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ポンソビー通りを右に曲がろうとしたら、ビールの看板が見えた。
レトロなその建物の雰囲気に引き込まれてドアを押した。
注文を聞きに来た女性が日本語を吐いた。
「日本人の方でいらっしゃいますか」
丁寧な日本語に、なんとも懐かしい気持ちになった。
中心部から離れたこんなところで日本人。
日本人と言うだけで信じられる何かがある。
これは何だろうか?
昨日、迷い子預かり所でいまにも泣き出しそうな子供。
四、五歳くらいだろうか?
不安一杯の真剣なその表情、こちらまで涙目になりそう。 そこに母親が現れた。 子供は脱兎のごとく走り出し、母親の手の中にジャンプ。 そして小さなこぶしで母親を叩きながら号泣。 この世の中で母親が一番信頼できる。 純粋で疑い様がない。
信じ切っている。
大人は、信じるということを信じない。 認識することは、妥当を求め常識に行き当たる。
それは信じることの放棄である。
むかし、祖母は朝夕の祈りを欠かさなかった。
それを見ていて、なんとも迷信的におもったが、その祖母の言葉が今ごろよみがえる。
「念仏を唱えていれば、あの世が信じられるようになる」 信じられるものがあるということはいいことだ。 フッサールがいった。 認識はどのようにして自己を超えて、その客観に確実に的中しうるのであろうか?「現象学の理念」
それはそうなのだが、その結果、人間はみんな独我論に陥りやすい。
信じることは独我ではない。
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ヴュルツブルグのビュルガーシュピタールというワイン醸造所にいってどうしても |
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とにかく、暑さのなかを異臭が充ち満ちていました。 |
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ふと思うことがあります。
自分はどのようにして死ぬのか。
死ぬときの姿はどんなのだろうか。
病院のベッドで、家族の顔を見ながら死んでいくのか。
何かの事故で、あっという間に死んでしまうのだろうか。
意識はあるのに、見かけは植物人間で毎日涙を流すのか。
つきなみに弱っていって、何かの病気とともにあれよあれよといってるうちに死ぬのか。
いずれにしても、生と死の境目に臨んで、生と死の境目に居るんだと認識できる状態ってどんなだろう。どんな風にして息を引き取るんだろう。その時は、涙がでるんだろうか。
それって、どんなんだろう?
そして死後のこと、これまで築き上げた自分ワールド、はどうなっちゃうんだろうか。
それなりに偏ったかなりの蔵書。それなりにこだわった世界の写真集、それなりに苦労した「僕の人生」というもの。もちろん、すぐにみんなに忘れられてしまうようなものだが。
フェズの町の迷路にウロウロしながら、人生の迷路から抜け出る時のことを考えてしまいました。考えてみれば迷路にいるときがイチバン幸せなのかもしれない。
たとえ貧しくとも、少々手足が不自由でも、迷路にいると、取りあえず目先のことは忘れられる。このままずっと迷路にいる保証があるのなら最高だけど、これは迷路に紛れているだけだと思い知らされるときが来る。それが「死」だ。
迷路の中の日常の不満なんて、迷路の外があることを思えばたいしたことはありません。
だから、迷路の中と外を超越した境地に幻想を抱き続けているのです。
死んだらおしまいだ。
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ヴィトゲンシュタインが、、語り得ぬものについては沈黙しなければならない、といったが、それはハイデガーのいう、実存的了解に至ったからであろうか?
僕が彼らが好きなのは、哲学の解説者ではなく、自ら哲学した
人たちだからです。
美しい景色は世界至る所にあるが、眼下にサンクト・ヴォルフガング湖を臨むシャーフベルク山は忘れられない。
山小屋の一夜は、ワインとともにヴィトゲンシュタインの国を見渡しながら暮れていきました。 |



