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10数年前のチベットのラサはとても民族的なところでしたが、最近のラサはすっかり中国的になってしまいました。とても残念な気がしますが、チベット族の人たちはもっともっと残念でありましょう。
民俗学の研究と言えば、レヴィ・ストロースが思い浮かびます。チベットの喫茶店の二階からパルコルを見下ろしながら、地球にはほんに様々な文化が在ることとレヴィ・ストロースに思いをやりました。
目の前に繰り広げられている信仰心の塊のようなチベット族の人たちの真剣な顔は、宗教と聞いただけで思考停止してしまう多くの日本人にとってはただただ珍しいと言うだけのことでしょう。
さて、世界各地に拡がる風習や神話には何千キロメートルも離れているのによく似通った話しがあることが珍しくありません。たとえば、親族論(婚姻関係)について見てみると、近親婚の禁止というのがあります。どの地方や文化でも、人類は無意識のうちにこういう習慣をとっています。人間が意識した制度ではなく、無意識の「構造」に注目したのがレヴィ・ストロースです。
20世紀の中頃過ぎまで全盛だったマルクス主義によりますと、人間の意識した社会の諸制度は必ず経済上の動機がかかわっているといいます。支配階級と被支配階級との対立の在り方が社会のあり方を決めるというのでした。しかし、このような階級対立の歴史じゃなく、レヴィ・ストロースは、民俗学の研究から、社会は人間が無意識に作り上げているつかみ所のない制度によってなりたっているといいました。
あれだけ騒がれもちあげられていたマルクス主義は、いまやすっかり人々の支持を失ってしまいました。
「構造主義」は、マルクス主義を超えたように見えます。しかし、資本主義が幻想だとマルクスは言いましたが、
その資本主義が生きながらえてますます複雑に深化を遂げているゆえに、皮肉にも、構造主義がマルクス主義をエサとして発生したとも言えます。
しかし、レヴィ・ストロースはよかったが、その後の構造主義は新たに、高度消費文明資本主義社会の構造はとりだしてみたものの、そこには悲観的な冷たい現状分析ばかりが並べられるだけで、閉塞感の中でなんの展望もないように見えます。たしかに、これだけ複雑化したシステムのジャングルでも、出口を求めて思索するべきなのが人間という者のように思えます。
それなのに構造主義は、私はなぁーるほど、ごもっとも、とは理解できるのですが、どうも悲観的に過ぎて、閉所恐怖症にでもなったかのようになんとなくいい気持ちがしないのです。
レヴィ・ストロースにあった人間発見のようなところが好きです。以下、橋爪大二郎氏のストロース著『悲しき熱帯』要約。
『未開人だ、野蛮人だ、文明に取り残されて気の毒だと偏見でみるのはよそうではないか。彼らは繊細で知的な文化を呼吸する誇り高い人々だ。われわれのやりかたとちょっと違うかもしれないが、そして、物質的には簡素かもしれないが、なかなか理性的な思考をする人々なのだよ』
日本人は特に世界が狭いのでなかなか偏見から抜け出せない傾向にあるのではないでしょうか。
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