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まだベッドに入るには早すぎる。 結婚したとはいえ、世間的にはまだ公表されてない以上、すぐ一緒に暮らすわけにもいかない。 まだしばらくはミニョの部屋に通う日々が続く。 いくら旅行で疲れたといっても、せめて二人きりの今くらい、この貴重な時間を満喫したいのに、奥さまときたら…。 シヌはそんな思いで、うたた寝をしたミニョにぼそりと、襲うぞ、とつぶやいてみたのだった。 「ん…おそ……襲う?へっ、なに、何っ?」 思いのほか、言葉が効いたらしく、ミニョがパッチリ目を開けた。 「目が覚めた?どうぞ、って感じで寝てたから、ご希望通り襲ってあげようかと思ったんだけど」 シヌはさわやかに微笑んでミニョの頭に手を載せた。 耳を当てなくても心臓がドキドキ言ってるのが聞こえてきそうなほど、かたまったミニョにシヌは内心笑った。 「き、希望なんてしてないし…目、目はこんなにはっきり開いてますから!」 「ベッドの上にそんな恰好で寝てるから、てっきりそういうお誘いかと思ったよ?」 「それはその…シヌの用意してくれたお風呂が気持ち良くて眠くなっただけで…」 「奥さまになると違うんだなぁって、俺はうれしかったけど」 「え…?そ、そう言われても」 それは誘ってほしいってこと? ふとミニョの頭の中に疑問が浮かんだが、次の瞬間、無理無理無理!!と一瞬にして思い浮かんだことを 吹き飛ばした。 「やっぱりおあずけか」とため息をついて、シヌがベッドから出て行った。 シヌ、がっかりしてる?まずいこと言ったかな。 不意にミニョは不安になった。奥さまになったらもっとサービスがいるのかな…。 …って何のサービスが!? 一人でミニョがあれこれ思いを巡らせて赤くなったり青くなったりしていると、シヌが戻ってきて手招きした。 「せっかく起きたのならソファーに座って」 シヌのご機嫌を損ねたわけじゃないとわかってほっとしたミニョは、なんだろう?と気にしつつもソファに座った。 「手を出して」 言葉に従って手を出すと、シヌが小さな容器を手にして、ハンドクリームを塗ってくれたのだった。 「約束しただろ?寝ちゃってて、さっきは塗りそびれたからね」 そういえば…日本にいたとき、そんなこと言ってたっけ。 ちゃんと覚えて実行してくれるなんて、いい旦那さまだなぁ。 「そっちの手も」 ほのかにバラの香りが漂った。 「バラの花をバス用に頼んだとき、一緒に頼んでみたんだ。気に入った?」 「もちろん。…ありがとう、旦那さま」 ミニョが自分から誘ってくれたかと思って嬉しかった、と言ったシヌのセリフがミニョの頭の隅に引っかかっていた。 私ばかり、こんなに気を使ってもらって、何もお返しできてない気がする…。 私から誘うってことがそんなに嬉しいなら、そうできるといいんだけど、考えただけで心臓が爆発しそう…。 「…あと少しだな」 シヌがぽつりと言った。 「え?」 「このホテルを出たら、またそれぞれの生活に戻って、しばらく会えないだろ」 シヌの言葉でミニョはふと現実に返った。 しばらく二人でいたから結婚したんだなと不思議な気持ちながらも喜んでいたけど、 ここを出たら私はマンションに、シヌは合宿所に戻らなきゃいけない。 一緒にいられるのは、あと何時間? そこでミニョはハッと気づいた。そうか。だからシヌはその数時間を大切にしようとあれこれ準備してくれたんだ。 それなのにうたた寝なんてしちゃって…シヌは寂しかったかな。 せっかく残された時間を二人で楽しく過ごそうと思っていたのに、私ときたら、ベッドに倒れ込んで寝てて。 「シヌ。あの、ごめんね」 シヌはいつものように優しく微笑んだ。 「謝ることなんてないけど、もし何か気にしたのなら、別のことで返してもらいたいな」 シヌがミニョの隣に座って肩を抱き寄せた。残り少ない時間を惜しむように、ミニョの髪をそっと撫でた。 ミニョはもう数時間でまた離れ離れになるんだ、と急に切ない気持ちになった。 髪に触れていたシヌの手に手を重ねて、シヌをじっと見た。 「うん?」 「シヌ…今日は、ううん、日本への旅行中もずっと、ありがとう。それから」 言葉に詰まったあと、ミニョはシヌの頬にキスをした。 「ミニョが喜んでくれたらそれでいいんだ。当分また離れ離れだし」 二人の想いが重なって、言葉が途絶えると、自然に抱き合ってただお互いの温もりを感じていた。 ミニョの素肌からはまだローズバスの香りがかすかに立ち上っていた。 改めて、ミニョがこんなに近いところまで来てくれたんだなとシヌは心の中で幸せをかみしめた。 そばにこうしていてくれるだけでいい…。この腕の中に確かに感じていられたら、もう何も怖くない。 一方、ミニョもシヌの腕の中で、しばらくは離れてることもあるけど、ここが私の場所なんだ、と考えていた。 今まで自分を支えてくれた兄や院長先生のもとを離れて、シヌと生きていくんだ…。 両親のことでなんとなく不安だった気持ちが、いろんなことを乗り越え、シヌと支え合い寄り添うことで、 何の不安もなく、しっかりとした足取りで歩けるようになった気がする。 たとえ離れて暮らしても、もう一人じゃない。 「シヌ」 ミニョがシヌの耳元に唇を寄せた。「何度言っても足りない気がするけど、ありがとう。それから」 シヌにはわかっていた。ミニョの気持ちは誰よりもわかってるんだから、と自然に口元がほころんだ。 「大好き…ずっとそばにいてね」 「当然だ」 もう、せっかく言ったのに、とミニョは口をとがらせる間もなく、唇をふさがれた。 「ずっと昔から決まってたんだから」 「昔?」 「きっと生まれる前からね。そうでなきゃ、神様に異議申し立てするぞ」 「どうしてそう思うの」 シヌが体を少し離して、ミニョをじっと見た。 「俺をこんな気持ちにさせたのはミニョが初めてだから」 「初めてってことは、その後もあるの?まさか、二番目とか…」 「今のところ予定はないよ。今後そうならないためには、もっとサービスが必要かも?」 いたずらっこのように覗き込むシヌの目からミニョは目をそらした。 「…そうしないと、二番目以降が現れる?」 時折顔をのぞかせるミニョのやきもちが可愛くて、シヌはついからかってみたくなるのだった。 それでも、結局はミニョに甘いことも自覚していた。 ささいな冗談でも、ミニョが傷つくようなことはしたくないと、結局やり通せないのだ。 「って言いたいとこだけど。なにせ奥さまは危なっかしくて目が離せないからね」 「サービスなんてできないけど…」 「けど?」 ミニョはシヌの目を見て、そっと顔を近づけていき、唇を重ねた。 「…私だけ、見ててくれる?」 そして、シヌをぎゅっと抱きしめた。 まったく。言うまでもないことを。そう思いながらも 「じゃあ、こうやってずっとサービスしてくれなきゃね」とシヌはわざとミニョの目を見た。 「もっとスペシャルなサービスでも受け付けるから、遠慮なくどうぞ」と楽しげに言った。 遠慮します〜と逃げそうになるミニョを抱きしめたまま、 「一緒にいられる時間が限られているから、今しばらくこうしていよう」とシヌがささやいた。 「…うん」 夕日が空を赤く染めていく様子を見ながら、静かに二人は抱き合っていた。 |
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