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ハイデガーは、死を分析することによって存在を可能にするものは何かを考えた。
「死からの日常的な転落的な回避は、死への非本来的な存在である」
「死への本来的存在は、現存在の実存的可能性を意味する」(注12)
そしてこの死と向き合う自覚的態度を「先駆」と呼んだ。
「先駆とは、最も自己的な極限の存在可能の了解の可能性として、すなわち本来的な実存の可能性として十分説明される(注13)」
先駆は、気遣う日常生活での「頽落」、つまり世俗への執着、そこから目覚めさせてくれることをいう。「死への不安」からくる馴致、隠蔽、忘却という「頽落」状態にある現存在を自覚しそこから目覚めるところに本来性を生きる可能性を求めている。この可能性のあることを了解することをハイデガーは良心といっている。
日常の「頽落」、それは仏教がいう執着にとらわれた衆生に通じるが、そこで一般的に仏教では、諸行無常をいう。これは世の中のものはいつまでもそのまま続くものではなくて、はかなく形を変えてしまうものだから、そんなものには執着するなということである。そこで「空」が説かれるのであるが、それだけでは現実の否定に終わってしまう。顕教の「空」の処置の限界でもある。顕教の根底に色濃くある現世否定のニュアンスは、その意味においてハイデガーは顕教的であるといえる。
ただ、死に直面して、その「無」の深淵を垣間見たかもしれないが、そこから後のことが『存在と時間』という未完の著書では理解できないところである。ただ顕教的理解の範疇であれば「無」という西洋で忌避されてきた概念に至っていることは明らかである。しかし密教の捉える「無」の概念、つまり存在の不可得(認識の無)に至っているかは大いに疑問の残るところである。
注12 ハイデガー・桑木務訳『存在と時間 中』岩波文庫52節
注13 ハイデガー・桑木務訳『存在と時間 中』岩波文庫53節263
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