ドイツ

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メスキルヒの森 2

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写真 上から
      ホーフガルテンの森

      聖マルティン教会の塔

      聖マルティン教会の中


さて、静かに物思いに耽ってみたいと目をつぶって足を組んでリラックスして

みました。ひんやりとした静かな森の中。

不気味な静寂につつまれてひんやりとした空気を吸う。

しかし、物思いに耽るには、この森はあまりにも突飛すぎる。

全然別の世界にやってきて、さぁて、と構えてみても、何かを考えなくてはと

思えば思うほど焦りすら覚えてしまいます。

静寂な森のなかにぽつりと一人座っている僕の頭の中は、結局一つの想念もま

とまることなく騒がしいばかりです。

 それでも、僕はまず僕のこれまでの人生についてのことに収斂されていきま

した。

考えることって、たいていの場合、自分のこと、自分のやってきたこと、つま

り過去のことです。子供の頃のこと、結婚のこと、親のこと、女の子のこと、

仕事のこと、お金のこと、裏切り、涙、・・・。自分のことばかり。

 振り返ってみて舌打ちするほどの後悔ばかりでも、あえて振り返ることにし

ました。なにせ、ここのベンチとこの森はまったく僕の過去と結びつかないの

ですから。旅の恥はかきすてとばかりです。

 そして僕は、ある女の子のことを思い浮かべていました。そうですね、随分

昔のこと、十代から二十歳にかけての頃のことです。

十代から二十歳にかけての頃のこと、そんなこと、まだ覚えているものなの

です。

メスキルヒの森 1

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 城門の向こうになにかそれらしいものが見えました。

 胸の鼓動が少し高まってきています。

 あっけなく目の前に拡がったその森は、静寂と冷気に満ちあふれていまし

た。

 この薄暗い森、まさにご対面です。

 ついにやってきました。メスキルヒの森。ホーフガルテン。

 しばらくは動けませんでした。

 近くのマルティン教会の鐘が鳴り出すと同時に一歩一歩、おそるおそる

森の中へ入っていきました。

 慎重にあたりを見回す。人っ子一人いない。何の音も聞こえない。

 意味のない不安とこみ上げてくる快感に満足しながら進み続けました。

 ぶ厚い木々の間から狭い空を覗けば相変わらずどんよりと鉛色。

 時雨れていた雨粒はここまでは落ちてきません。

 九月の中頃だというのにマフラーが暖かい。

 森の奥に一本の道が真っ直ぐに伸びています。

 その道を辿っていくと、突然ポツンと十字架が現れました。

 こういうロケーションで突然現れた十字架。

 森がザワザワとはじめて音を立てました。

 そっとベンチに腰掛けて深呼吸。

 時間はいくらでもある?

 なにも考えずにこのままこの森に溶け込んでいたいと思いました。

 思えばもうどれだけ前のことなのだろうか、この森の存在を知ったのは。

 そのころはとても今日のことが実現できるなんて思いもよらなかったのに。

 いつしか、僕は過去のある時期のことを追いかけていました。

 このベンチは、そのころの苦々しい思いを蘇えさせるようです。

 まあいい、思い切り思い出してみよう。

 時間はいくらでもある?・・・

 

 

 

 



 
 

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写真上から  
     ベルリンの壁に添って歩く筆者

     ブランデンブルグ門、門の向こうの景色は当時は壁で阻まれてました。

     有名な HOTEL ADLON から出てくるエリザベス女王

     たまたま出くわしたエリザベス女王

 
 まだ中学生か高校生の頃、ベルリンの壁の意味がよくわかりませんでした。

 東西を二分する壁で仕切られていると聞いても、それがなかなか頭の中に

具体的にイメージ出来なかったのです。

 子供心ながら、そんなバカなことと信じられなかったのです。

 物理的に大変なことだし、そんな壁をそこまでして作るのかというイメージが

わいてこなかったのです。じつにバカげた話としか思えませんでした。

 ドイツという頭のいい国が、そんなことをするはずがないとも思いました。

 しかし、信じられないことにそれは現実に築かれました。

 1961年8月13日、ベルリンは一晩にして「壁」が築かれたのです。

 そして東と西に分けられ、その往来は自由ではなくなりました。

 鉄のカーテンが壁となって現れたのです。

 それが1989年11月9日に突然崩壊しました。そのときのテレビ映像はまさに

 衝撃的でした。壁の上でハンマーや斧やツルハシを打ち付けている人々は

本当にうれしそうでした。まさか、鉄のカーテンが崩壊するなんて、とても信じられ

ない光景でした。人々の自由への喜びがテレビ画面を通じてヒシヒシと感じられたもので

す。
 
 ても「自由」とは、何なのでしょうか?

今でも、中国やミヤンマーやプーチンのロシア、そして北朝鮮など、秘密主義である種の

鉄のカーテンをひいている国は多いです。しかし、こんなのは論外です。

 自由主義の国にあって、「自由」とは何なのでしょうか。

 ほんとうに自由なのでしょうか。

 日常から逃げ出したい。東ベルリンから西ベルリンへ逃げるのじゃなく、

 個々の暮らしの中で、どこかへ逃げ出したい。自由な国にあって、自由ではな

いんでしょうか?

 逃げ出したくても逃げ出せない?

 逃げ出す自由はあるはずなのに。逃げ出せばいいんじゃないですか?

 逃げ出せば、明日からの飯が食えない。

 逃げ出せば、介護の親を見殺しにする。

 逃げ出せば、今の肩書きを失う。

 逃げ出せば、・・・・・、とにかく失う・・・。

じゃあ、逃げようなんて考えなければいいんじゃないでしょうか。

実際のところ、自由かなにかしらないけれど、えいやっと逃げ出したところで、

そんなはずじゃなかった、ということになるんでしょう。逃げた瞬間、また次の逃亡

を考えなくてはなりません。

 

 東ベルリンの時代にあっては、ある日憲兵がやって来て、しょっ引かれて

そのまま消息不明、という恐怖が人々にありました。

 中国国内でも、例えば以前からチベット問題を声高に批判すれば、公安がすっ飛んでき

てしょっ引かれて消息不明になります。北朝鮮で将軍様の悪口でも言おうものなら

どうなるか、ミヤンマーも然り。ここでいう自由と今とはどう違うのでしょうか。

 こんな国々もやがて崩壊するでしょうが、しかし既に、われわれ自由な国になっている

はずなのに自由でないとは、人間の自由とは不自由なものです。ほんとうは自由な国

ではないのでしょうか。資本主義自由社会では「自由」はもたらされないのでしょうか。

比較の問題で、どこまでいっても自由にはありつけないのでしょう。

 
 人間の存在は、こんなこと(現象)に左右されないもっと神秘な意味を持っている

ようです。それを求めて旅を続けているのです。その存在の神秘に行き着けば

きっと「自由」から解放されるような気がしています。

 

 

 

 

 

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写真上から   、「窓辺で手紙を読む女」

         「取り持ち女」

          ツヴィンガー宮殿の前を歩く筆者

          フラウエン教会の前あたり



 三十数点しかないフエルメールの作品の一つ、「窓辺で手紙を読む女」「取り持ち女」を見たいと思っ

てドレスデンに行きました。

 デンハーグのマウリッツハイス美術館で「真珠の首飾りの少女」に悩殺されて以来、

フェルメールの絵は、旅を計画するときの重要なファクターとなりました。

 旅の目的、それは絵であったりビールであったり、音楽であったり料理とワインであったり。

 気ままな旅をしているときは、過去も未来もなく今のその瞬間に集中しているものです。快感です。

 その快感はいったい何なのでしょうか。この体のどこにそんな輝く力があったのだろうかと驚きです。


 エルベ川のほとり、ドレスデンの旧市街地区。バロック風のツヴィンガー宮殿の奥にフェルメール

「窓辺で手紙を読む女」と「取り持ち女」は掲げられていました。

 相変わらずの合理性に満ちた絵です。この時代背景ではいかにも科学的で洗練された絵として

 異彩を放っていたことだろう、と見るたびに思います。

 「取り持ち女」は、しかしながら、いわゆる一般的なフェルメールのイメージとは少し違います。

 カラヴァッジオ的で、フェルメールの冷たさの奥にある人間くささを思わせるのではないかと

思っています。

 ここの絵は、よくあることなのですが、第二次世界大戦後ソ連によって略奪されています。西欧の

戦争持の略奪は美術品が多く災難に遭っていて、それだけ西洋人の美術に対する目があるということで

しょうか。それにしてもソ連による略奪はとくにひどいようです。

 



 






 

 

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 当時ヨーロッパでは、磁器はとても高価で貴重なものでした。
 今日、西洋に始まる科学万能の時代を迎えていて、その西洋において磁器なんぞなぜ作れなかったのだろうかと一瞬思ってしまいます。それほど磁器に枯渇していたようです。
 
 日本では既に1610年頃、有田で磁器の焼成に成功しており、その30年後には中国に倣った色絵磁器が初代柿右衛門によって生み出されています。
 磁器はなんと言っても中国でしたが、柿右衛門が登場した頃、明朝が倒れ、中国では清国の戦略上磁器の輸出が禁止されていました。
 そのため、ヨーロッパの需要が中国から日本に向けられました。このためヨーロッパでは、ちょっとした日本ブームが生まれたようです。

 ヨーロッパでは、輸入に頼る磁器を自前で焼くことが出来れば巨万の富が得られるので諸侯は必死でした。
1708年になってはじめて、白色磁器がマイセンで創出されました。ヨハン・フリードリッヒ・ベトガーという錬金術師による発明です。それはそれはたいへんな苦労の末の大発明ですが、日本の柿右衛門に遅れること100年後のことです。
 
 ベトガーが磁器の発明をすると、ザクセン選帝侯アウグスト一世は彼をアルプレヒト城に幽閉しました。機密が漏れないように厳重な体制が敷かれ、1710年にこのアルプレヒト城に磁器工場がつくられました。「白い黄金」といわれた白磁が売り出され始めました。
 しばらくは磁器製造を独占し大いに潤ったようですが、各国のスパイが入り乱れて、職人の引き抜きなど、結局10年ほどで独占は終わったようです。ベトガーは一生この城の中で暮らし、やがて気がおかしくなったと伝えられています。

 ヨーロッパでは、中国の磁器輸入が一時的にストップしていたので、柿右衛門などがおおいにもてはやされ入り込んでいて、マイセンで白磁が完成し色絵が研究されていくときには、柿右衛門が模倣されたのは自然の成り行きだと思われます。
 18世紀の中頃には、中国の磁器が再び盛り返してきましたので、日本ブームは歴史の中のほんの一時期に過ぎませんでしたが、19世紀に浮世絵が印象派に大きなインパクトを与えことに並ぶ出来事だったのではないでしょうか。

 当時の日本ブームを知るには、ベルリンのシャルロッテンブルグ宮殿やドレスデン国立美術館に行くとよくわかります。
 なぜこんな純日本風の磁器がいっぱいあるのだろうかというほど日本趣味(正確に言うと中国趣味)で溢れています。今も有田に残っているものと瓜二つのものがたくさんあります。何かにつけて白欧主義がのこる現代感覚からすると不思議な感じがします。

 マイセンの磁器工場では、マイセン磁器が粘土から絵付けまで出来上がる工程を見学させてくれています。実に素晴らしい職人技と、その美しさに誰しも感動することと思います。
 このような作業は日本人の専売特許のようなイメージがありましたが、それこそ井の中の蛙、島国根性と言いますか、世界は広くて偉大だと反省しました。
 また、マイセン磁器博物館は素晴らしい逸品で溢れていて、じっくり見るには時間がいくらあっても足りません。

   写真・ 上・マイセン・エルベ川とアルブレヒト城 
       中・磁気工房にて製作中
       下・郊外の農村風景

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