません。一人一人にノルマがあって、このノルマをこなさないとダメだ!というものではないのです。 弱っておられる方とお話をしていますと、「何も出来なくて」とよくおっしゃいます。自信をなくしておられます。自信をなくして、自分には何も出来ないと思いこんでいらっしゃる方もおられます。とんでもない。お一人お一人に神さまはよいもの与えてくださっています。そのよいものは最後の最後まで失われることはありません。その神さまから与えられたよいものを誰かのために使う。それが仕えると言うことだろうと思います。 先日病院に行き、入院なさっている方をお見舞いしました。元気な私がご病人をお見舞いに行ったはずなのですが、かえって私の方が元気をいただいて帰ってきました。今から受ける検査や治療。やはり不安がおありなんです。病室を出る前にお祈りをしました。私の後に、その方はお祈りをされました。そのお祈りの中で、私のことをお祈りしてくださいました。体調を崩し、この先にも不安を抱えていらっしゃる。本当を言えば、自分のことで精一杯なのではないかと思うのです。ところが、私のことを覚えてくださり、牧師としての働きの上に主のお守りがありますようにと、お祈りくださった。本当にうれしかったのです。 この方は、一つの祈りを通してイエス様の教えを実践されました。「私という隣人に仕えてくださったのです。」自分自身が仕えてもらって、今度は私が仕えたい。そう願ったのです。仕えるとは、このように小さなものの積み重ねに違いないと思うのです。 ひたすらに私たちに仕えてくださったイエス様が、私たちに呼びかけておられます。「仕えなさい。仕え合いなさい。」私に何ができるだろうか?私は感謝の気持ちでどの様に仕えようか?ゆっくりと考えて行きたいと思います。 |
礼拝での木原牧師説教
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姫路五軒屋敷教会の木原牧師さまのお言葉です。
牧師様のご理解を得てブログ掲載させて頂いています。
牧師様のご理解を得てブログ掲載させて頂いています。
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2010年3月21日(日)受難節第5主日
聖 書 マルコによる福音書10章32〜45節 説 教 「仕えるためだけに」 イエス様の御苦しみを思う、レントの今日。私たちは、エルサレムに向かって、ひたすらに歩み続けるイエス様に出会います。この時代、交通手段というものはありません。あって馬ぐらいでしょうか。馬にしても、庶民が乗ることはできません。どこかに行こうとしたら、歩くしかありません。「自分の足を使い、歩いてどこかに行く。」それが当たり前でした。 私が遣わされています姫路五軒邸教会。この教会の礎を作って下さったのは、アメリカ人宣教師のヘイガー先生です。ヘイガー先生はこの教会の宣教師でしたが、一つの教会の中にだけとどまることを良しとせず、わらじを履き、歩いて山崎まで行き、そこで福音の種を蒔かれました。山崎教会の長老さんにうかがったお話です。私もたまに山崎教会へ車で行きます。大きな声では言えませんが、制限速度を2、30キロオーバーして車を走らせています。それでも、4、50分かかります。歩いたら一体何時間かかるのでしょうか?一日で着くのでしょうか?見当もつきません。交通手段がなかったとはいえ、福音宣教への情熱に、頭が下がります。 さて、みなさん。ヘイガー先生はどんな表情で遠く山崎まで歩いて行かれたのでしょう。私の勝手な想像でしかありません。でも私もまた、神さまに立てられた者だから分かる気がします。少し不安もあったでしょう。でも不安よりも遙かに大きな喜びがあったに違いない。 「イエス様の救いを待っている人がいる。イエス様の救いを必要としている人がいる。イエス様に代わって、この私が・・・」 救われ、洗礼の恵みに預かる未来の信仰者の様子を心に思い浮かべ、重い足を引きずりながらも、喜びに満ちて、歩んで行かれたのだろうと思います。喜んで歩み、喜びに満ちて福音を語ってくださった。だからこそ、山崎の地にたくさんの信仰者が与えられ、山崎教会が生まれたのだろうと思います。喜ぶ人だけが喜びを人に与えることができ、福音を信じる人だけが、人に福音を伝えることができる。牧師である私たちは、この事を忘れずにいたいと思います。 では、みなさん。今日私たちが出会う、イエス様の歩みはどうでしょうか?イエス様はどんな表情でエルサレムに向かって歩んで行かれたのでしょうか? いつもとは違っていた。聖書はそう語ります。 「一行がエルサレムへ上って行く途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた。それを見て弟子達は驚き、従う者達は恐れた。」今日の聖書にはそう書かれていますね。 弟子達は感じたのです。「今日のイエス様の様子は、いつもと違う。ちょっとおかしい。」なぜ弟子達がおかしいと感じたのか。イエス様が先頭に立って進んで行かれたからだ。と聖書にあります。私たちはこう思い込んでいました。イエス様はいつも先頭に立ち、「私についてきなさい!」という感じで、たくさんのお弟子たちを引き連れて歩いておられた。でも、そうではなさそうです。学校の先生が子どもたちを引率するように、先頭切って歩まれることはなかったのです。反対にイエス様は、一番足の遅い人にそっと寄り添い、また、目立たないように、集団の一番後ろを歩んでおられたのでしょう。時には先を行く弟子が、「イエス様はいつも遅いな・・・もっと速く歩いてくれたらいいのに・・・」そうぶつくさ言いながら、後ろをふり返ることもあったのでしょう。 ところが、今日のイエス様は違うのです。先頭切って歩いて行かれる。そのイエス様の姿を見て、弟子達は驚き、中には恐れさえ感じる者されあった。後ろふり返ることもなく、ひたすらに前だけを向き、エルサレムに向かって歩んで行かれる。もしかすると、イエス様だけには、あのゴルゴダの十字架が、見えたのかも知れません。 動揺する12人の弟子を呼び、イエス様は再びお話になりました。「このエルサレムへの旅は、私にとって最後の旅になります。人の子は死刑を宣告され、異邦人によって侮辱され、その後殺される。そして人の子は、三日目に復活します。」3度目の受難の予告です。 イエス様の周りには張り詰めた空気があったはずです。ところがそんな中、ゼベダイの子、ヤコブとヨハネが密かにイエス様にお願いをしたのです。マタイ福音書によれば、母に連れられてきたとあります。二人はまるで無邪気な子どものように、イエス様におねだりをしたのです。 「イエス様、お願いがあるんです。怒らないで聞いてくださいね。あなたが栄光をお受けになったら、私たち二人をあなたの右と左に座らせてくれませんか?」 桃の節句に飾られる、「ひな飾り」を思い浮かべてもらったらいいのです。男びなと女びなの下に、左大臣、右大臣が飾られていますね。二人は、「神の国の左大臣、右大臣にしてください。」とお願いしているんです。 ほとんどの説教者や学者は、この二人に対して批判的です。この二人を悪く言います。丁寧な言葉を使っておられますが、ようするに、「十字架を前にして苦しんでおられるイエス様に、よくそんなことが言えたものだ!」とおっしゃっています。確かにそう言われてもしかたないのかも知れない。でも、みなさん。私たちはあまりにも短絡的に判断し、人を裁いているのではないでしょうか?多くの説教者にしても、学者にしても、どこまでヤコブとヨハネの事を知り、その願いの背後に隠された二人の生活体験を知っているのでしょうか? 果たしてよく分かった上で、二人を非難をしているのでしょうか? 学校の授業だというのに、プールの中に絶対に入ろうとしない子がいたとします。教師が何を行ってもまったく聞く耳を持たない。クラスメートが「大丈夫だよ。一緒に行こうよ」と誘っても、知らんぷり。大人も子どももその子を見て、「何だ、こいつ」と思うのでしょう。人の言うことを聞けない、「困った子」と思われてしまうのでしょう。 でも、もしかすると、少し前、おぼれかかって、死ぬほど怖い思いをしたのかも知れない。それで足がすくんで、どうしてもプールには入れないのかも知れない。この経験を知ったら、その子を「困った子」と決めつける人はきっといなかったでしょう。裁くのは簡単です。でも、裁かれて捨てられる人が生まれる。この世界が裁かれて捨てられた人こそを、イエス様が愛された。そのことを思う時、私たちはあまりにも簡単に、人を裁いているのではないだろうか?決めつけていないだろうか? 自分に向かってツバを吐きかけ、自分を十字架かけようとする兵士のため、イエス様がとりなしの祈りを捧げられたことを思い出したい。「この人は、自分が何をしているか分かっていないのです。どうか罪に定めないでください。」とおっしゃった。このイエス様の姿とこの私たちの姿は、かけ離れてはいないのだろうか?私たちが裁き、切り捨てる人たちのため、主は十字架につかれたという事実。深く心に刻んでおきたいと思うのです。 二人の願いは自分勝手で、子供じみています。でも、自分のありのままの願いを、イエス様に包み隠さず、正直に話しているのです。イエス様に対する深い信頼があってこその願いです。みなさんもそうではありませんか?私たちも、時々は甘えたくなりますが、誰でもいい、という訳ではありません。心から信頼していないと、甘えた姿を見せられません。小さな子どもが父親を心から信頼して甘えるように、ヤコブとヨハネもイエス様に甘えているのかも知れません。 さて、聖書のある箇所では、イエス様のことを「大牧者」と呼んでいます。「牧者の中の牧者」という意味でしょうが、今日の弟子とのやりとりを読んでいますと、確かに「大牧者」だな・・・。つくづく思います。弟子たちは実の父親のようにイエス様を慕っていたのかも知れない。イエス様の中に理想的な父親を見ていたのかも知れない。でも、イエス様は決して「父親」になろうとは思われなかった。あくまでも「福音を教える教師」、「弟子達を訓練する教師」として接していらっしゃる。みなさんもそう思いませんか? 「栄光の日が来たら、私たち兄弟をあなたの右と左に・・・」ヤコブとヨハネがそうお願いする前に、イエス様にはその願いが分かっていたはずです。分かっていて、「私にどうして欲しいのですか?何でも言ってごらんなさい」とおっしゃったのです。そして二人は自分達の本当の願いを口にしました。建前ではなく、きれい事でもなく、生々しい本当の願いを口にしました。その願いをお聞きになったイエス様は? 「何てことを言うんだ!それでも私の弟子か!」とはおっしゃらないのです。同時に、「それが二人の本当の気持ちなんですね。まあ、きれい事で人生を生きてはいけませんよね。」ともおっしゃらない。「あなた方は自分が何を望んでいるか、分かっていない」とおっしゃったのです。願いは願いとして受け止めながら、その願いの内容をはっきりと否定なさっているのです。しっかりと受け止めながら、はっきりと拒否される。それがイエス様なのです。 |
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イエス様が、ご自分の口で十字架と復活を教えてくださったのに、六日間も一生懸命教えてくださったのに、ペテロたちは、あまり、いえ、ほとんど理解できなかったのです。だからこそ、イエス様がご自分の十字架と復活をお話しになった時、ペテロはイエス様を叱ってしまったのです。「バカなことを言いなさんな。」と叱ってしまったのです。そしてイエス様に「引き下がれサタン。あなたは神のことではなく、人のことを思っている」と反対に、叱られてしまったのです。
「目で見て信じるのではなく、言葉を聞いて信じなさい。」聖書が何度も語る言葉です。でも言葉だけでは分からない、信じられない。それもまた私たちの現実です。「それはあなたの弱さですよ」と言われたら、反論のしようもありません。 でも、「しかたないんじゃないですか?人間らしくていいんじゃないですか?」と反論したくもなります。というのは、イエス様はご自分の十字架と復活についてお話しになったのです。イエス様は弟子を深く愛しておられたんですよ。ペテロもイエス様を信じ、深く愛していたんですよ。もちろん、イエス様がどこから来て、どこへ行こうとしているか、分かってはいない。でも愛していたんです。大好きだったんです。他のどんな人であっても、イエス様の代わりになんてならない。それほどに大切方であったのです。 みなさんも、「私だったら・・・」と想像してみてください。みなさんが大好きな人、みなさんが「この人だけは・・・」と思う人。その人が突然、「私は捕まり、苦しみを受け、殺されます」と、真剣なまなざしで言い始めたら・・・。 「なんてバカなことを言っているんだ。やめてくれ。」ペテロがイエス様に言った同じ言葉を、私たちも口にしたのではないでしょうか?「どこにも行かないで欲しい。私の側にいつまでもいて欲しい。」そういった思いで、激しい言葉を口にするのではないでしょうか? 「引き下がれ、サタン。」この言葉はペテロとの関係を断ち切る言葉ではありません。そうではなく、ペテロの目を開かせ、イエス様の本当の姿に気づかせ、真の意味でペテロと関係を結ぶための言葉であったのです。「私を一人の人間として愛してくれて感謝をしている。でも、ペテロ。私を一人の人間として信じ、愛してくれても、あなたの救いにはならない。本当の私の姿に気づいて欲しい。キリストである私に気づき、永遠の救いに預かって欲しい。あなたの力で、一人でも多くの人を御国に導いて欲しい。」イエス様の激しい言葉も、ペテロに対する深い愛があるからなのです。 イエス様は六日間、言葉によってペテロたちを教育なさった。ご自分が十字架と復活の主であることを教えようとなさった。でも、弟子達はあまり理解できなかったのです。だからこそ、七日目に、主イエスは、ご自分の本当の姿をペテロたちにお見せになったのです。「言葉だけで分からないのであれば、目で見て信じなさい。」それが今日の聖書のお話なのです。 ペテロは高い山の上でイエス様のお姿が変わるのを、その目で見ました。この世のものではない聖なる光が、イエス様を包んでいる。ペテロはとても畏れを覚えたと言われます。恐怖ではありません。この世界を遙かに超えでた方に出会い、畏れを抱いたのです。罪ある者が聖なる方の前で、畏れを抱いたのです。聖なる光の中で、ペテロはイエス様がどなたのなのか、少しだけ理解しました。苦しみの十字架の後にどれほどの喜びが訪れるのか、少し理解しました。 さらにペテロは驚きます。モーセがそこにいる、エリヤがそこにいる。遙か昔にこの世界を立った二人が、イエス様と語っているのです。モーセもエリヤも神さまから遣わされ、神さまの救いを準備した人たちです。神さまの救いそのものを感じさせる二人の人物。その二人とイエス様が、親しげに、神さまの救いについてお話をなさっている。 ここで私たちは、一つのことに心を向けなければいけません。モーセもエリヤも、神さまの御救いをイスラエルに告げ知らせた人です。ところがイスラエルはモーセとエリヤに反抗し、恨み、憎く事さえしたのです。ペテロは気づいたでしょう。イエス様は神さまの救いをもたらす方である。でも、この世界はこの方を受け入れず、憎むであろう事を。 イエス様の輝くお姿を見て、ペテロたちは小さな生まれ変わりを経験しました。山を下りながら「死者の中から復活するとはどういう事なのだろうか?」真剣に論じあっているのです。少し前までは、「十字架なんて、やめてください。バカバカしい」と言っていたペテロが、分からないながらも、「十字架と復活」が神さまの御旨であることを受け止め、一生懸命に理解しようとしているのです。どうしてでしょうか?見たからです。見て、信じたからです。白く輝くイエス様のお姿の中に、「命の輝き」、十字と復活の中にある「命の輝き」を見たからです。信仰の目が開かれたのです。 信仰の目。それは「何か新しいものを発見する目」ではありません。信仰の目を持っていても、持っていなくても、目に映るものはまったく同じなのです。信仰の目、それは今まで見慣れていたものが、まったく別のものに見えるという目なのです。見慣れたものであるにもかかわらず、ここにこんなに大きな意味が隠されていたんだ!と気づく目なのです。 何度も同じ話をして申し訳ないのですが、でもやはりとても大切なお話ですからご紹介したいと思います。クビから下がまったく動かない、画家の星野富弘さん。口に絵筆を加え、美しい草花を描いておられます。大けがをする前までは、体育の教師としてバリバリ働いておられました。そして大けがをし、車いすに乗るようになって初めて、道ばたに咲く小さな草花に気づいたとおっしゃっています。もちろん怪我をする前から草花を知っていらっしゃった。でも見え方がまったく違っていたのです。大怪我をして、体が動かなくなって、信仰を与えられて、道ばたに咲く小さな草花が命に溢れて見えたのです。かけがえのない一つの命として目に映ったのです。これこそが信仰の目なのだろうと思います。 信仰の目が開かれたペテロたち。見慣れたイエス様のお姿が少し違って見えたのではないでしょうか?イエス様の後ろ姿にうっすらと十字架を見たのではないでしょうか?ペテロたちは強いイエス様を求めていたのです。苦しめる者が来ても、その者をはねのけ、どこかに追いやってくれるイエス様。病気になった時には、不思議な力で癒してくれるイエス様。ペテロたちはそれが本当の救いだと思っていました。自分に降りかかる苦難や困難。それを解決してもらうのが神さまの救いだと思っていました。 そのようなペテロたちに向かって神さまの声が天から響きました。 「これは私の愛する子。これに聞け。」「これは私の愛する子。これに聞け。」 イエス様に聞け!とおっしゃるのです。人の願いを叶えることが、神の救いではない。神の救いが何であるか。それを私の子、イエスが語る。十字架の上から語る。神さまはおっしゃるのです。 時は受難日に向かって突き進んでいます。時は救いの日に向かって突き進んでいます。口を閉じ、耳を澄ませ、イエス様の御声をしっかりと聞きたいと思います。 |
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2010年3月14日(日)礼拝説教
マルコによる福音書9章2節〜10節 説教題「白く輝く」 この清い日曜日の朝、同じ信仰に生かされるこの私たちが、教会に招かれ、みことばに預かることができる。この事を、心から感謝したいと思います。教会で御言葉に預かる。これを「当たり前」と思うべきではありません。神さまが深い愛をもってこの世界にイエス様を送ってくださったからこそ、イエス様が深い愛をもって苦しみに身を置き、十字架に架かり、尊い血を流してくださったからこそ、そして神さまがイエス様を死の世界から復活させてくださったからこそ、私たちはこの教会に毎週来ることができるのです。私たちはイエス様の十字架によって教会に招かれています。主の救いの御業に感謝し、厳粛な思いをもって主のみことばに耳を傾けなければいけない。イエス様の受難の日を前にして、そう思うのです。 さて、イースターの日、この礼拝堂で3人の青年が洗礼を受けます。洗礼に向けての準備会をしています。その準備会の中で、こんなことを言いました。「聖書って何だと思う?聖書には神さまのこと、人間のことが書いてある。でも、神さまはどんな方か。人間とは何者か。そういったことも確かに書いてあるんだけど、聖書がいちばん伝えたいことじゃない。聖書が語るのは、「関係」です。聖書は「神さま」と「人間」をバラバラに語ったりはしません。神さまにとって人間は何者か。人間にとって神さまはどの様な方なのか。いつも「関係」の中で語っているんですよ。神さまと人間の関係。つまり愛が書かれているんですよ。」 今日の聖書のお話も、「関係」の中で語られています。ヘルモンという山の上で、イエス様の姿が突然変わったというお話しがあります。イエス様の服は真っ白に輝き、どんな腕のいいさらし職人であっても、こんなにも真っ白にはできないというほどに、白く輝いたとあります。この不思議な光景は何であったのか?この不思議な光景は誰のためであったのか?聖書ははっきりと教えます。この不思議な出来事はペテロをはじめとした、お弟子たちのためであった。イエス様はご自分の本当のお姿を、弟子たちにはっきりと見せになったのです。この奇跡を通して、弟子たちに大切なことを教えようとなさったのです。 イエス様の愛を存分に受けているペテロ。このペテロは新約聖書の中で特別な存在です。 マタイによる福音書16章18節にイエス様の言葉があります。 「わたしも言っておく。あなたはペテロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。」 ペテロが12弟子の中でも一番イエス様に信頼されていたこと。イエス様はペテロに教会を託されたこと。この点において、確かにペテロは特別な存在でした。でもまったく別の意味でも、ペテロは特別な存在として聖書に描かれています。 みなさんもご存じかと思います。聖書にはたくさんの人が登場しますね。聖書はその登場人物を、小説のように、詳しく描いているでしょうか?小説のように、心理描写をしているでしょうか?していないのです。素っ気ない。あまりにもあっけない。そう感じるほどに、ちょっとしか触れようとしません。 でも例外があります。唯一の例外と言っていいのでしょうか。ペテロに関しては、福音書は何度も何度も彼の名前を挙げ、色々なエピソードを紹介しています。ペテロの気持ちの変化が手にとって分かるほどに、詳しく描いています。例えば、今日の御言葉の一つ前の章、マルコ8章ですね。イエス様がご自分の十字架の死をお話しになった時、ペテロはイエス様をいさめました。日本語では「いさめた」とありますが、ギリシャ語のニュアンスからすると、「叱る」という意味なのだそうです。何かとんでもないいたずらをしでかした子どもを、教師が叱るように、ペテロはイエス様を叱ったのです。そしてペテロはイエス様に叱られてしまいます。「引き下がれサタン。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」本当に厳しく叱られています。 そして何といっても有名なのは、大祭司の庭で「イエスという男など、私と何の関係もない」と、ペテロが3度言ってしまったことでしょう。イエス様が捕まり、死刑が宣告された時、「イエスという男など、私と何の関係もない」と言ってしまったのです。それもイエス様が預言なさったとおりであったのです。 ペテロが一番出来のいいお弟子であったから、一番イエス様の御心を理解しているお弟子であったから、イエス様はペテロを一番愛され、一番信頼なさったというわけはないのです。逆さまですよね。むしろ、ペテロは一番困った弟子だったのです。口数は多くて威勢はいいが、からっきし根性がない。思い込みが激しくて、ちっともイエス様のお気持ちがくみ取れない。 ところが、どんなに出来が悪くても、どんなに分かっていなくても、イエス様の側を離れようとしなかったのです。「イエスなんていう男、オレは知らない」と3度も言い放ったのですが、どうして危険を承知で、大祭司の庭に行ったりしたのでしょう?理屈じゃないんです。イエス様が好きで、少しでも側にいたかったのです。この思いを誰も否定することはできません。 誰よりも側にいたい。その強い思いをイエス様もよくご存じであったのでしょう。ですから、イエス様にとって大切な時間。今日の奇跡が起きたヘルモン山に登る時も、ゲッセマネに行く時も、イエス様は必ずペテロを連れて行かれたのです。ペテロの愛はちょっと歪んでいたのかも知れない。ペテロの愛はピントが少しずれていたのかも知れない。でも、不完全であったとしても、確かに深い愛があるからこそ、イエス様はペテロを信頼し、心から愛しておられたのです。 さて、今日の聖書のお話は「六日の後」という言葉で始まります。マルコ福音書の中には、こんな風に、日にちを限定するような表現はあまりありません。マルコははっきりとした意図を持って、この言葉を使っています。では、いつの日から六日目なのでしょうか?言うまでもなく、8章31節の出来事です。「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、3日の後に復活することになっている、と弟子達に教え始められた。」イエス様が、ご自分の十字架と復活を弟子達に教え始められてから六日の後の事だった。マルコは言うのです。 31節にある「弟子達に教え始め始められた」という言葉に注目をしたい。少しの時間、お教えになったではなく、ずっとお教えになっていたというのです。そして六日の後の今日のお話し。今日のお話しが、十字架と復活の教育の区切りであり、完成であったのです。 イエス様は六日間、ずっとご自分の十字架と復活について一生懸命お弟子たちにお教えになった。考えてみると、途方もなく長い時間です。でも、自分達の事をふり返る時、長い時間が必要であったのも当然かも知れない、もっと長い時間が必要なのかも知れない、と思うのです。 私は教会の中だけではなく、教会の外でも聖書のお話をする機会があります。教会の外であっても、「隣人を愛しましょう。」とか「すべての人が神さまに愛されているんですよ。」とお話ししますと、結構よく分かっていただけるんです。うなずいてもらえるんです。ところが、「イエス様は、私たちの罪を背負って、私たちの代わりに十字架に架かってくださったのですよ。」とか「イエス様は十字架の上で亡くなったのですが、三日目に復活なさったのですよ。」と言っても、「この人は一体何を言っているのだろう?」という目で見られてしまう。でも「教会の外の人たち」ばかりではありません。実はこの私たちも、十字架と復活がとても大事だとは思いながら、どう理解すればいいのか、はっきりとは分からずにいるのではないでしょうか? |
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男性はイエス様に言いました。「善い先生」彼の心にはこんな思いがあったのです。 「善い先生。あなたは何が善い業か、よくご存じです。どんな善い業を行ったら、神さまが喜んでくださるか。そして永遠の命を褒美としてくださるか、ご存じのはずです。」 簡単に言いますと、彼はこう言っているのです。「私は神さまの戒めを一生懸命守ります。神さまから「永遠の命」という報酬が欲しいからです。」 「あなたは大きな思い違いをしている。自分の力で「永遠の命」が得られると固く信じている。それは違うんだよ。神さまの一方的な無償の愛によって、私の十字架によって、あなたに永遠の命が与えられるのですよ」そのような思いを込めて、主はおっしゃいました。 「どうして私を「善い先生」というのでしょうか? 神さまだけが善い方なのですよ。」 神さまの戒めを、深い意味で一つ一つ守ることは、人にはできません。それどころか、神さまの戒めを、深い意味では、何一つ守れないのが「罪深い人間」なのです。そのことに気づいて欲しくて、イエス様は誰もが知っているモーセの十戒を引き合いに出し、「この掟をあなたは守っていますか?」とおっしゃいました。 「殺してはいけない。姦淫してはいけない。盗んではいけない。偽証してはいけない。奪い取ってはいけない。父母を敬え。」 男性は答えました。「そのような戒めでしたら子どもの頃からよく知っていますし、一つ一つ守ってきました。」 皆さんはどうでしょうか?私が今ここで、「この戒めをしっかりと守っておられる方はいらっしますか? 自信がある方は手をあげてください。」と言いましたら、皆さんはどうなさるのでしょうか? 確かにみなさんは、人を殺したことはないでしょう。姦淫したこともないでしょう。でもイエス様はもっと深い意味で語りかけておられます。問われているのです。 ヨハネ第一の手紙3章15節にはこのような言葉があります。 「兄弟を憎む人は、みな人殺しです。あなた方も知っているとおり、すべて人殺しには永遠の命がとどまってはいません。」 マタイ福音書15章27節以下 「あなた方は姦淫するなと命じられている。しかし私は言っておく。みだらな思いで他人の妻を見るものは誰でも、既に心の中で姦淫をしてしまっている。」 「盗んではいけない。奪い取ってはいけない」という戒めも同じです。「誇る者は主を誇れ」という御言葉あるように、この世界のすべての誉れと栄誉はすべて神さまのものです。ところが私たちは賞賛され、秀でた人間でありたいと願ってしまいます。それは「神さまがお受けになるべきものを、神さまから奪い取ることなのですよ。」とイエス様はおっしゃるのです。 「あなたの父母を愛しなさい。」 親子の関係に悩み、両親を素直に愛せないという経験は、私だけではないだろうと思います。 イエス様がおっしゃった戒めを、深い意味では、誰一人守ることはできないと思うのですが、この男性は言いました。「そのような戒めでしたら、小さい頃から守ってきました。」 無邪気な答えです。イエス様の言葉の深みを捕らえてはいない答えです。でもイエス様は決してこの男性の裁かず、神さまのやさしい目を持って見つめ、神さまの愛で包み込み、おっしゃいました。 「あなたには欠けているものが一つある。持っている財産をすべて売り払い、貧しい人に施しなさい。そうすれば天に富を積むことになる。それから私に従いなさい。」 この男性は気を落とし、悲しみながら立ち去ったとあります。聖書には「この人がたくさんの財産を持っていたからだ」と記されています。 でも、みなさん。この人はたくさんの財産を持っていたから、悲しみながら立ち去ったのでしょうか?もしあまり財産を持たない人であったら、すべてを売り払い、貧しい人に施し、イエス様について行けたのでしょうか? そうではないと思います。事実、ほとんど財産など持っていなかったであろうイエス様のお弟子が、こう言っているのです。「それでは誰が救われようか・・・」 「あなたには欠けているものが一つある。持っている財産をすべて売り払い、貧しい人に施しなさい。そうすれば天に富を積むことになる。それから私に従いなさい。」 この男性にも、またお弟子にも、自分の財産をすべて売り払って貧しい人に施すということはできないと知っておられたのです。分かった上で、「自分の財産をすべて売り払って貧しい人に施しなさい」とおっしゃったのです。 なぜそんなことをイエス様はおっしゃったのでしょうか? いくらがんばって努力をしても、がんばってみても、自分の力で自分を救うことはできないことを深く知るためです。私には何の力もない。神さまの憐れみに寄りすがるしかない。そのことを深く知るためなのです。 自分に絶望しない人は、「私のすべてを神さまに委ねよう」とは思えないのです。 自分に絶望し、自分の思いをあきらめ、人は初めて神さまの御旨のままに生きたいと願うのです。 「自分の財産をすべて売り払って貧しい人に施しなさい」とイエス様に言われた時、 この男性はどう言えばよかったのでしょう?私は思います。「イエス様。ごめんなさい。あなたがおっしゃるようにはできません。こんな弱い私でしかありませんが、あなたに従って行きたいと心から願っています。」 イエス様はきっとおっしゃったはずです。「あなたの信仰を認めよう。私に従ってきなさい。」 残念ながら、男性は悲しみのうちに去って行きました。でも、これで終わりではないのです。むしろこれから、この男性の本当の信仰生活が始まるのです。なぜかというと、男性は誤った信仰に気づいたからです。自分に絶望したからです。そして一番大切なことは、イエス様の愛のまなざしが、いつまでもこの男性に向けられているからです。 「人にはできなくても、神にできないことはない」 主イエス・キリストはおっしゃいました。力強い、恵みの言葉だと思いませんか? きっとこの後、この男性はもう一度イエス様を訪ねたに違いありません。そして本当の意味で、イエス様に出会ったに違いありません。 「出会い」とは、「その人の前で私という存在が根底から揺すぶられ、私の仮面が剥がされ、すべてが露わにされながらも、安心して、信頼して、自分のありのままの姿を見せ続けることができる」ということなのです。 毎週の礼拝にあって、この私たちもイエス様に出会いたい。そう祈り、願います。
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