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カーレンベルクの丘で、つまらぬ随念とも言うべき記憶の湧出を危うく振り払って、
 
りのバスに乗りました。夜の七時過ぎというのにまだほんの夕暮れです。15分ほ
 
して途中下車しました。そして2010年8月の末、とあるホイリゲの門をくぐりまし
 
た。イメージ 1 
 
                                                                                                                                                                                                                                                                      ところで、過去の後悔と懺悔は誰にでもふいに訪れるるものではないでしょうか。
 
それは、齢を重ねれば重ねるほどその頻度が多くなるようです。
 
若気の至り、とでもいうような後悔から、その頃は確信していたのに今となればそう
 
ではなかったというような後悔など、なんと恥ずかしいことかと、いやいや全くもって
 
悪いことをしたもんだと、ふとした拍子に何の脈絡もなく脳裏に湧いて出てきます。
 
 それは多くの場合、自分の言葉に溺れてしまった時であったことが多いのです。そ
 
時は正しかったのだが、今となってみるとそうではなかった。いつでも自分を正当
 
するため、自分を生かせるため、つまりすべて自分のために自分の言葉を分別し
 
ことの結果です。人の言葉や様々な想いはじつにその時限りのものであると言
 
ことです。時や場所とともに移ろうものなのです。
 分別する?、そうなのです、「分別」とは実に怪しい。
 「分別」とは、常識的に理性的に賢く振る舞うことなり。
  これはじつはとても怪しいことなのだ。
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 白ワインを1リットル注文しました。リッターボトルとワインジョッキーを前にして、静
 
かな空間の訪れを意識しました。分別も理性も必要のない瞬間です。旅の旅たると
 
ころです。
 
 「分別」の反対語は「無分別」。「無分別なことはするな」と教わって生きてきまし
 
た。これはこれでその通り。そうしないと社会が成り立ちません。
 
でも、世間的な常識や規範、判断は「多様」です。すると分別は絶対なのでしょうか。
 
 判断は多様な概念を必要とします。そして、判断は対象とそれを把握する知識、つ
 
まり主観と客観という分別を必要とします。分別は、多様なものです。ですからその
 
ときは正しいと思っても、後になってみるとそうではなかったと言うことになります。
 
 だから、人はなにかしら落ちつかない。なにか開けた場所に安住したいという気持
 
ちが潜在意識のどこかに残っているのです。
 
 分別に生きて何が悪いのかということですが、どこかなにかしら落ちつかない、過
 
去の後悔と懺悔という随念から解放されない、ということであれば「分別」を超えたも
 
のがあるのだろうか。
 
旅の中では、なんとなくそれらしいものがありそうに思える、だから旅をしながらそれ
 
を見つけたい!
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