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写真上から
フルヴィエールの丘の上のバジリカ教会
バジリカ教会のステンドグラス
告白者を待つ司祭 confession
丘の上から見たリヨンの街の屋根屋根
「confession」 という立て看板の向こうに1人の司祭が聖書を
ひろげて信者を待っていました。
CONFESSION つまり、「告白」「懺悔」の時間です。
キリスト教の教会はどこでも、「懺悔」の部屋があります。
人々はそこで自分を悔い改めるのです。なにもかも神の御前で告白し
許しを乞うのです。
日本の仏教や神道にはそのような習慣はあるのでしょうか、いやあったのでしょうか。
いずれにしてもそもそも、宗教はすべからく、その営みの歴史に於いて現実に生きる
人々の苦難に対してどれほどの力を発揮してきたかはかなり疑問のあるところです。
生きている今の不安や苦悩に何をなしえることができてきたのでしょうか。
生きている今と、死んでしまった後のあの世とを繋ぐ神話にまぎれてきたという
のがほとんどじゃないでしょうか。
それでも「神」が救ってくれるのだということにおすがりするしかないのだろうか。
科学の進歩がどれだけ進もうと、科学教がどれだけ存在者の有り様を
合理的に解釈してくれようと、われわれの「存在」を合理的に因数分解することは
できるはずもありません。
「神」に告白しようと、科学教の合理性に身をゆだねようと、われわれの「存在」
について考え続けるならば、それこそが「大いなるもの」への唯一の接近
となるのではないでしょうか。
そうすると、神が存在するのではなく、存在が神ということになります。
その点まだしも、本来の仏教的発想は、自分の心の中の問題として、自ら自身で解決し
ようとします。神や司祭への「告白」という他者に頼りません。
せっかく自ら自身で悟りを模索しようという文化があるのに、科学の進歩と
それに伴うお金に信仰心が移っているのが現状じゃないでしょうか。
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写真、すばらしいですね。またご訪問します。
2008/2/9(土) 午前 2:19
宗教に対する思いというか考え方、これは人それぞれでいいのではないでしょうか。
私たちは、小さいときから宗教を生活の中に織り込んで暮らしてきました。
だから、発想の原点というかスタート地点が違うような気もします。
これも、人それぞれかもということでしょうか。
2008/2/9(土) 午前 3:26
例えば洗礼を受け信者となったとしますー。
どうしても懺悔だけは出来ないですね〜〜。
やはり神父さん、牧師さんといえど人間と思えば・・・。
2008/2/9(土) 午前 7:43 [ - ]
mamiさん、リヨンはフランスでもいいところですね。パリなどと違って綺麗な街ですね。明るい感じですね。
2008/2/9(土) 午前 7:57
ruriさん、わたしの写真の対象は、本当はきれいな風景や景色などではないのですがねえ。写真は概念。ただ単に雰囲気だけのものではなく、何かの概念を込めてと思っています
2008/2/9(土) 午前 8:00
seattleさん、そうですね。人も国もそれぞれですね。ですからアメリカのような押しつけの民主主義は悪くはないのですが、人殺しをしてまでというのは行き過ぎじゃないでしょうか。
2008/2/9(土) 午前 8:03
amanndaさん、牧師はイコール神様ということでしょうが・・・。懺悔、考えてみれば言えないことがいっぱいあります。みんなそんな過去を抱えて居るんでしょうか
2008/2/9(土) 午前 8:06
リヨンの旧市街はとても素敵ですよね。
細い道を登ってこの大聖堂にたどりつく・・・
聖堂の裏からはリヨンの町が一望できますね。
宗教の問題は難しいのでうまく言えませんが、「死」に直面した時 宗教があれば少し楽な部分も有るのかなぁと最近思ったりします。
2009/10/23(金) 午前 10:19
えつさん、日本人は「宗教」という言葉にアレルギーなんです。なのに、ヨーロッパに行けば急に敬虔なキリスト教徒かぶれになれるんです(笑)宗教に普段全く関係ないのに、ヨーロッパのキリスト教文化に蘊蓄を言うんです(笑)
2009/10/23(金) 午後 3:21