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信仰しているものがある人は羨ましい
「いかに生きるのか」「どのように生きたらいいのか」
とひとは悩み迷う動物でしょう。
「生きる」に対して、アレコレいくつもの方便が用意されていますが、
どれもイマイチ、うーん、と納得がいかない。
そんな時、「信じられるもの」「信じるよりどころ」のある人は
羨ましいと思います。
「ある」、自分がいまここに「ある」ということさえ、その根拠について
書かれたものがあって、それをそうだと信じていきていければいいなと思いま
す。
でも反面、信じる人たちは、心のどこかに「不安」を抱いて居るんじゃ
ないかと疑ってみたくなります。
それは、自分の都合のいいように信じて居るんじゃないかという
不安です。他者の自由な意見に耳を貸すことなく、コーランや聖書の一節を呈
示することによって誤魔化して生きて居るんじゃないかという不安です。
ライオンの衣を借りるなんとかのように、聖書の言葉を借りてまことしやか
に生きてしまって居るんじゃないかという不安です。困ったときの聖書頼みと
言うわけです。聖書の言葉とて、その読み手の都合次第によっていろいろで
す。キリスト教とて右から左まで、イスラム教とて原理主義まで、それぞれ本
当の神の言葉は利用されているかもしれません。教条は、解釈を産みます。
解釈によって正しい生き方が生み出されるとすると、正しい生き方とは何な
のでしょうか。そういう後ろめたさにつきまとわれているんじゃないかと言う
わけです。
どうすればいいのでしょうか。
「真理」や「正解」などほんとうはないのではないか。
そういうことを追い求めるよりも、真理や正解が無いと言うことを、そうい
う無を認識するという「超越」的な境位を考えたらどうなのか、それは結構安
易ことではありませんが、一つの境位です。
いずれにしても悩みは尽きません。
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