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ヴィトゲンシュタインが、、語り得ぬものについては沈黙しなければならない、といったが、それはハイデガーのいう、実存的了解に至ったからであろうか?
僕が彼らが好きなのは、哲学の解説者ではなく、自ら哲学した
人たちだからです。
美しい景色は世界至る所にあるが、眼下にサンクト・ヴォルフガング湖を臨むシャーフベルク山は忘れられない。
山小屋の一夜は、ワインとともにヴィトゲンシュタインの国を見渡しながら暮れていきました。 |
オーストリア
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マーラーは、死ぬときに
「墓石にはただ名前だけを書いてくれ」
と言い残しました。
「僕の墓を訪ねてくれるほどの人なら、ぼくが何者かはわかっているでしょう。そのほかの人に用はありません」
と語ったそうです。
わたしは、マーラーの墓を訪ねるほどの人ではありませんが、訪ねました。
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鈴木大拙が言ってますことを以下引用します。
『普通吾等の生活で気のつかぬことがあります、それは吾等の世界は一つでなくて、
二つの世界だということです。そうしてこの二つがそのままに一つだということで す。二つの世界の一つは感性と知性の世界、今一つは霊牲の世界です。これら二つの 世界の存在に気のついた人でも、実在の世界は感性と知性の世界で、今一つの霊性的 世界は非実在で、観念的で、空想の世界で、詩人や理想家やまたいわゆる霊性偏重主 義者の頭の中にだけあるものだときめているのです。しかし宗教的立場から見ます と、この霊性的世界ほど実在性をもったものはないのです。 それは感性的世界のに比すべくもないのです。一般には後者をもって具体的だと考えていますが、事実はそうでなくて、それは吾等の頭で再構成したものです。霊性的直覚の対象となるものではありません。感性の世界だけにいる人間がそれに満足しないで、何となく物足らぬ、不安の気分に襲われがちであるのは、そのためです。 何だか物でもなくしたような気がして、それの見つかるまではさまぎまの形で悩みぬくのです。 即ち霊性的世界の真実性に対するあこがれが無意識に人間の心を動かすのです。 これは大なる哲学の問題にもなりますが、それはとにかくとして、人生の日日は矛盾で充ちているものです。吾等は大抵それに気づかずに過ごすのでありますが、一旦気づき出すと、その解決に悩むものです。 悩みながら、あちらこちらと彷徨いつつ、何とかしてそれから離脱しょうとします。 このはてしない努力が進められるにつれて、今まで送って来た生活なるもののいかに不真実で無意味であったかということが次第にわかって来ます。この段階にまで進んで来ると、吾等は、何かしら次元を異にしたところに・・・・・。』 (とつづくのですが引用はここまでとします)
「次元を異にしたところに・・・・・」、その境位については「芸術作品の根源」において顕著に垣間見られるような気がしています。わたくしはエゴン・シーレ↓などにもとりわけ感性とか理性とかを超越したものを感じるのです。
門にエゴン・シーレと書いてあるのがオシャレ (トゥルンTullnにあるエゴン・シーレ博物館)
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カーレンベルクの丘で、つまらぬ随念とも言うべき記憶の湧出を危うく振り払って、
下りのバスに乗りました。夜の七時過ぎというのにまだほんの夕暮れです。15分ほ
どして途中下車しました。そして2010年8月の末、とあるホイリゲの門をくぐりまし
た。
ところで、過去の後悔と懺悔は誰にでもふいに訪れるるものではないでしょうか。
それは、齢を重ねれば重ねるほどその頻度が多くなるようです。
若気の至り、とでもいうような後悔から、その頃は確信していたのに今となればそう
ではなかったというような後悔など、なんと恥ずかしいことかと、いやいや全くもって
悪いことをしたもんだと、ふとした拍子に何の脈絡もなく脳裏に湧いて出てきます。
それは多くの場合、自分の言葉に溺れてしまった時であったことが多いのです。そ
の時は正しかったのだが、今となってみるとそうではなかった。いつでも自分を正当
化するため、自分を生かせるため、つまりすべて自分のために自分の言葉を分別し
たことの結果です。人の言葉や様々な想いはじつにその時限りのものであると言
うことです。時や場所とともに移ろうものなのです。
分別する?、そうなのです、「分別」とは実に怪しい。
「分別」とは、常識的に理性的に賢く振る舞うことなり。
これはじつはとても怪しいことなのだ。
白ワインを1リットル注文しました。リッターボトルとワインジョッキーを前にして、静
かな空間の訪れを意識しました。分別も理性も必要のない瞬間です。旅の旅たると
ころです。
「分別」の反対語は「無分別」。「無分別なことはするな」と教わって生きてきまし
た。これはこれでその通り。そうしないと社会が成り立ちません。
でも、世間的な常識や規範、判断は「多様」です。すると分別は絶対なのでしょうか。
判断は多様な概念を必要とします。そして、判断は対象とそれを把握する知識、つ
まり主観と客観という分別を必要とします。分別は、多様なものです。ですからその
ときは正しいと思っても、後になってみるとそうではなかったと言うことになります。
だから、人はなにかしら落ちつかない。なにか開けた場所に安住したいという気持
ちが潜在意識のどこかに残っているのです。
分別に生きて何が悪いのかということですが、どこかなにかしら落ちつかない、過
去の後悔と懺悔という随念から解放されない、ということであれば「分別」を超えたも
のがあるのだろうか。
旅の中では、なんとなくそれらしいものがありそうに思える、だから旅をしながらそれ
を見つけたい!
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ハイリゲンシュタット駅から、38Aのバスに乗りました。2010.8.23 のことです。 そのうち乗客がいなくなり、一人になりました。 そして山の中へ、これからいよいよ登りにさしかかるというところで、運転手はここまで だ、といって降ろされました。カーレンベルクは、というと次のバスを待て、と言う。 あまり理解できないまま、山の中の停留所で一人次のバスを待ちました。 やがて同じ38Aのバスがきましたが、行き先が違っています。 まあ、ともかくそのバスに乗りました。行き先表示の途中にカーレンベルクがあるのかな いのか、バスはどんどん山を登っていきます。 外国でバスや電車や地下鉄を乗っていて困るのは、停車駅を見逃してしまうことです。 たいてい車内放送はなくて、あってもなかなか聞き取れません。 カーレンベルクはすぐに分かりました。山の上に開けた大きな停車場には、帰りのバス を待つ人たちが列をなしていたからです。 夕暮れの山から見るウイーン市内は、吹き抜ける冷たい風に気持ちよく開けていまし た。 恋人達が寄り添い、家族連れの子供達がはしゃぎ回りる緑の中で、ビールを注文する しかありませんでした。そんな中、デッキに座りながら、ウイーンの街の色の変わってい くのをじっと見つめていました。 こういうときが危ないのです。とりとめのない過去への回帰に陥り、後悔と懺悔の嵐に 襲われる予感がしました。その予感を振り払うように早々に立ち上がって、今宵の酒 場、ホイリゲにむかう事にしました。
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