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写真上 フライブルク大学
写真下 シュヴァーベン門
いつの間にか大学構内に入り込んでいました。にぎやかな通りからちょっと入っただけでそこは
フライブルク大学でした。大学門などなく、町中の建物の延長に大学の建物はありました。
学生がちらほら歩いていましたが、みんな質素な感じで本を何冊も小脇に抱えて急ぎ足でした。
学問しているのだ、というアカデミックな感じが漂ってました。
日本のようなケバケバしい格好の女の子など見あたらず、みんなジーパンにTシャツ姿です。
日本の大学はどこでも、入学すれば卒業までは時間つぶし。おしゃれとおしゃべりの毎日。
でも、西欧では入学したら卒業の保証はありません。誰でもが入学できても、その大学にふさわしい
学問を身につけたと認めて貰わないと卒業証書はいただけません。黙々と本を読みます。
日本とはシステムといいますか、根本的な考え方がちがいます。日本も、卒業を難しくすれば
全体の教育レベルが回復できるんじゃないでしょうか。そのようにすると大学の数が多すぎるということ
に気がつくと思います。事業としての商業的大学では、そのような理想の実現は無理でしょうから。
さて、フライブルク大学の私講師だったハイデガーは、1917年3月21日に、フライブルクの聖母
教会の大学礼拝堂で結婚式を挙げました。
ハイデガーはカトリック、相手のエルフリーデ・ペトリはプロテスタント。当時では、プロテスタント
とカトリック、日本人にすれば同じキリスト教なのですが、異宗婚としてたいへん大胆なものでした。
このころからハイデガーはプロテスタントやカトリックが正統とする信仰に関係なく、キリスト教
精神において神に祈るようになったようです。
当時、カトリシズムのシステムがハイデガーにとって問題を孕むようになってキリスト教と形而上学に
ついては新たな意味でそれを受け入れたいと言ってます。
フライブルク大学はカトリック、マールブルク大学はプロテスタントというようにそれぞれ色が付いて
いました。ハイデガーがマールブルク大学に正教授として就職できそうになったとき、彼はカトリックの
出であるということで断られます。それほどに、カトリックとプロテスタントの違いがありました。
人生のほとんどをフライブルク大学とシュヴァルトヴァルトに生きたハイデガーはやがてキリスト教
をも超えたと言いますか、包括した境地に達します。それが日本人に共感を覚えさせ、アーリア人にして
こんな脱皮ができたんだと驚嘆もさせる哲人になりました。
その思想は難解きわまりませんが、まずはフライブルク大学の地にたってみようと思いました。
いまだに引きずっている「過去」を精算するために。新しい入り口を求めて。
人間の本来性はどこに。
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