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カルパッチョ「ヴェネツィアの二人の婦人」 Le due Veneziane
この絵は、コルティジャーネとしてかなり前から知っていた。
それを是非みたいと思ったのは、塩野七生『緋色のヴェネツィア』を読んだときだ。
この中の主人公は、マルコ・ダンドロとオリンピア。
そしてオリンピアは娼婦だが謎の賢い女。
ずいぶん昔に読んだのだが、そのときは本の中でオリンピアにあこがれ恋したほどだ。
コルティジャーネとは、高級娼婦の意味。
それらが重なったのだ。
この絵は、最近では「娼婦」ではないらしいが、そのころは16世紀の娼婦だとおもっていて、そんな説は知らなかった。
今年九月に、やっとこの絵と対面しました。
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雑踏の中に新鮮なものがある。
それが何かと言われれば、「新鮮な自分」とでも言うものだろうか?
全くの一人は寂しい。
雑踏の中の一人は、全くの一人よりは客観的になれるように思う。
雑踏の中の静けさを求めて歩き回るのが好きだ。
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インクラビリ。
incurabili。
「治療のあてのない、もう手のつくしようのない病人を意味する言葉なのだが、・・・、なおる見込みのない人たちの水路。なんだか自分のことをいわれているみたいだ・・・」
須賀敦子は、「地図のない道」でこう書いている。
僕は、むしろ「死に至る病」というキルケゴールの躓きの哲学へ思いが馳せた。
そんなわけで、このインクラビリを探した。
それは小さな水路と細い路地でした。
水路と路地の名前をインクラビリと知らなければどこにもでもあるヴェネチアのふつうの風景だった。なんでもないもののなかに、自分にとっては考えされられるものが多いものだ。
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