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ホテルのレストランにて
あてもなくホテルを延泊しましたが、まあ漠然と延泊するよりは少しは
「期待」があるじゃないかと自分に言い聞かせました。しかし、どこに期待が
あるのか、なんの手がかりもないじゃないか、と思うとせめて電話番号でも聞
けば良かったと後悔しきりです。そのまま小一時間天井を睨んでいたようで
す。
今夜は、飲んで寝るしかないのかな。冷蔵庫のビールの栓の音が部屋にこだ
ましました。ポン、と言う音は昔懐かしい音でした。
それでも居心地が悪くて僕は、フロント横のレストランに向かいました。こ
んな夜はなぜか人のいる場所で飲みたいものです。でも、ホテルのレストラン
には誰もいなくてガランとしていました。まあせめて、狭い部屋よりは広くて
明るいだけでも気分が晴れると思い直してビールをオーダーしました。
そのとき、ボーイさんが
「ミスター、・・・。電話ですが」と尋ねてきました。
彼女からの電話だ!
フロントのカウンターに急ぎながら僕は飛び上がっていました。
電話の向こうの彼女の声が弾んでいました。村上春樹の話をしていたときの
ようです。
「あした、ヘルシングーアまで来ない?」
「ヘルシングーア?」
「そう、コペンハーゲン中央駅から電車で45分ほど。いま丁度家にかえった
ところなの」
「いいのかい?お父さんの具合が悪いんじゃないの?」
「ええ、父はコペンハーゲンの病院でいまは落ち着いているわ」
「ヘルシングーアって?」
僕は、その駅名の綴りを聞いて明日午前11時の約束をしました。
「Helsingor、今度は約束を破らないわ、安心してね」
という冗談を聞いて電話を切りました。
僕は、レストランのボーイさんに地図がないかと聞きました。
あった!Helsingor、もたらされた地図にその駅名を発見したときは、文字
通り心臓が口から飛び出るほどの興奮を覚えました。
僕はこの地での突然の興奮について、これは何なんだ、と改めて気持ちを落
ち着けようとしました。これとて、人間の本来性が隠蔽されて頽落していると
言えるのだろうか。偶然とか運命とか、そんなものに揺るぐことのない境地
がたいしたものなのだろうとは思ってきたけれど、いまの僕は完全に偶然とか
運命の崇拝者になりきっていました。
そしてその偶然と運命がはかないものでないことのみを祈っているのでし
た。
この地の賢者、キルケゴールに倣えば絶望からの快方が僕にもやってきたと
言うことなのだろうか。でも、僕はもともと絶望なんてこの地球に僕の生命が
宿ったときから絶望にちがいないと思って居るんだけど、つまり絶望とは無に
帰すると言う意味で、だから逆説的にはいわゆる絶望なんかじゃない、絶望は
瞬間の運命的な生なので嘆くことなんかじゃない、だからいいこともある、そ
う思っている。
僕は、レギーネ・オルセンに永遠を求めることに疑問を感じたキルケゴール
の精神性はよく分からない。僕も永遠なんてまやかしの言葉のように思って
いるけれど、でもこのたびはその言葉の誘惑にあがなうことはできない気がし
ました。
今がいい、今が良ければそれでいい。それは、性的興奮に似て
いて、人間の本来性はこういう語り得ない領域もあっていいんじゃないかと、
そう自分に言い聞かせていました。刹那的という批判の声は僕には聞こえな
い。
明日はヘルシングーアに向かいます。
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