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人間、ある歳になりますと、自分はどのように死んでいくのだろう、と思い始めるんじゃないでしょうか。
自分の親なり友達なりが死んでいく年齢になりました。死が身近に死が次々と起こる歳になったとき、人生のはかなさ、限りあるということ、に思い至ると思います。みんながやがて確実に死に至ります。
いま私は、「死」が、私の死が、わたくしがどのようなかたちで死んでいくのか、そのときの情景はどんなだろうか、なんて思う時があります。
どんなきっかけで、それは病気なのか、交通事故なのか、老衰なのか、癌で苦しみのたうち回るのか、あるいは思いも寄らない出来事なのか、いずれにしても死んでしまいます。おそかれ早かれ。
死の直前、誰かがわたくしの顔をのぞき込んでいる。それがわかりながら私は死んでいくのです。その情景はどんなだろうか。
若い頃は、そんな死についてわかっているようでわかっていませんでした。
わかるはずも無かったと言うことが、いまこの年になってわかります。
いま突然倒れて死に至りそうになったとして、自分の死がすぐに処理される人はあるいは幸せかも知れません。
倒れて死んだとして、かなり時間が経たないとわかってもらえない死もあるでしょう。
それも、死んだらそれでみんな条件は同じ。死んだらみんなその瞬間無です。
死んだとき、無念も何も、その瞬間、意志は在りません。後悔も苦痛も。
死んだら今見えているもの、聞こえているもの、もちろん消えてしまいます。
というより、その消えてしまったということすら意識できません。
タブリーズという古都を出て、マラゲーという村を過ぎたとき、羊を追っているお年寄り、かなりのお年寄り、に出会いました。(写真・上)
それなりに、おしゃれなんですね。
彼の顔のしわは、人間の生まれて死ぬまでの歴史の証拠に他なりませんでした。
いろんなことを想像させます。
そういえば、日本でも昔は皺の深い老人をよく見かけましたが、なぜかこのごろは
あまり見かけません。
シワって、なんだか苦労の象徴の印象がありました。
シワはすべての生きてきた瞬間の表れでした。
そして、でも、死んだら皺も消え去っていきます。
燃えて灰になってそれだけのこと。
すべてが、灰になるだけで、そこに灰になる前の己の悔いはありません。
この写真の老人、なによりいいなと思ったことは、皺のこと、生きてきた歴史など゜、まったく頓着していないのです。死ぬまで、倒れるまで羊を追うだけなんだといいます。
追いかける羊がいていいなぁと思いました。
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