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現存在の可能態ということについてアリストテレスによる、存在する物事は可能態と現実態とする、という説明は有名である。例えば植物の生長などでいうと、種子は目や幹や花や実になる可能性があり、これはありうるものが「ある」へと実現することである、ということである。そしてスコラ哲学は、現実存在は可能態としての本質のたち出でたるものとしてとらえ、可能態を芽が吹く前の種子のように考え、可能態から現実存在が現れるとした。「ある」の意味についてハイデガーも、実存はまさに現存在の企投を含むとしている。
しかしながら、我々は、目の前にあるものを「ある」として、目の前にあるものは「ある」としかいいようがないではないかというのが現実である。それが日常というものである。目の前に「ある」ものは「ある」という了解のもとに日常が成り立っている。現に目前のもの、それは客観的に「ある」のだと了解していて、それ以上のなにものではないかと思っている。それが一般的な日常の過ごし方である。
しかし、「ある」ものはいつかは「ない」になる。
「ある」が脅かされるのはやはり無に直面したときである。「ある」か「ない」かが問題となるとき「ある」の意味が問われるのである。そして不安の究極が死であると捉える。「ある」とは、無に直面した存在であって、現存在はそういう存在なのである。
無いということに「ある」は脅かされていてこそ意味を持つ。このことを人間の「存在」の「死」に見いだしているのがハイデガーである。非本来的な日常は本来的な自己が覆われたものであることを死の先駆的自覚によって本来態へと開示されるというのである。つまり現存在が実存するのである。
ハイデガーは、日常に生まれる不安な気分を関心(Sorge)と呼びこの言葉に積極的な価値を与えた。そしてこの不安から、人間はつねに「自分がどういう存在であったか(被投性)」から「自分はどういう存在でありうるのか(企投)」へとめがけて生きている。先述の被投的企投である。ただ彼のいう時間性は現存在における瞬間刹那である。つまり、未来(企投)現在(現存在)過去(被投性)という直線的時間の流れとしては把握できないのである。
繰り返しになるが、現存在は、いつも世界に投げ出されている。この「被投性」は情態性によって、つまり気分を通じて現存在に開示されている。また反面、現存在は世界形成的であって、おのれの何らかの可能性を了解しつつ「企投」することによって同時に何らかの世界を企投しているのである。現存在は、この「被投性」と「企投」、被投的企投として世界内存在の内存在を構成していて、「関心」という概念によって捉えられている。
そして人間は本来的な本当の自分であろうとするところの、いわば本有の菩提心へと実存を分析するのである。
現存在の存在を、しかしながら、「関心」と分析するだけでは現存在の存在を根源的に捉えたことにはならない。現実と可能性と捉えるだけでは実存論的カテゴリーを捕捉できようもない。おのれ自身の「死」にまで先駆けることによって現存在を追い越すことができない可能性に臨む存在(全体性)と、もっとも自己的な可能性に臨む存在(本来性)においてこそ捉えることができるという。先駆的覚悟性とはおのれの死へと覚悟を定めることによって真のおのれに立ちかえってそれを引き受けなおすことである。ないことにあるが脅かされるのである。
そしてこの先験的覚悟性という構造、ひいては関心構造を可能ならしめているのは「時間性」であるとするのである。(注11)
注11 11 木田元『ハイデガー』岩波現代文庫82頁
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