メスキルヒの森

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メスキルヒの森12

 「実存の揺れ動きは、目の前のものの運動ではなく、それは、現存在の延び拡がりから規定されます。延び拡がった自己伸長の特殊な揺れ動きを、私たちは現存在の生起と名づけます・・・」* 9
 
 人間は、過去、現在、未来の次元を持つことができるが、それはどのような在り方なのであろうか。これについてハイデガーの分析は、「人間は一定の時間を生きているのではない」という。つまり、日常の背後にある「死」について人間は頽落しているが、死の非在化は存在を肯定するよりどころであるという。いまここに「ある」とはどういうことか。それは「死」であり「生」である。ハイデガー哲学の有名な「死の現存在分析」の「死」をどのように捉えるかは彼の思想全体の根幹をなすものである。
  
 「死ぬこととしての終わることが、現存在の全体性を構成しているならば、様々な存在そのものは、そのつど自己の現存在の実存論的現象として、理解されねばなりません。終わることと、それによって構成された現存在の全体存在とにおいては、本質から言って、なんらの代理も存していないのです」* 10                                
  「大切なことは、現存在の終わっていくことの実存論的意味が、現存在自身から推定されて、このような終わることが、実存している存在者の全体存在を、どのように構成できるかを、召すことなのです」* 11
 
 ハイデガーの死の分析は、人間は死する存在であるという脅迫観念の意味で理解されているところがあるが、現存在を構成する死の分析はそういう脅迫観念というよりむしろ死のもたらす可能性と裏腹なものであることを示していると理解するべきである。
 このことは「覚悟を決めることによって現存在は、本来的にその実存において、現存在が自分の無いことの無いという根拠で在る、ということを引き受けます。わたしたちは死を、実存論的に、実存の不可能生という特性づけられた可能性として、すなわち現存在の全くの非性と解しています」* 12という死の規定に見られるが、死は物理的な身体の崩壊を意味するだけではなく、むしろ生への存在を可能にする裏腹な瞬間、刹那として分析しているのである。        
 
  「死はひとつの存在可能性であって、これをそのつど現存在自身が引き受けねばならないのです」* 13
  つまり死によって「生」が可能になるということである。初期の仏教では、死と生については諸行無常、諸法無我、涅槃静寂としてなかなか「生」への発露としての姿勢が見えてこないところがある。仏教のそういう個人の内で完結する姿勢が、現在にもいささかの影響があるようにも見えるが、ニヒリズムという社会を見つめるハイデガーとは明らかにそのスタンスを異にするところである。
 生と死が裏腹である、つまり生滅は瞬間であるという刹那的現存在の理解は、仏教においても刹那論は概ねどの学派においても承認されている考えである。「ものは瞬間にしか存在しない」とする刹那論は、経量部がもっとも強力に考えた。しかし有部は、ものの「ある」については考えたが、人間自身の実存については語られることはなかった。                      
 これまでで、ハイデガーの現存在と死の分析は、本来性を導くための前提のようになっているが、果たして「死」の先駆的自覚によって本来性が到来するものなのであろうかという疑問がつきまとう。
  確かに、日常生活においては死のことなどすっかり忘れている。病気にしても、患ってみてはじめていつも健康のありがたみが身にしみるのだが、それでも普段は再びすっかり忘れている。人間とは、忘れてしまうのが得意なのである。忘れるから人間なのではないだろうか。
 本来性には気づいていても、それでもいつしか忘れてしまっているものではないだろうか。それでいいのではないだろうか。
 むしろ、普段は忘れているがいつかは死ぬ、という漠然とした死への怖れこそが今の人間界の秩序となっているとも考えられる。
 死への怖れは、聖なる世界を創出していて聖俗の境界線に宗教世界が展開することこそ根源的で自然なことである。宗教の宗教たるところは、世界の根源的な不可得に向かい合い、どうすることもできないものへの畏怖の念を抱くところにある。
 科学が人間の命を延命させることに躍起であるが、もし仮に人間が死ななくなったら人間界の秩序はどうなるのであろうか。葬式がなくなって死の不安がなくなるなんてことはあり得ないだろうが、それでも怖れを知らずに科学の挑戦は続いていく。現存在は投げ出されていて、そして科学的解釈の可能性の存在、つまり被投的企投の頽落にあるからである。
 どんなに科学が進歩しても、大いなるものへの畏怖が本来性を導くのであって、科学や現象学的分析によって悟りを開けるものではない。
 しかし『存在と時間』に見る存在論は、あまりにも「人間」「主体」「主観」「直感」が全面に出過ぎているように思われる。人間中心主義的な文化の克服にあたって、しかしながらそれはきわめて人間中心主義的なものとなっている。ニーチェの「生の哲学」の影響の範疇とも思えるところである。ハイデガーは、大乗の「空」に近いかも知れないが、そうだとしても、因縁によって生起する故に「空」と捉えること自体が因果関係的捉え方であって、それは人間中心主義であるということになる。
 また、死の不安の自覚を打ち消すことの必要性はわかるが、それをいかに乗り越えるかと言うことについてはなにも言われていない。死の不安の分析に終始しそこから先が見えてこない。実践の哲学ではないのである。
 そしてまた、「本来的」という理想郷の想定によって人間の現実を否定するが、存在の解釈に終始しすぎて現実の不条理との乖離に納得性が持てないところがある。これは「悟り」という理想郷をもつ仏教にも似ているが、そこにある違いは仏教には「行」という実践があることである。
 ただ後期の「転回」といわれる時期、たとえば『哲学への寄与』などにおいてはまさに「転回」であり、『存在と時間』では現存在の日常性と本来生、つまり「関心」といわれるものが現存在自身に即して分析されていたが、これがザイン(存在)そのものとの関係で述べられるに至っている。
 空海なら「即身成仏」、親鸞なら「正定聚」、道元なら「本証妙修」である。そのまま仏の命をいくこと、これは普通の人間にはとうてい無理なことだが、そういう悟りという境地をあれこれ人間が語ることができるというのが本来性に開かれて在ることの証左でもあるのかもしれない。
 後期のハイデガーはこのような本来性への転回と解することができる。後期のハイデガーの「性起」は、世界内存在の分析に終始した頃からに比べればはるかに宗教的であるといえる。それは、空海の即身成仏思想にも似ていて宇宙と現存在の同化に至っているようにも思えるところである。
 
 * 9「存在と時間」第72節、歴史の問題を実存論的=存在論的に解明すること13    6頁
 * 10ハイデガー・桑木務訳『存在と時間 中』 岩波文庫214頁
 * 11ハイデガー・桑木務訳『存在と時間 中』岩波文庫217頁
 * 12ハイデガー・桑木務訳『存在と時間 下』岩波文庫161頁
 * 13ハイデガー・桑木務訳『存在と時間 中』岩波文庫232頁
 

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