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メスキルヒの森 2

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写真 メスキルヒの中心部あたり 
 

 人間は日常において、さまざまな煩悩や苦しみの中にあります。思い通りにならない人生を生きています。不条理とは、思い通りにならないという「苦」であって、仏教でいうところの、生、老、病、死の四苦はもとより、愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五陰盛苦など思い通りにならない苦です。
 そして、「死」は究極の不条理で、だからこそ生きる意味について考え込むのです。
 人は、様々な「苦」のなかにあって、「生きる意味」を求め、「生きる意味」を知りたがっています。人生は生きるに値するものなのか、自殺はなぜしてはいけないのか、いったい人生の目的とは何なのか。
 そして不条理は、目的が崩れ去り、自己の存在と存在者の間にあるギャップにハタと気がついたときに訪れるのです。こうして、不条理は人生に意義を見いだすことを問うてくるのです。
 
 マルティン・ハイデガーは、実存的存在を生きるために日常の背後に「死」ということを見つめました。ジャンポール・サルトルは、「人間は自由の罪」に処せられているといい、そしてアルベール・カミユは、「自殺」という死そのものによって人生の意味を考えました。
 いずれにしても、現存在としての人間とこの世界との関わり方について見つめ、存在の在り方について深く哲学したのでした。
 現存在については、東洋に於いて、なかでも弘法大師空海の思想もまた現存在の存在性と存在相を徹底的に考え実践する思想です。
 しかし、伝統的西洋哲学は形而上学的にも論理學的にも「存在」についての「思索」は深めたかもしれませんが、実践哲学としての方向性を示し得たとはいえません。
 そもそも人間存在の在り方については、「人間」そのものの存在だけを考えるのではなくて、一切の存在者の存在を抜きにしてはとうてい考えられないものなのです。この観点に於いて、おおざっぱには西洋的か東洋的かと区別せられるところです。西洋実存哲学が直面した不条理は、ヒューマニズムの不条理といえます。ヒューマニズムは、まさに西洋そのものです。
 一般的には、不条理とは、自己の欲望と現実とのギャップのことをいいます。
 例えば身近には、自己評価と他人の評価のギャップ、自分はもっと自由に生きたいと望んでいるのに現実は毎日飽きるばかりの仕事の繰り返し、なぜ自分は埋没していなくてはならないのか。これらのギャップも日常における「苦」でありましょう。
 アルベール・カミユは、『不条理な論証』 にて「起床、電車、会社や工場での四時間、食事、電車、四時間の仕事、食事、睡眠、同じリズムで流れていく月火水木金土、・・・」と不条理の起源を指摘します。人はこういう日常にうんざりしていて同じような明日になるのを拒んでいるのに、しかしながら、人は明日になれば、翌明日こそと明日を願っているという不条理です。
  「およそ世にあるのは、肉の欲(libido sentiendi 感覚のリビドー)、目の欲(libido sciendi 知のリビド ー)、生の驕り(libido dominandi 支配のリビドー)である。これら三つの河が潤しているというより、燃え立っている地上とは、なんたる不幸であろう」(パスカル『パンセ』断章458)
 このように「欲」は忌避するものとして論じられてはいますが、西洋の哲学はその「欲」についてキリスト教的理解の範疇に終始してきました。そして、欲望と深い関係にある不条理は、不条理として不条理の域を超えるものには至らなかったのです。人間理性による世界認識の方法では、超越的視座に至らなかったと言うことです。
 理性による近代合理主義は、デカルトの「我思う、ゆえに我あり」に象徴的ですが、世界を疑う自己の自信は、それこそが傲慢とさえ言える不条理の根源であるのです。
 西洋哲学は、この理性の是非との戦いの歴史であったともいえます。現代にあってようやく、その理性はアテにならない疑うべきものであるかもしれないと理解されていますが、それにもかかわらず現象はこの理性の方向性を変えられないでいます。いつまでも合理主義的不条理がつきまとっています。
 地球の温暖化が身近に議論されはじめてはいますが、今後温暖化を食い止めることができるのかははなはだ疑問であり、むしろ加速しているのではないかとさえ思えます。この不条理の根底は、明らかに近代合理主義の根っこにあるキリスト教精神が持つ自然観がまだまだ根強いからだと思われます。
 
 不条理は、人間の主観と客観の相違である限りにおいては解決できない問題です。我々自身が、自分の目を通して見ている世界と、他者から見た自分との相違は如何ようにもしがたいのです。
 よくよく考えてみれば、なにごとも自分中心に物事を見ている自分は、しかしながら他者からみれば取るに足らない存在です。大宇宙の永遠の相の中では芥子粒のような存在でしかなく、悠久の時間の流れの中ではほんの瞬きすらできない短い人生です。
 サルトル曰く、我々は「投げ出された存在」なのです。そういう人間が、日常に於いてそういった情況を忘れたかのように自分と他者を区別することに忙しく立ち回っているのです。「オレが、オレが、わたしは、わたしは」というつまらぬ自意識の過剰と不条理。
 それでもそこに、ハイデガーのいう本来的な自己があるとするならその本来性は隠蔽され続けているといえます。誰でも時として、それを明け広げてみたいと潜在意識が働きます。
 
 日常にあって、時として理性的人間の人生など無意味なのではないかと考えてしまう瞬間があります。「オレがオレが、わたしはわたしは」ということの虚しさ。自分の存在とはどういうことなのか。自他の不条理が霞んでしまう本来的な自己に気づく瞬間があります。実は誰でもわかっているのです。しかし、すぐ忘れて「オレがオレが、わたしはわたしは」となってしまいます。
 人間の「存在」について、「ある」とはどういうことなのかについて深く考えた人がハイデガーです。存在者とは何かと問うたときそもそも「ある」とはどういうことなのか、という存在論的分析はこれまで伝統的に西洋が考えてきた精神に大きな影響を与えました。神による存在の伝統から、人間自身の実存への思考です。
 近代合理主義社会にあっては主観と客観の区別が際だっています。そしてそれ故の複雑な不条理に人々は苦悩しています。そういう現象面においてどのように方便を使っていけばよいのか、人々の安心はどのようにしてえられるのでしょうか。
 主観と客観によるところではない、人間が本来持っているなにものかより湧き出るもの、つまり所与から超越したいという衝動に対して、仏教思想が持っている可能性とハイデガーの現存在の可能性は、それぞれに迎合できる部分を持っていそうに思えます。西洋で生まれたハイデガ−が東洋と言語ゲーム(ウイトゲンシュタイン)ができるのではないかと思えます。
 ハイデガー曰く、人間は現象社会の中で頽落している存在である。その不条理な日常現象世界から超越した本来の自己にたち出でよと。そういう可能態としての「生」への衝動というものを仏教はまたどう捉えているのか、興味深いところです。
 とくに昨今、仏教は葬式仏教と揶揄されますが、ハイデガーのいうところの「死」に対する深い自覚と決意についてはどのように考えてきたのでしょうか。
 「ある」とはどういうことなのか、もっとあるべき姿で生きようという決意と頽落した日常との落差、それに伴う不条理、その辺りのことを確認することは仏教界の目覚めに通じると思われます。
 端から西洋VS東洋という図式は意味のないことです。西洋と東洋の思索の接点を考えることは、今日の合理主義万能時代にあっては意義あることなのです。
 
 
 
 

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「死」というものがあってこそ悟りがひられるのではありませんか、
キリスト教でも、イエスが十字架にかかって死を遂げたからこそ
今の宗教があるのです。
これが途中で、十字架から降りたとしたら、キリスト教はなかったでしょうね。

2009/11/29(日) 午前 7:22 Miyoko


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