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鈴木大拙が言ってますことを以下引用します。
『普通吾等の生活で気のつかぬことがあります、それは吾等の世界は一つでなくて、
二つの世界だということです。そうしてこの二つがそのままに一つだということで す。二つの世界の一つは感性と知性の世界、今一つは霊牲の世界です。これら二つの 世界の存在に気のついた人でも、実在の世界は感性と知性の世界で、今一つの霊性的 世界は非実在で、観念的で、空想の世界で、詩人や理想家やまたいわゆる霊性偏重主 義者の頭の中にだけあるものだときめているのです。しかし宗教的立場から見ます と、この霊性的世界ほど実在性をもったものはないのです。 それは感性的世界のに比すべくもないのです。一般には後者をもって具体的だと考えていますが、事実はそうでなくて、それは吾等の頭で再構成したものです。霊性的直覚の対象となるものではありません。感性の世界だけにいる人間がそれに満足しないで、何となく物足らぬ、不安の気分に襲われがちであるのは、そのためです。 何だか物でもなくしたような気がして、それの見つかるまではさまぎまの形で悩みぬくのです。 即ち霊性的世界の真実性に対するあこがれが無意識に人間の心を動かすのです。 これは大なる哲学の問題にもなりますが、それはとにかくとして、人生の日日は矛盾で充ちているものです。吾等は大抵それに気づかずに過ごすのでありますが、一旦気づき出すと、その解決に悩むものです。 悩みながら、あちらこちらと彷徨いつつ、何とかしてそれから離脱しょうとします。 このはてしない努力が進められるにつれて、今まで送って来た生活なるもののいかに不真実で無意味であったかということが次第にわかって来ます。この段階にまで進んで来ると、吾等は、何かしら次元を異にしたところに・・・・・。』 (とつづくのですが引用はここまでとします)
「次元を異にしたところに・・・・・」、その境位については「芸術作品の根源」において顕著に垣間見られるような気がしています。わたくしはエゴン・シーレ↓などにもとりわけ感性とか理性とかを超越したものを感じるのです。
門にエゴン・シーレと書いてあるのがオシャレ (トゥルンTullnにあるエゴン・シーレ博物館)
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オーストリア
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「日本の霊性」が欧米で翻訳され、
多くの知識人が読んだ事によって、
ボーアやハイゼルベルグなどの偉大なる物理学者が、
その自説で、暖めていた量子論を、積極的に発表する事が出来たのです。
その世界が、こころ/霊の世界です。
量子運動は3n次元運動です。
ゆえに1個の量子運動は4次元グラフで再現できます。
しかし、複数になると人間に認知できる領域を超えます。
その超えた量子の波動関数が大脳の補足運動野にてキャッチし、
エンドルフィンを初めとした分泌物の生成、
分泌の可否の指令を行うのです。
こころ=宇宙が、医学的にも物理学的にも認められます。
もちろん唯物論者は認めませんが(笑)。
真理から遠く離れたキリスト教のカタストロフィーを破り、
創造主の存在を直に求める意識が欧米人のなかで表出れます。
すでにアメリカ人の1/6が、キリスト教教義を超え、
権力中枢にいる人間のみが純粋な教徒。ポチ
2011/3/3(木) 午前 6:55 [ こころが立派になればいい ]
こころが立派になればいいさん、もともと初期のキリスト教はどうだったのでしょうか?現在の悪い意味でのヒューマニズム、科学至上主義は聖書の言葉解釈にどうにもならなくなって初期の神秘性を排斥してしまったからのように思っています。自分の言葉にがんじがらめになってしまったということかもしれません。
2011/3/3(木) 午後 5:30
霊性は、ギリシャ正教、並びにグノーシス派に残っています。
また、マイスター=エックハルトは、ドミニコ会にて、異端とされますが、20世紀には聖人に列せらます。エックハルトの説法は西田幾多郎も指摘していますとおり、「神との合一」そして、日常での勤勉を説いています。これは、明らかに325年の三位一体論に、反旗を翻すものです。明らかに4つの福音は、ユダヤ教のジンテーゼを説くものです。聖書は翻訳の度に、その神聖さを失っています。
エックハルトの説法は、道元禅師の帰国後2つ書かれた「普勧座禅儀」の後期に書かれたもの、すなわち「十牛図」の意図と同様です。
ユダヤ・キリスト教、イスラムは意図的にねじまげられたのです。
2011/3/3(木) 午後 8:24 [ こころが立派になればいい ]
こころが立派になればいい様、参りました。私どもよりはよほどいっぱいの知識を習得のご様子、自らを恥じ入るばかりです。もっと勉強しなくちゃあ(笑)欧州に行くのは、同じ人間なのにどうもなにかが違う、という疑問をこの目で解決したいからです。そこにキリスト教の存在が大きいということに何十年前かに気がつきました。でも、・・・でも、キリスト教徒とて、同じ人間の繋がりがあるはず、「繋がり」とは何か、みたいなところで今も通っています。(笑)
2011/3/3(木) 午後 9:31