中国

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「始めに月氏は敦煌、祁連の間に居りしも、匈奴の敗る所と為るに及び、乃ち遠く去り、宛(ウズベキスタン、フェルガナ)を過ぎ、西の彼方、大夏(アフガニスタン北部民族)を撃って之を臣とし、遂に、き水(アム・ダリヤ河)の北に都して王庭と為す。其の余の小衆、去ること能わざりし者は、南山の羌を保ち、小月氏と号す。(史記・大宛伝)」敦煌の文字でてくるおそらく一番古い記述と思われる。
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 つまり、祁連山から敦煌にかけて「月氏」という民族が支配していた
事実がある。その後この月氏族は、匈奴に追われて西方へ追いやられ、
宛や大夏を支配しアム・ダリア河の北に王国を移した。それに伴い紀
元前176年頃、敦煌は月氏に代わって匈奴の支配を受けることとな
った。その後この匈奴を再びうち破り、漢の版図に取り返したのが漢
の武帝である。この時に活躍したのが、霍去病、衛青、李広利、李陵
たちだ。紀元前121年、匈奴の渾邪王が漢の武帝に降りた。その間に、
張騫の物語がある。
漢の武帝が、匈奴を攻めようと躍起になっていたとき、匈奴の捕虜か
ら、「西へ追いやられた月氏は、たいへん匈奴を恨んでいてなんとか
仕返しがしたいと願っている」と聞いた。それで武帝は、月氏と結んで匈奴を挟撃しようと考えた。早速、月氏への使者を募ったところが、勇敢にも張騫が名乗り出た。紀元前139年、張騫は長安を発って、はるか西方へ渇きの道を歩いたのである。おそらく天山南路を通ったのではないだろうか。
 果たして、出発してまもなく、張騫は匈奴に捕らえられてしまった。そして10年も匈奴王に引き留められ妻子まで与えられた。それでも張騫は匈奴からなんとか脱走し、西方の月氏目指して再び歩き始めた。やっとのことで到着したのが、月氏ならぬ大宛国であった。そこから大宛国の好意でなんとか月氏国に到達することはできた。しかしながら、そのとき月氏は豊かに繁栄していて、いまさら匈奴と闘う意思などさらさら持っていなかったのである。
 せっかくの張騫の忠誠心も、月氏の心変わりで目的を果たせないまま帰途につくこととなった。帰りは、西域南道を通ったようである。この13年間にわたる張騫の旅の終わる前に、武帝は待ちきれず、すでに匈奴討伐を始めていた。衛青、霍去病たちである。
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 興味を覚えるのは、張騫に見る「忠誠心」である。これは。李陵にも言える。中島敦の小説「李陵」は、胸の痛む物語だ。そして、そこに登場する蘇武の武帝への忠誠心からくる慟哭の場面に至っては、絶句。
 現代の人間の忠誠心とはなんぞや。今では、忠誠心と言う言葉など、前近代的なものの象徴として嘲笑されるにちがいない。しかしながら、この時代に限らず、張騫や李陵や蘇武のような忠誠心に出くわすたびに、辛く心動かされるのはいったいなになのだろうか。忠誠心の人を見ると、なぜ辛いのか。現代が、あまりにも価値観が氾濫していて、無節操になってしまっているからなのか。信仰の人を見るに似ていて、無信仰で頼るものを持たない人間にだけ覚える憐悲の情なのか。
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敦煌が、世界に名を馳せることとなったのは、1900年代のはじまりの頃、「王円ろく」という道士がこの地iにやってきたことに始まる。彼は、浮浪同然にしてこの地にたどり着いた。そして千仏洞の窟に起居しはじめ、自らこの千仏洞の守りのようなことをし始めた。ある日、王道士が窟の一つを掃除していると、そこの壁が不自然に膨れているのを発見した。そこを箒の枝で叩いてみると音が違う。ん?変に思ってなおもそこを突ついてみるとポッカリと空洞が現れた。その窟が17窟、と言うわけである。
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↑第17窟蔵経洞、僧洪べんと「樹下供養者図」の壁画。さすがに人気の 17窟だ。17窟の狭い入り口は黒山の人だかり。中国各地 からや台湾あ るいは西欧の国からと思われる観光客でごった返している。敦煌も、もう秘 境ではないのだとつくづく感じさせられる。王道士の発見したこの洞窟はそ れにちなんで蔵経洞といわれるが、また耳洞あるいは耳房ともいわれる。
 耳が顔の付属のようにくっついているように、16窟の付属のような窟だか らだ。この窟におびただしい経巻が隠されていたのだ。改めて井上靖「敦  煌」の趙行徳が経巻をこの窟に隠した場面を思い出す。17窟の壁画はこの 後に見たどの窟の壁画とも、タッチが全然違うようだ。他のどの窟の壁画  も、抽象的なあるいは観念的な宗教画で埋め尽くされているのに対して、1 7窟のは壁画と言うより風景画といった感じだ。極めて絵画的でちょっと飛 躍的ですが高松塚古墳の貴婦人を思わせる。つまり、そういった感じなの  だ。
発見した窟の中は、腰を抜かさんばかりの経巻の山。しかし、王道士は文字が読めなかった。だから当初から、出てきた教典類もがらくたとしか見えなかったようだ。文字が読めないのに道士とは変なのだが、ともかくも殊勝なことに、敦煌県の役所に届け出た。ところが王道士にも、役所にもその文物の貴重さが理解されなくて、しばらくは王道士のもとに委ねられたままとなってしまった。
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 328窟→。台座だけ残っているのが痛々しい。盛唐の塑像窟だ。
 敦煌千仏洞の悲劇は、スタイン、ペリオで終わらず、1924年のアメリ
 カのランドン・ウォーナーに至っては悪意的となる。そこにある仏像を傷
 つけたり、壁画を剥ぎ取るという破壊行為となったのだ。完全な強盗傷害
 罪だ。ここにあるように仏像を根っこから持ち去ってしまった。敦煌で
 もあちらこちらの壁画が剥ぎ取られているが、壁画剥ぎ取りは、吐魯番
 (トルファン)のペゼクリク石窟寺ではもっとひどいものがある。ナイフ
 で切り取った後が生々しく、腹立たしい。とくに、ペゼクリクは1902
 年から1907年にかけて3回のドイツ隊によって壊滅的ダメージを受
 けた。いったい人の良心とは、その価値基準は其の時々によって変わって
 しまうものなのか。だが、文化は破壊の上に成り立つもので、形あるも
 のに拘る必要はないのかもしれない。人の良心云々ほど偽善的なものは
 無いのかもしれない。そんな風に思わせる所業なのだ。
1907年3月、イギリスの探検家オーレル・スタインが、かすかな風聞を聞いて敦煌にやってきた。そして、王道士を懐柔して、なんと6000巻に及ぶ教典類を持ち出して行った。僅か馬蹄銀4枚の対価としては全く情け無い話だ。こうして持ち出された古文書や古美術品は、英国へ送られた。そしてこの功績でスタインは、英国王室からSirの称号をもらったそうだ。
 このときの文物が、いかにおびただしい数にのぼったかは、大英博物館がいまだ今日に至るまでそれらを整理しきれていないと言うのだから相当なものだ。スタインの所業はいろいろと考えさせられる所である。
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 ←第329窟北壁↑「西方浄土変」左右AとBの白く剥がされた跡が痛々
 しい。それぞれに供養女人図があっ た。唐代の貴族の生活を描いたも
 ので、中央は普賢菩薩が描かれている。その剥がされた現物はアメリカのフ ォッグ美術館にある。ウォーナー が持ち帰ったものだ。このほか32
 0窟、323窟などウォーナーの罪跡が くっきりと残っている。高窟入
 り口付近  ところが、一難去ってまた一難。
 今度は、フランスの東洋学者、ポール・ペリオがやってきた。1年後の19 08年3月のことで、やはり5000巻以上の経巻を持ち帰ったのだ。
 ペリオは「伯希和」(ポシホ)と中国名を名乗るほどの中国古典学者でもあった。スタインも学者としてはなかなかの人だったが、しかし、ペリオは自ら漢籍を理解するほどの人だった。
 つまり、敦煌の洞窟にある様々な遺物の中から値打ちのある物だけをより分ける目を持っていたということである。これによって貴重な経巻はことごとく持ち去られてしまった。中国政府はペリオの後すぐに敦煌文物の保全を号令を発した。そして命令を受けた蘭州の陝甘総督は、残り8600点ほどの文物を急いで北京に送ることとなった。余談だが、このあと1912年に日本の大谷探検隊が、そして1914年にロシアのオルデンベルグ探検隊がこの地を訪れている。そして日本隊は500巻ほどの経巻を、またロシア隊も相当数の経巻を手に入れた。王道士が、中国政府の保全号令があってからもちゃっかりと隠していたのだ。その時の日本隊が手に入れた文物は現在、ほとんどが龍谷大学に保管されている。 さていよいよ、敦煌莫高窟の仏像や壁画だ。
 莫高窟までは、敦煌市内から車で一時間余り砂礫の中を走ること20Km。そして、鳴沙山の断崖が見えてくると、そこが莫高窟だ。
 駐車場の売店には、何処の国にもあるような安直な土産物が並んでいる。中国では何処で買い物をするにしても価格の不安がつきまとう。そして、客引きもうるさくつきまとう。
 そこから少し歩いていよいよ莫高窟に向かう。目の前にある鳴沙山の崖にあの有名な千仏洞があるのを推察しながら、ふと左側を見るとと茶褐色の荒々しい山が現れている。これが「三危山」だと直感した。
 「三危山」は少年の頃、「西遊記」で読んだ山にしては少し拍子抜けの感がある。そんなに高い山ではなくそれ自体に峻厳と言う言葉は当てはまらない。
 しかし、周りが砂漠であることを考えると、この山は厳しく、よくもまあこんな所で古来侵略の戦いが繰り広げられてきたものだと考え込んでしまった。
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 ↑第428窟「漢の武帝の天漢二年秋九月、騎都尉・李陵は歩卒五千を
 率 い、辺塞遮虜障を発して北へ向かった。阿爾泰山脈の東南端が戈壁(
 ゴビ)砂漠に没せんとする辺の磽かくたる丘陵地を縫って北行すること三十 日。朔風は戎衣を吹いて寒く、如何にも万里孤軍来るの感が深い。漠北・浚 稽山の麓に至っては軍は漸く止営した。既に敵匈奴の勢力圏深く・・」
 中島敦「李陵」まさに中島敦の世界を想起させるのだった。
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  ↑第329窟西龕天井「仏伝」部分「乗象入胎」初唐
過酷な自然の中にも人間は生きている。大都会から見れば過酷に見え
ても、その反対から見れば、それまた過酷ということになるのだろう。
住めば都とはよく言ったものだ。
西域のオアシスの旅は、信仰への旅であるのかもしれない。この過酷な自然界に残っていて、都会で無くなってしまったものは、あるいは唯一信仰ではないだろうか。貧困や不潔から救われたい気持ちが信仰心を生んだのなら、それなら科学となんら変わらない。そうではなくて、信仰は、もっと人間の内なる世界への救いに根ざしているはずだ。そこには、貧困や不潔は当然存在しない。
 中央アジアは、西と東がぶつかり合う交差点だ。そこでは、多種多様の人の体と心が交わって、常に新しい精神を昂揚してきた。その為には、戦争も絶えることがなかった。価値観の交差点でもあったのだから。
 そして、そのような過酷な変遷にあっても、人々の信仰心が普遍であったことの証左が敦煌の千仏洞なのだ。
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 →第57窟「樹下説法図」敦煌で最も美しい像とされている菩薩。
 壁画のなかの白眉である。 

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