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3 時間性の問題
そこで現存在の時間性の考察となる。 日常において非本来的で頽落に生きているわれわれの在り方は、「死」の深淵に気づいたとき、ハイデガーは本来性を垣間見るという。そして世の中の役者として、既成概念との迎合や伝統の解釈に気遣って振る舞っている自己が本来的に存在しうる可能性に直面する。日常の自分の役柄の意味が問われるのである。いまの自分は本来の自分なのだろうか、と。 ハイデガーは、存在が時間とは切り離せないもの、時間的な性格をもつとする。だから有限の人間の存在について考えたのである。死は有限の証拠である。 人間は、生まれたときから死ぬときまでの有限に区切られている。非本来的に頽落した日常の現存在は死をもって無くなるのである。われわれは死を孕む生を生きている。それは死という可能態に向かって生きているということでもある。有限であるからこそ死を覆い隠したわれわれの日常は、死への先駆によって本来の自己を招来するのである。 この有限の時間の本当の意味はどういうことなのであろうか。 いわゆる時間とは、一直線上を現在過去未来と区切って考えられている。われわれは、時間の流れの中に存在していて、時間を測り、時計でもって現在を知る。つまり時間は客観化して見ることのできるものであると思っている。 ハイデガーは、時間性は現存在の意味と考える。現存在は有限な時間性で死に向かう可能性としての存在である。死を先駆している実存は、現存在の時間性の意味を読み取るのである。死の覚悟によって、日常へ新たに本来的な行為の場として立ち返ることができ、真の生を見つめることができるのである。将来から現在への立ち返りであり、過去を本来の自己のものとして受け入れることである。 ハイデガーによっては、これが現在の時間性と考えられている。将来が現在へ到来し、現在が過去を引き受けるというわけで時間は流れていないのである。我々が川の流れのように流れていると思っている時間は、限りなく流れていると思っているが、実存論的には有限の時間であって、限りがあるのである。時間は流れているのではない。 有限的実存と時間性については概ねそういうことであろうが、死を自覚し先駆することによって本来的実存へ立ち戻り、そしてそこから立ち出でる可能性とはどのようにしてもたらされるのであろうか。ハイデガーによれば。それは「良心」の呼びかけであるという。 「良心は気遣いの呼び声としておのれをあらわにしている」* 7 おのれは、普段の頽落な日常にあって、自分自身の存在の在り方を気遣う存在であり、良心の声によって頽落から離れて自分の声が聞こえて来るという。そして、おのれの負い目や人に対して責めある自分であることをほのめかすのである。 「現存在のうちでその良心によつて証しされているこの際立った本来的な開示性 〔最も固有な責めある存在をめがけて、黙秘したまま不安への用意をととのえて、おのれを企投すること〕これをわれわれは決意性と名づける」* 8 ハイデガーの実存哲学は、「生」を内包する。「有り様」について、ハイデガーによれば、現存在の分析における世界内存在の人間の存在了解と作用は、実は自らの時間を生きていることの証左である。
様々な作用による生起が自らを時間化して生きているのである。人間は、過去、現在、未来の一直線上の時間を生きて過ごしているのではなく、生滅の中で己の生を時間化して存在させているのである。それが生への生起となるという。 * 7ハイデガー・桑木務訳『存在と時間』岩波文庫57節
* 8ハイデガー・桑木務訳『存在と時間』岩波文庫60節 |
メスキルヒの森
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