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4 ハイデガーの現存在と本来的自己
空海が「一心はこれ本居なり」(『般若心経秘鍵』「真言不思議 鑑誦無明除 一字含千里 即身證法如 行行至圓寂 去去入原初 三界如客客 一心是本居」)と述べているが、これをハイデガー的(後期)に言えば、現存在の現という開けた場所が人間本来の住み場所であり、これを基礎づけ、準備して、聖なるものの挨拶すなわち性起を待つならば、いつしかザインは顕現し、詩人、哲人、創造的なるものとして高く住むことができる* 14、ということになる。ハイデガーは、人間つまり現存在の存在の意味を時間性としてとりだしたが、性起という存在の顕現の瞬間は仏教の「空」の時間性を思わせるものがある。
(メスキルヒにあるハイデガーの墓→) ではハイデガーのいう現存在とはなにか。
「現存在が存在する限りでのみ存在は、ある(エス・ギプト)」。すなわち、現存在が存在了解の存在的可能性がただ存在するそのかぎり、において存在は「ある」という* 15。存在者を存在者として俯瞰することを可能にする存在は人間の内(現存在)で起こるのである(存在了解)。だから現存在がおのれの可能性への関わり方を変えると世界の在り方も変わる。本来的な在り方をしている現存在、現存在らしい在り方をしている現存在の存在了解に問いかけることによってのみ真の存在の意味が捉えられるのである。だから現存在が、存在を了解するときのみ存在は生ずる。そして存在とは現存在によって企投されるなにかである。その存在とは何か、ということを現存在の日常態を分析することによって問うていくのである。 世界の在り方については、この世界は現象的には道具連関的在り方をしている世界であって現存在はそういう日常に暮らしている。日常では、ハンマーは釘のため、釘は屋根のため、屋根は人間のため、という道具連関によって成り立ち現存在の可能性へと収斂する。人間というものはその都度の可能性へむけて存在しているからである。ハイデガーは、そういう日常性の中における本来性を現存在に見いだしていくのである。そのために現象世界について、世界内存在、頽落、気遣い、などという分析を重ねて本来性に導いていくのである。 空海のいう六大は、「理」すなわち宇宙の客体原理と「智」すなわち宇宙の主体的原理との合一の表現* 16としてマンダラという世界観を提示するが、ハイデガーのいう本来あるべき現存在によって企投されるなにか ー 存在 ー はこの「理」のマンダラに通じるところがある。 「理」は「本有」のことであり本有はもともと衆生に仏の性質(仏性)があることを言う。衆生は本来仏でありながら煩悩に心が覆われているから、仏の性質が隠れていて見えない。「理」のマンダラとは隠れている我々の仏性はこういうものだと表現したもので大悲胎蔵生マンダラがそれに当たる。「智」は「修生」のことであり、修生はその心を覆っている煩悩を修行によって取り除けば、本来の仏性があらわに生まれ出るということである。したがって智のマンダラは、そのあらわになった仏性を表現したものであり、両部に当てはめると金剛界マンダラに当たるのである* 17。 本有思想、つまり本来的に一切智々を現存在に備わっている如来蔵思想を超えた「智」の意味するところについて空海は、五智、三十七智の金剛界の智であるという。空海の把握する成仏の智が世界と存在者の実相の覚知、すなわち真実知や認識知によって完成しているのではない* 18。 ここでハイデガーにおける「本来的自己」はこの「智」についてはどうなのであろうかという問題に突き当たるのである。 西洋近代哲学は、理性による認識可能な本質存在だけを問題としてきた。しかし、理性ではとうてい理解のしきれない「大いなるもの」の存在が理性の前に立ちはだかっているのである。 シェリングは、理性では処理しきれない「大いなる存在」、本質存在だけではない事実存在(existentia)を考えた。事実を問題とする「積極哲学」をシェリングは提唱し、彼はこれを実存哲学と呼んでいた。仏教や密教はもとよりこの事実性に立脚していているところである。 ハイデガーは、シェリングの実存の概念でもって現存在という言葉を造語し、存在了解が性起する場として、あるいは存在が顕現する「場」として「現」を想定しているとされる* 19。 この存在が性起することは日常に覆われていた本来の自己が顕れるということで「如来蔵思想」に通じるものが認められるが、やはりそこからの空海の「智」の領域に迫る展開はどうなのであろうか。ハイデガーは、現存在の時間と場に到達したが、即身成仏したのであろうか。 * 14川原栄峰『時の峰々』南窓社225頁
* 15ハイデガー・桑木務訳『存在と時間』岩波文庫212 * 16松永有慶『密教・コスモスとマンダラ』NHKブックス * 17越智淳仁『マンダラの基礎知識』大法輪閣119頁 * 18村上保寿『空海と智の構造』東方出版87頁 * 19木田元『ハイデガー』岩波現代文庫 |
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2010年09月29日
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「実存の揺れ動きは、目の前のものの運動ではなく、それは、現存在の延び拡がりから規定されます。延び拡がった自己伸長の特殊な揺れ動きを、私たちは現存在の生起と名づけます・・・」* 9
人間は、過去、現在、未来の次元を持つことができるが、それはどのような在り方なのであろうか。これについてハイデガーの分析は、「人間は一定の時間を生きているのではない」という。つまり、日常の背後にある「死」について人間は頽落しているが、死の非在化は存在を肯定するよりどころであるという。いまここに「ある」とはどういうことか。それは「死」であり「生」である。ハイデガー哲学の有名な「死の現存在分析」の「死」をどのように捉えるかは彼の思想全体の根幹をなすものである。 「死ぬこととしての終わることが、現存在の全体性を構成しているならば、様々な存在そのものは、そのつど自己の現存在の実存論的現象として、理解されねばなりません。終わることと、それによって構成された現存在の全体存在とにおいては、本質から言って、なんらの代理も存していないのです」* 10 「大切なことは、現存在の終わっていくことの実存論的意味が、現存在自身から推定されて、このような終わることが、実存している存在者の全体存在を、どのように構成できるかを、召すことなのです」* 11 ハイデガーの死の分析は、人間は死する存在であるという脅迫観念の意味で理解されているところがあるが、現存在を構成する死の分析はそういう脅迫観念というよりむしろ死のもたらす可能性と裏腹なものであることを示していると理解するべきである。 このことは「覚悟を決めることによって現存在は、本来的にその実存において、現存在が自分の無いことの無いという根拠で在る、ということを引き受けます。わたしたちは死を、実存論的に、実存の不可能生という特性づけられた可能性として、すなわち現存在の全くの非性と解しています」* 12という死の規定に見られるが、死は物理的な身体の崩壊を意味するだけではなく、むしろ生への存在を可能にする裏腹な瞬間、刹那として分析しているのである。 「死はひとつの存在可能性であって、これをそのつど現存在自身が引き受けねばならないのです」* 13 つまり死によって「生」が可能になるということである。初期の仏教では、死と生については諸行無常、諸法無我、涅槃静寂としてなかなか「生」への発露としての姿勢が見えてこないところがある。仏教のそういう個人の内で完結する姿勢が、現在にもいささかの影響があるようにも見えるが、ニヒリズムという社会を見つめるハイデガーとは明らかにそのスタンスを異にするところである。
生と死が裏腹である、つまり生滅は瞬間であるという刹那的現存在の理解は、仏教においても刹那論は概ねどの学派においても承認されている考えである。「ものは瞬間にしか存在しない」とする刹那論は、経量部がもっとも強力に考えた。しかし有部は、ものの「ある」については考えたが、人間自身の実存については語られることはなかった。
これまでで、ハイデガーの現存在と死の分析は、本来性を導くための前提のようになっているが、果たして「死」の先駆的自覚によって本来性が到来するものなのであろうかという疑問がつきまとう。
確かに、日常生活においては死のことなどすっかり忘れている。病気にしても、患ってみてはじめていつも健康のありがたみが身にしみるのだが、それでも普段は再びすっかり忘れている。人間とは、忘れてしまうのが得意なのである。忘れるから人間なのではないだろうか。 本来性には気づいていても、それでもいつしか忘れてしまっているものではないだろうか。それでいいのではないだろうか。 むしろ、普段は忘れているがいつかは死ぬ、という漠然とした死への怖れこそが今の人間界の秩序となっているとも考えられる。 死への怖れは、聖なる世界を創出していて聖俗の境界線に宗教世界が展開することこそ根源的で自然なことである。宗教の宗教たるところは、世界の根源的な不可得に向かい合い、どうすることもできないものへの畏怖の念を抱くところにある。 科学が人間の命を延命させることに躍起であるが、もし仮に人間が死ななくなったら人間界の秩序はどうなるのであろうか。葬式がなくなって死の不安がなくなるなんてことはあり得ないだろうが、それでも怖れを知らずに科学の挑戦は続いていく。現存在は投げ出されていて、そして科学的解釈の可能性の存在、つまり被投的企投の頽落にあるからである。 どんなに科学が進歩しても、大いなるものへの畏怖が本来性を導くのであって、科学や現象学的分析によって悟りを開けるものではない。 しかし『存在と時間』に見る存在論は、あまりにも「人間」「主体」「主観」「直感」が全面に出過ぎているように思われる。人間中心主義的な文化の克服にあたって、しかしながらそれはきわめて人間中心主義的なものとなっている。ニーチェの「生の哲学」の影響の範疇とも思えるところである。ハイデガーは、大乗の「空」に近いかも知れないが、そうだとしても、因縁によって生起する故に「空」と捉えること自体が因果関係的捉え方であって、それは人間中心主義であるということになる。 また、死の不安の自覚を打ち消すことの必要性はわかるが、それをいかに乗り越えるかと言うことについてはなにも言われていない。死の不安の分析に終始しそこから先が見えてこない。実践の哲学ではないのである。 そしてまた、「本来的」という理想郷の想定によって人間の現実を否定するが、存在の解釈に終始しすぎて現実の不条理との乖離に納得性が持てないところがある。これは「悟り」という理想郷をもつ仏教にも似ているが、そこにある違いは仏教には「行」という実践があることである。 ただ後期の「転回」といわれる時期、たとえば『哲学への寄与』などにおいてはまさに「転回」であり、『存在と時間』では現存在の日常性と本来生、つまり「関心」といわれるものが現存在自身に即して分析されていたが、これがザイン(存在)そのものとの関係で述べられるに至っている。 空海なら「即身成仏」、親鸞なら「正定聚」、道元なら「本証妙修」である。そのまま仏の命をいくこと、これは普通の人間にはとうてい無理なことだが、そういう悟りという境地をあれこれ人間が語ることができるというのが本来性に開かれて在ることの証左でもあるのかもしれない。 後期のハイデガーはこのような本来性への転回と解することができる。後期のハイデガーの「性起」は、世界内存在の分析に終始した頃からに比べればはるかに宗教的であるといえる。それは、空海の即身成仏思想にも似ていて宇宙と現存在の同化に至っているようにも思えるところである。 * 9「存在と時間」第72節、歴史の問題を実存論的=存在論的に解明すること13 6頁
* 10ハイデガー・桑木務訳『存在と時間 中』 岩波文庫214頁 * 11ハイデガー・桑木務訳『存在と時間 中』岩波文庫217頁 * 12ハイデガー・桑木務訳『存在と時間 下』岩波文庫161頁 * 13ハイデガー・桑木務訳『存在と時間 中』岩波文庫232頁 |
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3 時間性の問題
そこで現存在の時間性の考察となる。 日常において非本来的で頽落に生きているわれわれの在り方は、「死」の深淵に気づいたとき、ハイデガーは本来性を垣間見るという。そして世の中の役者として、既成概念との迎合や伝統の解釈に気遣って振る舞っている自己が本来的に存在しうる可能性に直面する。日常の自分の役柄の意味が問われるのである。いまの自分は本来の自分なのだろうか、と。 ハイデガーは、存在が時間とは切り離せないもの、時間的な性格をもつとする。だから有限の人間の存在について考えたのである。死は有限の証拠である。 人間は、生まれたときから死ぬときまでの有限に区切られている。非本来的に頽落した日常の現存在は死をもって無くなるのである。われわれは死を孕む生を生きている。それは死という可能態に向かって生きているということでもある。有限であるからこそ死を覆い隠したわれわれの日常は、死への先駆によって本来の自己を招来するのである。 この有限の時間の本当の意味はどういうことなのであろうか。 いわゆる時間とは、一直線上を現在過去未来と区切って考えられている。われわれは、時間の流れの中に存在していて、時間を測り、時計でもって現在を知る。つまり時間は客観化して見ることのできるものであると思っている。 ハイデガーは、時間性は現存在の意味と考える。現存在は有限な時間性で死に向かう可能性としての存在である。死を先駆している実存は、現存在の時間性の意味を読み取るのである。死の覚悟によって、日常へ新たに本来的な行為の場として立ち返ることができ、真の生を見つめることができるのである。将来から現在への立ち返りであり、過去を本来の自己のものとして受け入れることである。 ハイデガーによっては、これが現在の時間性と考えられている。将来が現在へ到来し、現在が過去を引き受けるというわけで時間は流れていないのである。我々が川の流れのように流れていると思っている時間は、限りなく流れていると思っているが、実存論的には有限の時間であって、限りがあるのである。時間は流れているのではない。 有限的実存と時間性については概ねそういうことであろうが、死を自覚し先駆することによって本来的実存へ立ち戻り、そしてそこから立ち出でる可能性とはどのようにしてもたらされるのであろうか。ハイデガーによれば。それは「良心」の呼びかけであるという。 「良心は気遣いの呼び声としておのれをあらわにしている」* 7 おのれは、普段の頽落な日常にあって、自分自身の存在の在り方を気遣う存在であり、良心の声によって頽落から離れて自分の声が聞こえて来るという。そして、おのれの負い目や人に対して責めある自分であることをほのめかすのである。 「現存在のうちでその良心によつて証しされているこの際立った本来的な開示性 〔最も固有な責めある存在をめがけて、黙秘したまま不安への用意をととのえて、おのれを企投すること〕これをわれわれは決意性と名づける」* 8 ハイデガーの実存哲学は、「生」を内包する。「有り様」について、ハイデガーによれば、現存在の分析における世界内存在の人間の存在了解と作用は、実は自らの時間を生きていることの証左である。
様々な作用による生起が自らを時間化して生きているのである。人間は、過去、現在、未来の一直線上の時間を生きて過ごしているのではなく、生滅の中で己の生を時間化して存在させているのである。それが生への生起となるという。 * 7ハイデガー・桑木務訳『存在と時間』岩波文庫57節
* 8ハイデガー・桑木務訳『存在と時間』岩波文庫60節 |
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