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写真 インド・アーグラ城
アーグラ城は、デリーからアーグラへの遷都に伴い、アクバル王によって1565
年に作り始められました。完成にに8年かかったそうです。
このアクバル王の碑文に刻まれています。。
「イエス言う、この世は橋である。それを渡れ。だがそこに住処を建てるな」
これは、いわゆる外典「トマス福音書」(講談社学術文庫)の中の
『イエスは言われた。”過ぎ行く者たちのようになれ”』
の部分が伝わったのではないかと言われています。
こういうと、ほら見よ!なんでもキリスト教の影響下にあるのだ!と
言う向きもありましょうが、そんなことになんの意味もありません。
「住処」とは文字通り「家」あるいは「会社」、「いろんな組織」また己の愛
するもの何でも、など執心するものと考えられます。
つまり、愛着や執心があれば、「過ぎゆくもの」としては生きて行かれないと
言うことなのでしょう。
えてして、宗教は「救う」「与える」が対となっているように思います。
信じなさい、そうすれば救われる。と言うことです。
しかし、本当にそうでしょうか。キリストさんだって、お釈迦さんだって、
もう2千年以上も昔のことで本当はどう考えていたのかちょっと疑問に
思います。2千年の間、いろんな人たちの手を経て、「あなた方は罪人なん
だ」と脅し、だから信じなさい、救われるよ、と都合良く解釈されて変貌して
きたのではないのか、とついつい疑ってしまうときがあります。仏教の言う
「慈悲」も同じことが言えます。
トマス福音書」の中の
『イエスは言われた。”過ぎ行く者たちのようになれ”』
これを読み解くとなおさらそんな疑問が深まるのです。
原初の名残を感じます。
これはむしろ仏教の言う「空」の世界にも通じるのではないでしょうか。
原初では、慈悲や救済の脅し文句のない、キリスト教も仏教もイスラム教も何
の区別のない、純粋な自己の「性起」(華厳経)のような境位、ハイデガーの
いう現存在の瞬間、ウィトゲンシャタインのいう言葉の限界の向こう側、そん
なところに宗教の原点があったのだと思わざるを得ません。
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トマス福音書というものがあるとは聞いていましたが、そんな言葉があるのですか。インド的な言葉ですね。どのような過去であれ、伝えられたことを、私たちは信じるか、解釈したものしか知り得ないのですよね。それは遠い昔のことということではなく、一瞬先の過去でも過去そのものを再現することはできないのですから、同じことですね。私たちは何でも知っているつもりという仮想の過去の上に生きながら、確かさ、真理を求めることから逃れられないようです。「神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない。」(旧約・伝道の書3章11節)
2009/12/23(水) 午後 6:04 [ shalom ]
カースト制度って、やっぱり今もあるんでしょうか?
2009/12/23(水) 午後 7:04
うい、先生が子供を脅そうとして教えず大切なことを教え導きたいと思っているように、先頭に立つ人はどうか皆が幸せになってほしいと思ってる。それを食い物にする奴が建て前で使う。そんな奴に付け込まれないように強い気持ちを養う。宗教とは明るい希望がもてるもの。
2009/12/23(水) 午後 7:35 [ 1126 ]
shalomさん、「神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない。」
この意味はどう考えるといいのでしょうか。永遠とは何なのか、何なのでしょうか?
2009/12/23(水) 午後 9:17
piapiaさん、あるんですよね、しかもかなり厳しく。
2009/12/23(水) 午後 9:18
motoko95131126 さん、motokoさんって素子かな?素子という女性に想い出あります(笑)
2009/12/23(水) 午後 9:19
ZuiZanさんに追及されるようなことを言ってしまい、自分を窮地に追い込み、墓穴を掘ったようです(笑)。この世界に永遠なる存在は無しですね。ただ空のみでしょうか。(空の思想史いまだ届いていませんし、今の私には空という言葉の真の意味すら理解していませんが)。キリスト教的な永遠とは神ご自身と神の属性に関わることでしょうか。、また神によって創造されたこの自然のすべてのものは移ろいゆくものではありますが、その移ろいゆくものによって神の無限の力と永遠性を証しし、また人をご自分のかたちという霊的属性を持つ者として造り生きる者とされた故に、人は宗教的存在者として永遠の存在者である神を求めずにはおられない者と生き、又変わることの愛、不変にして普遍的な正義、確かなよりどころを求めずにはおられず、不確かなことには不安、恐れを抱くなど・・・死後に確かな救いを求め、又裁きを恐れることなど・・・こうしたことに永遠なる神によって創造され、生かされている人の生き方となって表れていると思うのですが…。
2009/12/24(木) 午前 10:35 [ shalom ]
先ほど「空の思想史」と「独学の精神」が届きました。まあぼつぼつ読みます。vernunftさんのように本がぼろぼろになるまで読めば少しはわかるかもですが…そういう本が一冊もない私ですから、ひょっとしたら積読になるかもしれません。
2009/12/24(木) 午後 2:04 [ shalom ]
shalomさん、追求だなんて、そんなつもりはありませんよ(笑)shalomさんとはスタンスが違いますので、それは悪いことではありませんので、まあいろいろと聞いてしまうのです。
ウィトゲンシュタインという人が言っています。
「6.45 永遠の相のもとに世界を見る直感とは、世界をーー画定されたーー全体として見る直感のことである。画定された全体として世界を感じる感情が神秘的という感情である」
ですから疑う余地のないものに言葉や説明はいらないんじゃないでしょうか、ということが言いたかっただけなのです。
2009/12/24(木) 午後 4:45
ZuiZanさん 言葉や説明が通用しない世界に引き込まれたようです。さきほど空の思想史のはじめにを恐る恐る読んでみたところです。ふと、今自分の名前、言葉、さらにこの身体がなくなったら、自分という存在をどのようにとらえることができるのだろうかとふと思ったり、また空には否定の作業とその作業プロセスを通して肯定へ向かう二つの面があると言うが、まったき否定からどのようにして肯定が生まれるのだろうかなどと瞑想いや迷想の世界へと一歩踏み込んだようです。キリスト教は神という存在の根源者である神から始まり、神の否定から空に向かい、イエスによってふたたび肯定へと向かう、仏教は神なきこの世界のすべてのものを否定する空の作業によって肯定に至るプロセス・・・。旅か放浪か行き着くところはどこでしょうか。
2009/12/24(木) 午後 5:30 [ shalom ]
異端とされていたグノーシス派が使っていた福音書ですね。
機会があったら彼らが使っていた多くの外伝の福音書を
読んでみたいですね。
どのように解釈されているのかとても興味があります。
2009/12/25(金) 午前 5:13
Miyokoさん、異端とは時の権力にとって異端ということにされて、本当は異端の中に本来のキリストが伝わっているかもしれません。長い年月を経て、様々な権力の解釈の結果としての現在の姿で、二千年前の姿は全く別のもんじゃないか、なんて考えることがあります。ですからこの福音書には、上に書いたような宗教の原点のようなものを感じます。彼岸此岸を超えたような場面です。
2009/12/25(金) 午前 7:42