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僕たちの言葉は、何でもかんでも言い表すことができるものでもあると思われます。
この世の中に見えるもの、さわるもの、思い浮かべるもの、知らないもの、
何でもかんでも、あんな感じ、こんな感じ、と言うことができる、表現できる、みたいですが、ほんとうにそうでしょうか。
よく考えてみれば、言葉はすべてを言い表せるものではないのではないでしょうか。言い尽くせないことや、言い尽くせない部分もあるんじゃないでしょうか。なにがそのようなものに当たるのか。
すべてを言い尽くせるものしても、言葉は世界の限界を持つんじゃないでしょうか。日常の中での意味、解釈に一喜一憂、口角泡を飛ばしてその意味を議論する、と言うことになりますが、それにも限界があるんじゃないでしょうか。言葉の解釈は此岸の話しです。
かように言葉が客観的であると言うことなら、自分の奥底にある自分の言葉は客観的に成り得るものでしょうか。誰にも知られない心の奥底にある神への
想いなど。それは言い表せるものなのでしょうか。
言葉で言い表されているものが、我々の世界だとすれば、それは日常そのもので簡単です。解釈次第ですから。でも、心の奥底は日常とはいえません。
ですからこの客観性を超えた世界、そこでの主体を考えれば、それは非日常の物語です。この日常と非日常の向こうに現世肯定の覚りの境地は無いのでしょうか。そんな神の領域はあるはずです。
言葉は何とでも言えるのが困ったものです。限界の向こうの意志についてが「神」の存在問題で、此岸の教条は此岸の人たちを日常に幽閉することに意味を見いだしているんじゃないのかと思えてなりません。
ウィトゲンシュタイン論理哲学論考
「わたしの言語の限界とはわたしの世界の限界を指している」5.6
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